もくじ

» ページ1
●「金陽会」 誕生の背景
» ページ2
●金陽会が世に知られるようになった理由
» ページ3
●金陽会はなぜ絵を描き続けたのか
» ページ4
●金陽会、主要メンバーの人と作品
» ページ5
●金陽会の作品に接して、あなたは何を感じますか?
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●「金陽会」 誕生の背景

——事務局:今日はハンセン病をめぐる病や差別のお話ではなく、そのなかから生まれた「金陽会」という絵画クラブの話を中心に、その暮らしや人生にどんな苦しみがあり、どんな表現があったのか、具体的に木村さんとみなさんが語り合えたらいいな、と考えています。では、木村さん、よろしくお願いします。

——木村:こんにちは、国立ハンセン病資料館の学芸員をしている木村哲也と申します。会場とオンラインのハイブリッド形式は初めてですが、どうぞよろしくお願いします。
 今回は事前に、みなさんにふたつのことをお願いしています。ひとつは私のことを知っていただくために、以前私が宮本常一のフィールドワークについて語ったテキストを読んでおいていただくこと。もうひとつは、今日お話しする「金陽会」で制作された絵画作品二十数点をあらかじめ見ていただいて、気に入った絵について、その理由や感想を考えておいていただくことです。今回みなさんにオンラインで共有していただいた金陽会の絵は、2019年に東村山市にある国立ハンセン病資料館で開催した、かなり大きな展覧会「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」(2019.4.27-7.31)で展示したすべての作品です。
 最初に自己紹介をします。もともと私のバックグラウンドは歴史学と民俗学です。私のテキストのタイトルにある宮本常一(みやもと・つねいち、1907-81年)も民俗学者で、民俗学のなかではいわゆる「傍流を歩いた人」と言われています。全国津々浦々を、本当に地べたを這うように歩いて、出会った人の話を記録に残していくような仕事をされた方で、その著作のひとつ『忘れられた日本人』(未来社、1960年)はその後岩波文庫に収録され、ずっと読み継がれています。今日そのお話はしませんが、「日本人」というカテゴリーから忘れ去られる存在はどの時代、どの地域にもいて、そうした人々を主人公にして、彼らの生きざまを聞き書きで紹介した本です。
 私が大学院で民俗学を学んでいた時、先輩か誰かが「宮本常一みたいな、ああいうスタイルの聞き書きは、もう今の時代にはできないよね」と言って、私はそれに食ってかかったことがありました。その人は、この本に登場するような昔の馬喰【ルビ:ばくろう】(馬などの家畜の売買に携わる人)や、明治維新に生きた人、当時の庶民の話は、もう聞くことができない時代になったという意味で言ったのかもしれませんが、私には「ああいうスタイルの聞き書きは、宮本常一で終わりだよね」というふうに聞こえたからです。
 でも私は、今現在も存在する、「日本人」というカテゴリーから忘れ去られる人たちの声が聞きたいと思った。そういう人たちと出会って、後世の人たちに再び彼らと「出会い直して」もらうための記録をつくる。そういうことに関心をもって、民俗学をずっとやってきました。この会場には、私がこれまで記録してきた聞き書きの本がありますから、直接手に取って、ぜひご覧になってみてください。
 では、今日の本題に入りましょう。金陽会絵画展の図録は人気があって在庫がなくなってしまい、今日みなさんに見ていただくことができませんが、この時展示した作品を紹介しながら、その絵についてみなさんと語り合ってみたいというのが本日のねらいです。
 「金陽会」は今も熊本県合志市にある、国立療養所(ハンセン病療養所)「菊池恵楓園」の中に設立された絵画クラブです。展覧会の様子を写したスライドを用意しましたので、ご覧ください。展覧会のタイトルは「キャンバスに集う」で、「生きるため、描き続けた」というキャッチコピーがつけられています。
 金陽会の歩みは、3つぐらいの時期に分かれます。今われわれが知ってるのは第3期で、2000年代以降がそれにあたります。発足は1953年。もともとは「金曜【曜に傍点】会」でした。看護課長の渡辺茂麿さんに絵の心得があって、入所者と一緒に絵を描くサークルをつくろうとなった時、渡辺さんの勤務の都合で金曜日にしか時間が取れなかったため、金曜日に集まる会、で、金曜会だった。当時のメンバーのお一人が言うには、最初自分たちの描いていた絵は、ものすごく暗かったそうです。そこで、会の名前くらいは明るくしようじゃないかということで、その後、金曜日の「曜」を太陽の「陽」に変えて「金陽会」にしたというんですね。
 金陽会がスタートした1953年はらい予防法が公布され、それをめぐる闘争があった年です。
 日本のハンセン病政策は1907(明治40)年に始まります。隔離政策が続き、満州事変が勃発した1931年には全患者の隔離が強制的に進められました。戦中の1943年にプロミンという特効薬ができると世界中で隔離政策をやめ、ハンセン病は化学療法で治る普通の病気として、在宅通院医療へと切り替えられていきました。日本でもプロミンの効果は目覚ましく、みるみる病状がよくなる人たちが続出して、元気になる。治っていくわけですね。で、1953年には治る病気にふさわしい法改正を望んで、非常に大きな患者運動が盛り上がります。ところがご存知のように日本では同じ1953年に、隔離政策を継続する戦後の新しいらい予防法が成立し、それが1996(平成8)年まで続きました。日本は世界中でも、ハンセン病にそこまで長期の隔離政策を継続した唯一の国と言えます。
 1953年8月に新しいらい予防法が成立して、療養所は政治運動に疲れた一種の虚脱状態というか、そのような空気が漂っていた。そんな時期の秋に「金陽会」は発足しています。同じ1953年の秋には、ジャンルは音楽ですが、岡山県にある国立療養所「長島愛生園」で、「青い鳥楽団」という非常に有名な盲人のハーモニカバンドが活動をスタートさせています。
 戦争が終わって戦後民主主義の世の中になり、療養所の患者たちも権利意識に目覚めるようになった。しかもプロミンという特効薬ができ、化学療法が始まったことで病状もよくなって、もうハンセン病である人はほとんどいなくなっていく。けれども日本のハンセン病政策の問題点の一つは、治ってもなお一生隔離が続き、死ぬまで療養所から出ていけない仕組みをつくってしまったことです。そのような状況のなかで、絵を描く人たちがグループをつくり始めたという背景があります。

