もくじ

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<1日目(2月4日)>
◉大熊町大野駅前
◉大野駅前商店街
◉大熊町役場
◉「小塚製炭試験場」と「捨て石塚」
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<2日目(2月5日)>
◉大野スクリーニング場
◉木村さんのお宅でお聞きしたお話
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<1日目(2月4日)>

◉大熊町大野駅前

 大野駅は、2020年3月14日に原発事故の影響で不通となっていた浪江-富岡駅間が開通し、駅として再開しました。大熊町は元々「熊村」と「大野村」が合併してできた町で、大野駅が開業した1904年は大野村だったため、大野駅という名前が使われています。当初は人を運ぶよりは運輸用で、戦前は燃料がこの駅から首都圏に送られていました。

◉大野駅前商店街

 震災前は魚屋さんやパン屋さんなどが立ち並んだ商店街でした。木村さんも中学生まではよく遊びに来ていたそうですが、それ以降は国道沿いに大型商業施設ができたため、そちらに通うようになったそうです。帰還困難区域が解除になってから建物の解体が進み、あっという間にこのような景色(写真①)になりました。先週あった建物も今はない、という状態です。

木村)除染とは「綺麗になっていく」ということではなく、「思い出のあるものがどんどんなくなっていく」ということです。帰還困難区域が解除されるということはそういうこと。「解除されてよかった」ということではない。町が消えていく。新しい街になっていく、とも取れるが、自然にそうなっていくならまだしも、原発事故によって奪われた状況。もう少し元いた住民に寄り添った復興を考えてほしいと思うし、住民も遠慮して言えない状況が多いと感じる。思い出の場所が残っていないのは寂しいなと思う。(写真①が現在、写真②の木村さんが持つファイルの写真が、かつての商店街の様子)

◉大熊町役場

 震災前に使われていた役場。11000人の暮らしていた町の役場にしては立派な建物です。これも解体されるという噂です。解除されて2年以内だと国から解体費用が出るそうです。

木村)残すことにももう少しお金を出して欲しいと感じます。
役場の駐車場から、避難のバスが出ました。何も聞かされないまま、気づいたら避難命令が出ていました。2、3日で帰れると信じてみんなバスに乗って避難しました。

◉「小塚製炭試験場」と「捨て石塚」

 大熊町には、「小塚製炭試験場」がありました。1940年に政府により設置されたものです。炭焼きの技術を学ぶために全国各地から人が集まっていました。当時、化石燃料が枯渇していたため、木炭は重宝されていました。

 この窯の跡地の付近には、石が積まれている場所があります。当時、炭の研修が終わった研修生たちが、石を積んで帰っていったという話です。現在原発がある場所に特攻隊の訓練基地だった磐城飛行場がかつては存在し、当時そこで訓練していた若者も手伝いに来ていて、帰るときには石を積んでいったという話もあります。(捨て石塚という名前がつけられたのは戦後)

「小塚製炭試験場」跡地は現在帰還困難区域内にあり、冬で道が凍っているため、今回は訪問を断念しましたが、その入り口付近を散策しました。

<2日目(2月5日)>

◉大野スクリーニング場

帰還困難区域に入るため、名前と車両の登録を行いました。参加者それぞれに被ばく量を図る装置と、防護服等一式が渡されました。着るか着ないかは本人の意思に任されます。

◉木村さんのお宅でお聞きしたお話

木村)ここが、私の自宅です。元々母屋があって、私が中学の時に増築した子供部屋と、2006年に新築した離れ。今私が立ってるのが玄関なんです。4枚引き戸の。下のタイルだけは残りました。ここで、両親、妻と子供2人と生活してました。

 行方不明だった妻は海で、父親は前の田んぼで見つかったんだけど、残念ながら次女の汐凪は見つからないという状況でした。その中で、住民に許可された一時帰宅を使って、1人で捜索を始めます。それでもね、2011年当時だと、年間3日、一回の立ち入りが2時間までだったので、大したことはできないですよね。

 結果がなかなか出ない中で、ここを中間貯蔵施設にするという話が出ます。それが2014年。その6月に住民説明会があったので、そこに参加します。あえてそこに行って、売る気も貸す気もありませんって言わせてもらいました。そしたら、そこの担当の環境省の方から、「ここに行方不明者がいるって初めて知りました」って。呆れました。そんなことも知らねぇで説明に来てんだ、って。もちろんこっちで仕事をしている環境省の方は知ってました。行方不明者がいることを知らなかった方は、東京から来た方だったんで、話を聞いてなかったんだなあ、って思うんですが、でも、非常にがっかりして。

 今ね、あそこで防潮堤の建設をしてます。防潮堤ってなんのために作られるんですかね?人の命を守るためだと思うんですよ。ここって生活してる人、誰もいないんですよ。そこの道路も2年前に再舗装された。生活する人がいないのに。県の職員に聞いたら、「津波で全部壊れたものを治すのが、復興なんです」って。それが本当に必要かどうかっていうことは考えない。あれは7メーターの防潮堤なんですよ。うちが立ってる土地より低いんです。うちは守ってくれねえんだって思って。おまけに2045年まで人は住めない。作るんだったら人が戻ってきてからでもいいんじゃないかなとも思うんですが。

 あそこに松が一本だけ残ってます。そこに2020年からミサゴが巣を作っていて。処理水が流される海から魚をとって、子に食べさせている。そういう営みが、あそこにはあるんですよ。なんか申し訳なくなってくる。人間は放射能のことわかってるから、逃げ出した場所じゃないですか。でも生き物にはわからない。そこで全うできる生を生きてるわけです。なんか人間ってズルくないですか。

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