●金陽会が世に知られるようになった理由

金陽会の第1期は細々とした活動で、途中でやめていったメンバーもいて、あとで紹介する2人だけがずっと絵を描き続けました。この時期のメンバーの名前も作品もほとんど残っていませんから、これから先金陽会の調査は進んでいくでしょうけれども、たぶんいちばん最後まで残る謎が、この第1期の活動の内容になるだろうと思います。
 そして第2期です。金陽会に第2期といわれる時期があったことは、非常に重要なことでした。というのも、全国には13のハンセン病の国立療養所があって、1950年代から60年代にかけては、どの療養所にも金陽会と同じように絵を描く人たちのクラブができて、盛んに活動しています。しかしそれもやがて自然消滅していき、1人、2人が細々と活動を続けたり、作品だけが残っていたりというような状況になってしまう。
 金陽会も同じようにその活動が停滞してくるのですが、ちょうどその頃に、原田三郎さんという人が菊池恵楓園に内科医として赴任してきます。この人が非常に絵に趣味のあった人で、今はもうほとんど活動していないようだけれども、絵画クラブがあって絵を描く人がいるなら、もう一度始めてみようじゃないかと呼びかけて、金陽会を再興した。中興の祖ですね。この原田さんを中心にもう一度メンバーが集まり始め、これから紹介するような作品を描いた10人くらいの人たちが第2期以降の主なメンバーとなっていきます。
 こうして金陽会の活動は継続し、それまでは、療養所で年に1度開催される文化祭で作品を発表してきました。しかし原田さんは、療養所の外で一般の画廊を借りて、そこでグループ展をやろうじゃないかと提案し、それが1980年に初めて実現しました。先ほどお話ししたようにらい予防法は1996年まで続きましたから、これは本当に隔離体制下の出来事でした。
 当時のメンバーの発言を読むと、まさか自分たちが、外の画廊を借りて絵画展ができるなんて思いもよらなかったと言っているんですね。それだけ原田さんは、療養所と社会をつなぐ非常に重要な役割を果たしたわけです。そして金陽会の11人のメンバーによる33点の作品展が、初めて療養所の外の熊日画廊で開催されます。しかもこの展覧会はそれ以降も1年おきに開催され、1998年まで10回開催されることになりました。これが第2期です。
 第3期は2000年代以降です。1996年に隔離を義務づけてきたらい予防法が廃止され、その後元患者たちによる国を相手取った裁判が起こります。らい予防法は廃止されたけれども、国は人権侵害の責任を取っていないではないかと、熊本と鹿児島の療養所の入所者13人が国を訴え、2001年に原告の全面勝訴で決着しました。当時の小泉純一郎首相は控訴を断念して判決が確定し、初めて国が行った人権侵害が認定されます。その時、ハンセン病問題は、世間的に大変注目を浴びたわけですね。熊本市現代美術館の副館長で、のちに館長となる美術評論家でキュレーターの南嶌宏さんが、地元の療養所を訪ねて、療養所の人たちが描く絵画を発見します。
 これは、アール・ブリュット(何らかの障害をもつ人など、正規の美術教育を受けていない人による芸術作品)にはつきものの「発見」の物語でもあるわけですが、ハンセン病の療養所にはこんなに素晴らしい絵を描いている人がたくさんいることを目の当たりにして、びっくりした。南嶌さんはそれらの作品を、人権啓発というような社会的な文脈を超えて、まず絵画作品として素晴らしいと、2003年には熊本市現代美術館で、公立の美術館として初めての金陽会の絵画展を開催しました。以後何度か展覧会が開催され、ここから金陽会の名は一気に知られるようになり、今に至っています。
 しかしこの第3期には、第2期からの主要メンバーが亡くなられていき、今もご存命なのは3人だけです。そのうちのたったお1人だけは、90歳を超えた今も絵を描き続けておられます。ですからメンバーはもうほとんど残っていないのですが、800点とも900点ともいわれるおびただしい数の作品が残っていた。そのことに南嶌さんはびっくりしたんですね。
 金陽会では、第1期に看護課長の渡辺茂麿さんがいて、第2期に原田三郎さんがいて、第3期には外部から南嶌宏さんが訪ねて来られた。たぶん世界中のアール・ブリュットはそういうものだと思いますが、地道に作品を保管する人がいたり、それを見つけて世に紹介する人がいたりして、この金陽会の場合も例外ではないんですね。
 繰り返しになりますが、ほかの療養所にも同じように活動を始めた絵画クラブはたくさんあって、それがやがて高齢化などいろいろな理由で停滞していくのはどこも一緒です。たとえば東村山市の国立療養所「多麿全生園」も絵画クラブの活動は盛んでした。20人からの描き手がいたのですが、その方が亡くなられたら作品も処分されてしまうことがずっと続いてきて、今では2〜3人の作品が残っているくらいです。全国の療養所がそうでした。しかしこの金陽会に限っては、作品がほとんどまるごと残っていたということが、ひとつの奇跡です。
 地元の九州では金陽会の絵画展が開催されてきましたが、2019年に国立ハンセン病資料館で東京では初めての大規模展を開催し、1万人以上の来場者を得て、大きな反響を呼びました。マスコミにもかなり取り上げられて、資料館の活動としても、空前絶後の評判を得た企画展となりました。会期後の9月にはNHKの番組「日曜美術館」でもメインで取り上げられ、ますます金陽会が世に知られるようになりました。

●金陽会はなぜ絵を描き続けたのか

絵画制作は、ハンセン病を患った人たちにとって非常に負担の大きな作業です。ハンセン病の後遺症として、多くの人には手指の感覚に麻痺が残ります。指が曲がったまま固まってしまう人もいますから、絵の具をチューブから出すことも非常に困難です。絵筆を握ること自体が非常に困難な中での創作活動だったわけですね。あるいは後遺症として視覚障害が起こる人もいます。失明して、絵を描くことを断念した人たちもたくさんいます。
 そうまでして彼らはなぜ描き続けたのか。先ほど90歳を超えてなお、1人だけ描き続けている人がいると紹介した吉山安彦さんは、「生きていくためには、どうしても私に絵を描くことが必要だった」と、直接私に語ってくれました。それだけやはり過酷な閉塞状況の療養生活で、楽しみを見出していかないと生きていくことができなかったんだ、と。
 アール・ブリュットの特徴は、専門的な美術教育をまったく受けていないということです。吉山さんも独学で、3年間自らに基礎的なデッサンを課して、それで技術を学んだといいます。もう1人、後で絵を見ていただく奥井喜美直(きみなお)さんは、ハンセン病療養所の入所者が通う高等学校で美術教育を受けただけです。金陽会ではこの2人が例外的に絵画の基礎を学んでいますが、それ以外の人たちは金陽会に入るまで絵の手ほどきを一切受けておらず、本当に自分の感覚だけで絵を描いた人たちです。ですから非常にタッチが個性的なんですね。独学でもデッサンを基礎から学んだ吉山さんには、デッサンが狂おうが、絵の具の使い方や配色がおかしかろうがお構いなしの仲間がたくさんいて、とてもマネできないというリスペクトがお互いにあった。そういう仲間がたくさんいたことは、金陽会にとってとてもよかった。
 もうひとつよかったのは、渡辺さんも原田さんも療養所の側の人たちですが、彼らは治療を目的として絵を描くことを勧めたわけではない、ということです。つまり、医療の制度の中に絵を描くことを位置づけなかった。これはすごく重要です。原田さんが書き残された文章には、「即座に結論が出る勝負事でもない。金になって返ってくる利益のあてのあるわけでもない」と功利的な目的を否定して、「美術を通じてお互いの交流のひろがりも増すようになると信じる」と、療養所で絵を描くことの意義が述べられています(原田三郎「絵を描く仲間のことども」『菊池野』第27巻第10号 、1976年11月)。外の画廊を借りて展覧会をしようというのは原田さんが最初に言い出したことで、メンバー自身は、療養所の外へ出るなんて絶対にできない時代です。ですから原田さんが外部とのつなぎ役になって、それが実現されていったわけです。
 仲間との絆は非常に重要です。メンバーにとって金陽会は、互いに学び合う場になっていきました。奥井さんは、吉山さんや中原繁敏さんという仲間たちと、よく絵についての議論をしたことや、仲間にアドバイスをもらって描くこともあったと、エピソードを語っています。また木下今朝義(けさよし)さんという方は、倉庫でしょっちゅう絵を描いている大山清長(大川一)さんの姿を見て、「よし、自分もいっちょう絵を描いてみようか」と思ったというんですね。この木下さんは、非常に個性的な絵を描くことになります。彼がもし大山さんと友だちでなかったら、あるいは大山さんが木下さんに絵を描くことを勧めなかったら、木下さんの個性的な作品は残らなかった。吉山さんも、奥井さんと「2人で、もう死ぬまで絵を描こうな」と、言葉をかけ合ったそうです。彼らがなぜ絵を描いたのか、ほかにももっともらしい理屈をつけることはできますが、そこに仲間がいたから、ということは非常に大きかったのだろうと思います。
 そして絵には、「社会との関係を結びなおす」力もありました。
 当初は園の中だけの発表に限られていたのですが、1980年以後18年、相当長い期間園外で熊日画廊での合同作品展が、開催されました。この時期の他園では絵画クラブの活動はもうほとんど衰えていましたが、発表の機会を得た金陽会は活動が盛り上がり、継続していきます。作品を見に来てくれる人がいることは、大いなる困難をもって療養所で生きる人たちを、すごく活気づけることになった。そうした金陽会のメンバーの発言も、かなり多く残されています。
 1996年のらい予防法廃止後も展覧会は続けられましたから、法律が廃止されても故郷に帰れない人たちがこれだけいると、マスコミの注目もすごく大きくなりました。とくに故郷や肉親を描くテーマの作品は、見る人に感動とともにハンセン病の人権問題の啓発の役割も担ってきたと考えられます。
 熊日画廊で展覧会が始まった1980年代の頃は、恐る恐る社会に向けて発表するような段階でした。1990年代になると元ハンセン病患者の人権保護やらい予防法廃止という社会的な関心も広がって、金陽会の絵画作品が、いわゆる啓発の役割を大きく担っていくようになります。そして2000年代に入るとアール・ブリュットやアウトサイダー・アートへの関心も高まって、先ほどお話ししたように、金陽会の作品が純粋に芸術作品として評価されていく。と、駆け足でしたが、これが金陽会の活動の大まかな流れになります。
 最後に「新たな発見への期待」というお話をしたいと思います。最初に第1期のメンバーの作品が残っていないと言いましたが、今年の8月に驚くべきことが起きました。今も刊行され続けている菊池恵楓園の機関誌『菊池野』では、毎号の表紙を入所者が撮った写真や金陽会の絵画作品が飾ってきました。その8月号の表紙に、第1期金陽会メンバーである宮田美喜雄さんという人の「佐敷港」という絵画作品が掲載されたのです。佐敷港は、熊本県の南の方にある港です。宮田さんは、私がこの展覧会を企画した時、第1期のこともなるべく残しておきたいと思い吉山さんに何度も何度もお話を聞いて、「何人かは覚えているけれども、作品も残ってないし、よくもう思い出せないんだ」と言われた方のお一人です。
 宮田さんは1954年、金陽会が結成された翌年に入所されて、かなり若くして、51歳で亡くなりました。作品は残っていないと思われていたのですが、奥さんがお元気で、奥さんのもとに1点だけ、この絵が残っていたのです。それが発見されて、この夏に表紙を飾りました。ただこうした発見も、その絵の意味や前後の文脈がわかる人がいないとできません。『菊池野』は入所者の方が直接編集をしていますから、ピンとくる人がいたんでしょうね。ですから、こういう新しい発見は、まだこれから先もあるかもしれないですね。

●金陽会、主要メンバーの人と作品

ではここからは作者や作品を簡単に紹介して、その後みなさんで感想を語り合いましょうか。展覧会では私のセレクトに加えて、吉山さんにも1点ずつセレクトしていただいています。

 1人目は入江章子さんです。この方は歌人でもあって、短歌もつくられます。自治会運動やいわゆる患者運動、政治運動もずいぶん盛んにされていて、ただ絵を描くだけではない方です。この人の絵は非常に優しいんですね。入江さんは静物画を多く描きました。単に習作ということではなく、入江さんはみんなが集まるアトリエではなく、自室で絵を描いていて、だから小さいサイズの静物画がすごく多いのだそうです。私は吉山さんからその話を聞いて、ハッとしました。自分の部屋で描けるものを描いているんですね。ですから単なる静物画に見えても、やはり療養所生活の影響はすごくあると思います。
 入江さんは人物画もたくさん描いています。吉山さんによると、入江さんの旦那さんは園の自治会の役員で、渉外係としてよそからくるお客さんの対応をする人だったそうです。カメラが趣味で、来客とともに撮った記念写真を本人に送るのを決まりにしていて、だから手元に人物写真がたくさん残るわけですね。それを入江さんがずっと絵画作品にしていたというんです。
 ですから 療養所の人ではない、さまざまなタイプの外部の人の人物画がたくさん残っている。しかもそのもとは、入江さんのご主人にとってコミュニケーションの手段の記念写真だった。入江さんの隔離され閉じられた療養所生活を考えると、その人物との関係性がまた別の意味合いを帯びてくるような気がします。これは私が入江さんの絵をずっと見ていった時に、人物画がやけに多いことに気づいて「何ですかね、この人たち。どういう人たちを描いているんですかね」と訊ねて、わかってきたことでした。
 入江さんの「園内風景」という作品は、菊池恵楓園に行ったことがある人ならどこを描いたものかすぐにわかります。中央にあるのは大きなクスノキで、恵楓園のシンボルです。背景の建物は、今はぜんぶ建て替えられましたが、園の中心地です。今もこのクスノキの下では、園の人が亡くなって火葬場に出棺していく最後のお別れ、いわゆる野辺送りが行われています。そういう意味でも、園の人たちにとってシンボリックな場所です。絵だけ見ると非常にのどかですが、ここにはおそらくいろいろな思い出が折り重なって、描く時に、入江さんのなかに思いが去来したと思うんです。絵だけではそういうことはわかりませんが、園の人に話を聞くと非常に話が弾む、そういう場所をしっかりと描いているんですね。

 次は大山清長さんです。大山さんは奄美大島の出身で、園名として最初は大川一と名乗っていたのですが、らい予防法廃止を機に本名の大山清長を名乗る選択をしました。この「園名」というのもみなさん聞き慣れないと思いますが、園では、入所の際に偽名を使うように勧められます。つまり本名でいると誰であるかがずっとついて回って、家族にも差別が及んでしまうので、もう別人として生きるんです。また故郷と縁を切って、園で生きるという意味もあります。
 大山さんはまだ子どもの頃に入所したと聞いています。ですから園名には子どもでも書ける字を選んだ、というより選ばされたんでしょうね。この話は私にとって非常に衝撃的でした。本名の大の字を残して、川と一と、子どもでも書ける園名をつけた。大山さんは患者運動の先頭に立つような人ではありませんでしたが、1996年のらい予防法の廃止を機に本名を名乗るようになったことは、らい予防法とその廃止が入所者にどんな意味をもったかを示す、ひとつのエピソードだと思います。
 大山さんは二度と故郷には帰れず、故郷の奄美大島を繰り返し繰り返し描きました。その作品は非常にユニークで、「奄美の豚」は、展覧会でも人気作品のひとつでした。この可愛らしい奄美の豚。奄美大島から沖縄にかけては、豚をずいぶんたくさん飼う場所ですね。これも、吉山さんは「自分にはとても描けない」と言う作品です。専門の美術教育を受けていないので必ずしもデッサンが正確ではないと思いますが、この色使いといい、非常にユーモラスな作品です。大山さんの作品は、ぜんぶ故郷の奄美大島を題材にしています。その背景には、病が治ってもなお療養所から出ていくことができず、終生故郷に帰ることができない仕組みがあり、そういう中で、望郷の思いを絵筆に託した人でした。大山さんは気前がいい人で、園外から来た人が「この絵いいね」と言うとぜんぶプレゼントしてしまい、だからこれだけユニークな作家なのに、残っている作品点数がものすごく少ないんです。

 次の奥井喜美直さんは、吉山さんのある意味ライバルだった人で、第1期の停滞期もこの2人だけはずっと絵を描いて、毎年秋の文化祭には欠かさず発表していたといいます。奥井さんも奄美大島の出身で、お父さんが漁師さんだったので、そういうモチーフの絵がいくつかあります。「アマダイ」は展覧会のメインイメージとした作品です。ほかに有名な絵はたくさんあるのですが、これは誰も注目していなかった作品で、初めてどんと大きく取り上げると、菊池恵楓園の方たちも「この絵は確かにいいね」「よくぞこの絵を選んだね」と言ってくれました。魚2匹が向かい合わせになっていて、オス・メスなのか夫婦なのか、それとも何なのか、いろいろなことを感じさせます。
 これも奄美の漁を描いた作品です。奥井さんはお父さんについてよく魚をとりに行っていたそうで、子どもの頃の思い出をこういったかたちで作品にしています。奥井さんは晩年指の障害がどんどん重くなっていって、満足に絵筆を握れなくなります。1980年以降の療養所ではゲートボールがすごく盛り上がっていて、奥井さんは仲間たちの仲のよい様子を絵にしています。若い頃と比べると、この頃にはもうほとんど描き込むことができなくなっています。吉山さんは、「自分はこういうタッチで絵を描けない。これは本当に素晴らしい」と言って、この絵を選びました。絵の具を重ねることも難しく、顔は絵筆の先でチョンチョンと触れるくらいですが、それでも描く。なおかつ描く。その選んだ題材が、療養所の友だち同士のゲートボールの姿でした。

 次の奥井紀子さんは、喜美直さんの奥さんです。結婚した喜美直さんが絵を描く人だったので、自分も描き始めました。1979年頃からですから、典型的な第2期以降のメンバーの1人です。キャンバスにも水彩で絵を描いています。共同のアトリエはありますがやはり狭いですから、紀子さんは自室で絵を描いていたそうです。どれも台所で描けるような、野菜や果物、鉢植えの花であるとか、そういう題材をたくさん描いた人です。先ほどの入江さんもそうですが、女性が部屋にこもって選んだ題材なんですね。紀子さんもそれを何枚も何枚も描き続けています。吉山さんはその中から「これも私にはマネできないよ」と言って、「かぼちゃ」という絵を選んでくれました。吉山さんは「まるでゴッホのタマネギの絵を見ているみたいだ。今にも動き出しそうじゃないか」と言うんです。紀子さんはご存命です。ただもう絵を描くことができなくなって、ご病気がちで療養に専念されています。
 これは阿蘇山を描いた絵です。こう朝日が昇ってくる、園から見える朝の風景ですね。療養所の中で紀子さんが描く題材を探していて、園からふと東を望むと阿蘇山が見えて、そこから朝日が昇ってきた、そういった絵です。

 次は木下今朝義さんです。大山(大川)さんと仲がよくて、大山さんが絵を描いているのを見て自分でも描き始めました。木下さんもまた、大変ユニークな絵を描くんですね。木下さんは子どもの頃にハンセン病を発症して、学校では差別されていじめられ、ほとんど学校に通えませんでした。先生からも「もう学校に来るな」と言われて、学齢期間にはずっと家にこもって、隠れるように生活していたそうです。やがてそれも続けられなくなって、強制隔離で園に入所するわけです。
 これは、まだ発症する前の小学校一年生の時を描いた「遠足」という作品です。小学校の唯一の楽しい思い出は、仲間たちと遠足に行けたことだったといいます。菜の花と桜の花が咲いていて、その唯一楽しかった友だちとの思い出を描いた作品だと言われています。最初はもっとぎっしり人が描かれていたそうですが、吉山さんが「こんなに人が並んでるのは不自然でおかしいよ。子どもたちの列なら、あいだあいだにスキマがあっていいんじゃないか」と批評して、木下さんはそういうアドバイスには聞く耳をもたない人だったそうですが、その時だけは腕組みしながらずっと考えて、「それもそうだな」と人を消していったといいます。吉山さんが思い出として、そう語ってくださいました。そうやって仲間たちと意見を言い合いながら創作活動をしていたんですね。
 これは実際に起きた事件を題材にした「集団脱走」という作品です。1932年、木下さんが入所した翌年に、入所者思いの職員が辞めさせられるというので、熊本県庁に辞めさせないでほしいと集団直訴するために入所者500人が隔離壁のコンクリートを越えて脱走する事件が起きます。実力行使ですね。その時の様子を描いたものです。このリーダーになったのが園内の消防団の人たちで、彼らの法被【ルビ:はっぴ】に描かれた「九」は、菊池恵楓園の戦前の呼び名である九州療養所の「九」です。非常に芸が細かい。当時木下さんも消防団にいたそうで、本当はついていくのは嫌だったけれど、親分の「てめーら行くぜ!」の声につられて出て、後ろを振り返ったら入所者たちがぞろぞろ列をなしていて、もう後には引けなくなったそうです。
 結局脱走は鎮圧され、要求は聞き入れられませんでしたが、絵はまさに園の壁を越えていくところ。この集団脱走は、やはり戦前の統制の厳しかった時代の入所者にとって、また園当局にとっても衝撃的な事件だったんだと思います。この絵をよく見ると、今も園内にいくつか残る、消防団につきものの防火水槽がちゃんと描かれています。私も園に行って、実際に見てきました。今はもう潰されたり塗り込められたりして、なくなってしまっているところもあるのですが、構図としてもこの防火水槽が非常に生きています。木下さんも絵の教育は受けておらず、自分の思うように描いているのですが、非常に面白い絵です。
 この「家族」という絵は、ほかはすべて菊池恵楓園から借りてきたのですが、この1点だけは国立ハンセン病資料館が所蔵している木下さんの絵です。先ほどからお話ししてきたように、入所者の多くは故郷や家族と縁を切って入所しています。しかし木下さんは幸い縁が切れることなく、よく家族が訪ねてきていたそうです。ただ、もう故郷には戻ることはなく園で亡くなったのですが、やはりこの絵には家族への特別な思いが感じられます。遠近感もおかしいし、全員がこっちを向いて見ているのも変な、不思議な感じの絵です。私が非常に好きな絵で、あえて資料館の収蔵庫から出してきて、展示しました。いろいろなことを思わせる絵です。

 次は天草出身の中原繁敏さん。監禁室を描いた「鎖」という絵は、らい予防法が廃止された後に制作されました。監禁室は、脱走した入所者などを収監する園内の懲罰施設です。この監禁室にはわざわざ鎖が巻かれ、しかも自由に歩きまわる野良猫が対比して描かれています。実物を見るとかなり生々しいのですが、血も描かれています。なぜ血が描かれているのか、残念ながら中原さんはもう亡くなっていますし、吉山さんも説明されませんでしたが、隔離法の廃止がこういう事実を思い起こさせて、中原さんにこの絵を描かせたのだろうと思います。これもいろいろなことを感じさせる絵です。
 それから「次郎岳」という作品では、中原さんの故郷の天草の山の風景が描かれています。この山の麓に中原さんの生家があったそうです。ですから一見ただの山の絵ですが、やはり望郷の絵と見ていいと思います。自分の生家から見上げた山の絵です。そして吉山さんが選んでくださった「命」という絵が、中原さんの絶筆となった作品です。この絵には、大きな木が朽ち果てて倒れようとしていて、その脇からひこばえの新しい芽が、ぴょっと出ようとしているところが描かれています。癌が進行していた中原さんは、これを描き終えて亡くなりました。ものすごく大きな絵です。しかもひとつひとつの質感がすごくて、展覧会の企画や選者の意図を超えて、見る人の心を打った作品のひとつでした。

 油絵を描く人が多かったなかで、水彩画を得意としたのが堀崎一雄さんです。「風景1」も美しい水彩画です。それから「阿蘇空海」は阿蘇山を描いた作品です。阿蘇山は仏さまが寝ている姿に見えると地元では言われているそうですね。みなさんご存知でしたか。私はそんなことをぜんぜん知らずにこの絵を選んだのですが、地元の人はそう見立てていて、「阿蘇の煙はへそから出る」という言葉もあるそうです。涅槃図ですね。堀崎さんもそれを知っていてというか、それを踏まえてこの絵を描いているはずですね。そういう絵です。

 第2期以降のメンバーの一人森繁美さんも、非常に個性的な人です。「しげみちゃん、しげみちゃん」と、みんなから慕われました。ただ、描いたのは「納骨堂」という作品です。本来なら遺骨は家族に引き取られて故郷のお墓に眠るのが理想の姿ですが、家族と縁を切って何十年も園で暮らし、家族に連絡しても、「うちとは関係ない」と遺骨の引き取りを拒否される人もいます。それも、拒否する家族が悪いのではなく、家族の人たちも世間では差別的な目で見られるということがあって、ハンセン病の患者を出したことを隠して生きているわけで、家族もまた被害者だと思います。そうして故郷に戻ることができなかった仲間たちが眠るのがこの納骨堂です。
 森さんも手指の障害がひどくて、絵の具を油で溶いたり、絵筆で色を混ぜることを端折って、チューブから出した絵の具をそのままキャンバスに押しつけて描いている箇所があります。木を見てもそうですが、絵の具がものすごく盛り上がった、非常に凹凸のある絵です。この作品も園内の風景です。同じ形のマッチ箱を並べたような一般舎がずっとあり、多い時で1000人以上の人たちが入所していました。1000人といえばもうひとつの村ですよね。そういう共同体です。園内にはヒノキが多く、見るとよくわかると思いますが、チューブから絞った絵の具がそのままキャンバスに重ねられています。
 これは吉山さんが選んだ、思い出深い森さんの阿蘇の山の絵です。その日、吉山さんは森さんと一緒にスケッチ旅行に出かけて、森さんはやはりひょうきんなところのある方で、ぜんぜんスケッチしようとしなかったそうです。吉山さんが「お前、どうして描かないんだ」と聞くと、森さんは、全部頭に入っているという意味で頭を指差して、それから帰ってきて一気に描き上げたのがこの絵だったそうです。吉山さんは、「とてもマネできない森繁美の世界。こんな色使いで阿蘇の山を表現することにびっくりした」と言います。先ほどの阿蘇山の絵と比べても、正確に山のかたちの特徴は捉えられていますが、色使いが非常に独特です。やはり直接チューブから出した絵の具で、ものすごい凸凹がある絵です。
 金陽会のリーダーは吉山さんでしたが、仲間たちの個性をスポイルせず、「自分にはとても描けない、本当に素晴らしい個性の持ち主だった」と今も繰り返しおっしゃっています。吉山さんが選んだ絵を並べてみると、やはりご自身では描けない絵を選ばれているんですね。この展覧会の準備では、そんなところも素晴らしいな、と思いました。

 矢野悟さんは今もお元気ですが、目が不自由になり、絵を描くことができなくなりました。NHKの日曜美術館では、「今でも片時も絵のことを忘れたことはない」とインタビューで応えておられました。絵をやめて長くなりますが、今もいちばん手の届きやすいところに絵筆をしまっているそうです。矢野さんには牛を描いた絵がたくさんあります。吉山さんいわく、矢野さんがスケッチに出かける近所には牛を飼っている開拓農家が多くて、仲良くなったからだそうです。この絵も面白くて、生きている牛と、絵を描く人がよくデッサンに使う牛骨が対比的に描かれています。生きている牛と、もう骸骨になってしまった牛。これも絵の前に立つと、いろんなことを思わせる絵です。
 「きょうだい」と 題されたこの作品は、展示作品の中でもいちばん大きい100号の絵です。
言葉で説明すると非常に野暮ですが、子どもの時に入所した矢野さんにはお姉さんがいますから、おそらく本人と、お姉さんと飼っていた犬が唯一の味方として描かれている。まわりには黒いシルエットが5つ。これをどう見るかですが、非常に恐ろしい顔でこっちを見ている影もあるし、視線も合わせず後ろを向く影もある。表情をもたない黒いシルエットとして描かれています。矢野さんはどういう気持ちでこの絵を完成させたのか。矢野さんは100号の大きな絵を集中して描き、たくさん残しています。吉山さんに聞くと、若い頃は幾晩も徹夜をして絵を描いていて、その集中力は本当にすごかったといいます。非常に訴えるものがあって、展覧会では、この絵の前に立ち止まって動けなくなる人を何人も見ました。

 最後は吉山安彦さんです。創立メンバーの1人で、今も唯一絵を描いていらっしゃいます。今年92歳ですが、とてもお元気です。この「陽だまり」という作品は、昔園内にあった小学校の分校の教室から見える隔離壁を描いています。療養所の高齢化により小学校がなくなり、金陽会は第2期に、空き家になっていたこの小学校をアトリエとして使わせてもらっていました。ですからこの場所は、メンバーにとっては仲間たちと集った思い出の場所でもあります。だけども目の前に見えるのは隔離壁のコンクリートです。入所者の脱走を防ぐための高いコンクリートが、そこに描かれた小鳥の親子——吉山さんはコジュケイだとおっしゃっていますが、その親子が壁を越えて遊びに来ている。
 吉山さんは親子の小鳥を描いています。日本のハンセン病政策のもっとも大きな特徴のひとつは、世界で唯一、患者に子どもをもつことを許さなかったことです。断種、堕胎を合法化した。結婚は認めるけれど、子どもができないように男性避妊、いわゆるパイプカット手術を強制し、女性が妊娠した場合は強制的に堕胎が行われた。そういうことが続けられてきたので、今に至る影響もものすごく大きいんですね。
 海外では、病が治ってしまえば子どもや孫と一緒に過ごすことができますが、日本では退所しても子どもも孫もいません。ハンセン病療養所の平均年齢は今はもう87歳で、親もいないし、兄弟も存命かどうかで、誰も頼る人がいない。みなさん口には出しませんが、家族をもつこと、子どもを残すことについては秘めた思いがあって、それがさりげない小鳥の親子に表されているのではないかと思います。しかも「陽だまり」という非常にポジティブなタイトルなのに、描かれているのは隔離壁です。そういう意味では、これも本当にいろんな思いのこもった絵だと思います。
 これは療養所近くの団地をある意味写実的に描いた、「昼の月」という作品です。吉山さんは、治った患者が外に出ていける制度があったら、自分も社会復帰できていただろうと言います。だけど結局この療養所に一生閉じ込められて、今もそこで暮らしている。ですからマイホーム生活への憧れはやはり人一倍あって、もし自分がこの病気でなかったら、こういう団地で、平凡だけれどもささやかな家族生活を営んでいたかもしれない、と思いながら描いたそうです。
 ここには、スーツを着て仕事に出かけようとしているサラリーマンの姿も描かれています。吉山さんは、これがひょっとしたら、あり得た自分の姿だったかもしれないとおっしゃるんですね。これも大きな絵です。ひとつひとつの家庭というか、部屋が描かれています。家庭生活の象徴である洗濯物や布団が干してあったりします。吉山さんはひとつひとつ絵筆を動かして、これをぜんぶ自分で描いているわけですね。しかも空には青い月が浮かんでいる。そういうやるせない思いと、いろんなことを思いながら、たぶんこれを完成させたのだろうと思うんですね。
 次は「潮騒」という作品。吉山さんは初期の頃には、幻想的な作風にも挑戦しています。吉山さんは天草の出身で「海育ちですけんね」とおっしゃっていて、故郷の海を幻想的に描いた作品がたくさんあります。その後は写実的な絵を描くようになったけれど、最近はまたこうした作風に戻っているんだと言って、新作を描かれています。何か不思議な、海のモチーフです。最後は「自画像」。吉山さんは、若い時からずいぶん多く自画像を描かれていますが、この自画像も、背景はやはり天草の故郷の海を思いながら描いたとおっしゃいます。

 作者と作品の紹介は以上です。残りの時間では、みなさんがこれらの絵をどのようにご覧になったか、お話しできればと思います。

●金陽会の作品に接して、あなたは何を感じますか?

——事務局:今、会場に6名、オンラインを合わせて20名ほどが参加されています。どなたか、気になった作品を挙げていただけますか。

ヨシタテ◉私が気になった作品は、堀崎さんの「風景1」と吉山さんの「潮騒」です。最初見た時に、いい絵だな、きれいな絵だなと思いました。気になって調べてみると恵楓園は海岸から10キロ以上内陸に入った場所にあるので、「潮騒」はいわゆる風景画ではなく、木村さんのお話にもあったように記憶のなかの故郷だと思いました。堀崎さんの「風景1」も、Googleマップで見るとその起伏が恵楓園の風景ではなさそうで、これも記憶のなかの風景でしょうか。そんなことが気になりました。あと、木村さんのお話で、矢野さんが失明された今でも絵筆を手元に置かれているというのがすごい。本当に生きていくために絵を描かれていたんだなという印象を受けました

木村◉せっかくですから、手を挙げてくださっている方に次々伺ってみましょう。

菅沼◉僕が選んだのは、吉山さんの「昼の月」と奥井喜美直さんの「アマダイ」です。「アマダイ」には、僕も木村さんの説明と同じような印象を受けていて、何かいい絵だなと思いました。吉山さんの「昼の月」は、僕自身も割と集合住宅のような合理的な形がたまに気になって見たりするので、共感できたというか……。洗濯物など集合住宅のベランダの風景や昼に見える月など、吉山さんの内省的な部分が出ているようで、とてもいいなと思いました。
 木村さんの解説では、吉山さんと奥井さんはある程度美術の教育を受けた方ということで、期せずしてそういう絵を選んだようですが、ほかの方の作品も、絵として何を表現したいかによって、構図や形、収める要素をどうするかということは、美術教育のあるなしにかかわらずみんな同じ条件で表現に取り組まれているということが、とても印象的でした。たとえば指の麻痺で、絵の具を直接チューブから出して描く森さんも、そうするところと、そうはしないところがあって、やはりご自身がどういうものを表現したいかということの表れであって、美術教育のあるなしにかかわらず出てくる個性なのかな、と感じました。

木村◉菅沼さんは絵を描かれますか?

菅沼◉一応アートワーク的なことはやります。もちろん多少のいろはは知っています。

木村◉最初にちゃんと言えばよかったのですが、私は学芸員ですが、美術のことはまったくわからなくて(笑)。でも金陽会の絵に出会って、本当に素晴らしいものだからどうしてもみなさんにご覧いただきたいということで、この展覧会を企画しました。こうしてお話をうかがうと、やはりちゃんと絵を学ばれた方もおられて、いろんな感想が聞けて、とても勉強になります。

保坂◉私が選んだのは木下さんの「遠足」です。自分の部屋に飾るとしたらどれがいいかなという基準で、素朴で明るい気分になるなと思って選びましたが、木村さんのお話を聞いて本当に胸が詰まるような思いになったというか。療養所の大変な暮らしの中で、子どもの頃の唯一の楽しい記憶を思い起こしながら、こういった色と構図で表現されたんだと思うと、最初に選んだ時とぜんぜん違う絵に見えて、自分の気持ちの変わりようを味わっているところです。菅沼さんが、絵の教育のあるなしに触れられていましたが、もしかすると教育やテクニックのない人の方が、魂の吹き出し方が、見る側の気持ちにダイレクトに入ってくるような気がして、ほかの人の作品も興味深く見ていました。

木村◉じつは展覧会でも、私はお客さんと接しながら「どの絵が印象に残りましたか」と同じ質問をしていました。その結果は結構ばらけていて、偏りがありませんでした。今3人にお話を伺っても、やはりばらけましたね。たぶんここから先も、いろんな作品が挙げられると思います。結果的には作品の選択がうまくいったなと、それでとてもよかったと、後になって思いました。じゃあ、会場にいらっしゃる方にもうかがいましょうか。

石畑◉私は木下さんの絵がすごく印象に残りました。「家族」は、あの中にご自身がいらっしゃるのか気になったんですけど、それはわかりますか。

木村◉たぶん、ご自身はいないと思います。こっちを見て写して……、これは家族の集合写真みたいですよね。庭で家族が全員集合して、しかも全員こっちを見ている絵など、木下さんはこういう構図の絵を何枚か残しています。ほのぼのとした絵にも見えるし、家族が全員私たちを射すくめるような視線というか、見られているという感じもする。彼が置かれた境遇をオーバーラップさせてみると、これはいろいろな見方ができて、いい作品ですよね。

石畑◉家族は向こう側にいて、自分はこっちにいるみたいな……。自分は中にはいないということは、やはりここに境界線があるという感じで。ほかの2点の絵も、すごく強烈な印象の出来事だったんだなと伝わってきます。「集団脱走」の、防火水槽の水に映った空と雲が描いてあるところにも、木下さんの絵心を感じました。
 こういう和やかな印象の絵がある一方で、すごく内省的な絵を描かれている方もいます。個人によって違うのは当然ですが、そのバリエーションもすごく感じました。アール・ブリュットでも知的な障害のある方だと、私たちの既成概念を超えた絵を描かれる方もいらっしゃいますが、金陽会のみなさんの絵は私たちと同じ世界にいる、感覚を共有できるような部分もあると感じました。ある種の施設という括りの中で、私たちと近い方がずっとそこで生活していらっしゃって描かれた絵なんだなと考えました。

木村◉本当にそうですよね。吉山さんも団地の絵(「昼の月」)を描く時、もし自分がこの療養所にいなかったら……、と思いながら描いたとおっしゃっていました。最近ではアール・ブリュットの研究が盛んですが、原義にさかのぼれば、べつに障害者の絵という意味はぜんぜんありません。専門的な絵の教育を受けていない人たちの残した作品ということでいえば、まさにこの金陽会の作品がそうであるわけですが、こうした作品はこれまで見過ごされていました。ハンセン病の療養所の方たちはアウトサイダーでもあり、そういう意味ではおそらく、アウトサイダー・アートって何だろうという、枠組み自体も揺るがすような作品群になっていると思います。

高塚◉最初に印象に残ったのは、中原繁敏さんの「鎖」というタイトルです。最初は絵だけ見て、猫にぱっと目がいって、小屋があって、右の方がちょっと明るくて、それが朝焼けなのか夕焼けなのかちょっとわからないけれど、たぶん太陽の光なのかなとか、緑に囲まれている、と思いした。で、タイトルをぱっと見た時、あっ「鎖」って書いてある。鎖なんてあったっけ、と、よくよく見たら、小屋の真ん中に鎖があって。しかも扉が固く閉ざされていて、下の黒いしみみたいなのは血なのかなと思ったりした時に、すごくハッとさせられたというか。
 今日の話で、これが閉じ込めるための場所だったということも改めてお聞きして、すごくそれが衝撃的だった。今回の作品全体を見た時に、色彩がすごく明るい絵が多いと感じたのですが、この絵だけ暗い色調で、でも完全に暗くなりきっているわけでもないと感じたりもして、視点が鋭い感じがすごく印象に残りました。この作品はらい予防法が廃止された後に描かれた作品ということでしたが、望郷の思いで描かれた作品もそうだと思いますが、自分がかつてそこにいたけれど今はいない、けれどそれを描くというその距離感が、みなさんの絵を描く動機になっていると感じられ、その点もすごく印象的でした。

木村◉地元の熊本では作品の里帰りということで、これまでも中心的メンバーの作品を故郷の奄美大島や天草などに戻して、故郷の人たちに見てもらう企画展が開催されています。当人はもう二度と帰れずに隔離施設の中で無念の思いで亡くなったけれども、ぜひ地元の人たちに作品をご覧いただきたい、と、そういう思いですね。
 先ほどの大山(大川)さんの「奄美風景」という故郷の海の絵は、非常に抽象的な絵に見えますが、地元ではどこそこの、どの場所から見た風景だと特定できるそうです。写真を見て描いたのでしょうか。一見ふにゃふにゃっとした絵に見えますが、じつは非常に特徴のある場所を描いていて、奄美大島のどこかが、わりとはっきり特定できる。大山さんのテーマはぜんぶ奄美大島ですから、本当に、家族や故郷を思いながら描かれたんでしょうね。
 今回、事前にはほかの情報を遮断して、絵だけを見ていただきました。まるで目隠ししてどこかへ連れて行って、ぱっと目隠しを外してそこで目に入る風景だけを目にして何がわかるか、何を感じるか話してみよう、というような方法です。私の話とはかなりギャップがあったかもしれません。最初にご覧になった印象と、私の話を聞いた後と……、どんな感想をおもちになったでしょうか。

事務局◉前提条件をさまざま説明した後で見てくださいというよりは、まずは見てくださいという方が、私としては面白い試みだと思いました。

木村◉本当にそうです。企画展には1万人を超える来場者がありましたが、とにかく絵を見たいから来てくれた。それまでのように「ここは人権学習をする場所」ということではなく、絵を見ることをとおして、非常に幅広い層の人たちにたくさん来ていただいた印象があります。来場者も先入観なく来られて、絵を見てまずびっくりして、常設展でハンセン病のことを知って二度驚くというような方もいらっしゃったようです。

事務局◉私も感想を、いいでしょうか。木下さんの赤い子供たちが並ぶ「遠足」の絵は、あとで緑を塗って子どもたちを少なくしていったそうですが、この人だけ1人ぼっちなのがすごい気になって。この人だけ意図的に1人にしたのかな、と。

木村◉「一糸乱れない行進はおかしい」と吉山さんに指摘されて、後で考えながら人数を減らしていったそうですから、そういうこともあるかもしれませんよ。先生は見ているけれど、列をはみ出す子もいるだろうし、友達との話に興じて列を乱す子もいるだろうし……。  

事務局◉木下さんは赤がお好きなんですかね。「集団脱走」の人たちの着ている服も赤でした。

木村◉確かにそうですね。  

事務局◉「家族」の絵には自分はいないということでしたが、この列に自分はいるのでしょうか。

木村◉どうでしょう。はっきりしたことは私にもわからないので、想像してみるしかないですよね。1人ぼっちの人は誰か、あるいはそこまでの意味はないのか。ただこの「遠足」という作品も、何か他の展覧会のメインビジュアルに選ばれたことがある、人気のある作品です。

山崎◉私は、奥井紀子さんの「朝の風景」を選びました。すっきりした静かな、朝の雰囲気がいいなぁと思って。それが、自分の実家から見える空と山の朝の色に似ているので、ちょっと親近感がわいたんですね。でもよくその絵を見ていると、鳥の目の下がちょっとだけ黒く滲んでいて、塗った絵の具がちょっと垂れたのかなとも思いましたが、もしこれが意図的なものだったら、鳥が悲しそうに見えてきて……。右上には太陽が大きくビカビカ光っているけれど、鳥はちょっと悲しいけれどその空を、羽を広げて飛んでいるように見えて、またそれもいいな、と。最終的には、作者が鳥に自分を重ねているのかなぁとも思えて、お気に入りの絵になりました。

木村◉ありがとうございます。1枚の絵がみなさんにたくさんの言葉を思い起こさせることに、今日私は、「絵の力」を教えられた気がします。紀子さんは部屋にこもって本当に小さなサイズの絵を描いていらしたということですが、こんなふうに外の風景を描くこともあったんですね。絵を選ぶ時に気がつきました。そして、山崎さんが指摘された鳥の意味。らい予防法撤廃以前の療養所では、外に出ると、中原さんが描いたような監禁室に入れられてしまう。ですから自由に飛びまわる鳥は、ただの鳥ではないはずです。
 金陽会の絵は、何点か資料館で見ることができます。たとえばロビーには入江章子さんの別の作品がかかっていたり、奥井喜美直さんの大きな絵は、今ちょうど常設展に出ています。作品を直接ご覧になると、また印象や感想も違ってくると思います。今日紹介した以外の作品も展示されています。今はコロナ禍で事前予約制ですが、それもいずれ解除されると思いますので、ぜひまた資料館へ足をお運びください。今日は、ありがとうございました。

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