●堀之内に滞在して

 前回11月27日は、多摩地域で“引っかかったこと”から、今後どんなことを取材していきたいかお話しました。具体的には、八王子市の堀之内という地域で、酪農家の方たちが土地を守るために戦った歴史であるニュータウン開発反対運動のことや、堀之内近隣を実際に歩いて感じたこと、その運動の中心にいた鈴木さんに会うまでのことをお話ししました。
 11月に、鈴木さんには、今自分が取り組んでいる撮影やこのワークショップのことをお話しして、その中で鈴木さんの日常の暮らしに密着しながら取材をさせていただきたいとお願いしたところ、了承してくれました。
 12月は2回堀之内を訪れ、撮影をさせていただきました。今日は、その報告をしたいと思います。また、1回目の取材で撮った写真は簡単にデータにしたので、少しお見せしたいと思っています。あと、気づいたことをどうまとめていこうかなという迷いや悩みもあるので、そのことについても少しお話しして終われたらと思います。

 今回は、鈴木さんにお会いするのがまだ二度目ということもあって、まずは普段の暮らしがどんなものかということ、家族とどう関わっていて、どんな生活をしていてという、とにかく鈴木さんの人となりというか、普段どんな顔をして暮らしているのかなということを知りたかったので、あまり移動はせずに堀之内にずっと滞在していました。[fig.①]

 この写真の場所が、滞在していた場所です。ここは鈴木さんの牛舎がある場所です。今回、そのすぐ横の堆肥小屋にあるキャンピングカーをお借りできることになって、そこに滞在していました。鈴木さんの家からも歩いてすぐのところです。
 私が以前、熊本で、黒岩の取材をする前につないでくれた方が、病院だったり人に会うときは、よそゆきの顔をしますとおっしゃっていたんですね。ワークショップ2回目に黒岩から中継したときもそうなのですが、普段そこの暮らしを見ていた私からすると、やはり服装とか見た目だとかもそうだけど、家とか畑にいるときとは違う感じがする。ちょっとよそゆきの格好をしてきて、関東の方に話すということで、慣れない標準語を話していたんです。それでも方言が強かったと思うんですけれども。私がいろいろな人を連れてくるから協力してくれる優しさも感じるんですが、その表情がちょっとやっぱり普段と違っていて、そういうところに違和感も感じつつ、撮影をするときはその表情がなくなるまで、少しずつ、相手の性質を見ながら、そういうふうにならないように、ひきながらということを繰り返しながら撮っていました。
 今回は、12月2日~6日までと16日~20日まで、私の仕事の都合と、あとは鈴木さんの体調と予定に合わせて動きました。1回目は昔の友達とオンライン上で会うということと、2回目はクリスマスのイベントに合わせて上京しました。鈴木さんは毎年、石巻市に行って、サンタに扮して障害者福祉施設でプレゼントを配っていたそうなんですね。それが去年と今年は新型コロナウイルスの影響でできないので、今年は地元で子ども食堂やワンコイン塾をしている方との縁で、八王子市役所の集会場でおこなわれたクリスマスパーティに参加されると。そのクリスマスのイベントは鈴木さんがとても大事にしているという話を伺っていました。
 次は1月の最終週に上京を予定しています。今回、上京してきたときの印象ですが、前回行ったときもそうだったのですが、地域がオープンというか、よその人に対してあまり閉鎖感がないような印象がとても強かったです。
 というのも、水俣もそうなのですが、黒岩とかはもっと小さな集落なので、すごく閉鎖的な感じがして、そのコミュニティに入っていくだけでも時間が必要だったというか、いまだにつかめないところもあって、難しさを感じている部分でもあります。なので、なおさらオープンさが印象に残りました。

●堀之内という場所
豊田│地域性がすごくオープンなことを感じたのですが、そのベースには新規の就農者を受け入れてきたり、障害者施設を立ち上げたり、そういうところがあるのかもしれません。
 簡単に、堀之内がどういうところかお話ししたいと思います。堀之内は多摩ニュータウンでは西北部に位置する場所です。現在は八王子市なのですが、1889年に周辺の11の村が合併し、南多摩郡由木村となって、その大字(おおあざ)の一部が堀之内でした。その後1964年に八王子市と合併して今の形になっているみたいです。さらにさかのぼると、江戸時代は堀之内村として、一つの村としてあったことが記録には残っているみたいです。
 堀之内の大半はニュータウン建設地域になっています。団地のような集合住宅もあるのですが、最近はタウンハウスという、戸建の家で住宅地の開発が進んでいる印象がありました。かつては酪農をはじめ養蚕や農家が盛んだったと思うのですが、そういう風景は今はあまりありませんでした。

 鈴木さんのお宅に昭和24年の航空写真があって、それを見ながら、今との地形の違いや、ここの家がこういう運動を働いて、ここの土地を売ったとかということをいろいろ話してくれたんですが、この開発の進行の過程とかがすごくわかりやすくて。国土地理院に、昭和20~30年代から今の時代までの航空写真がそろっていると思うので、次回取材しに行くまでの1カ月のあいだで、航空写真の話とか、この前話してくれた話とかもまとめながら、どういう変遷をたどっていたかということを調べていきたいと思っています。
 たくさん資料を集めて調べることはしているのですが、とはいえ、資料はあくまでも資料です。自分で歩いていくことで何かわかってくること、歩いて、見て、聞いて、人と会って話して、自分の感覚をつかみながら歩いていくことのほうが大事だと思うので、これはあくまでも参考にしつつ、実際に歩いてみる。何がいいとか悪いとかではなく、成功、失敗とかでもなくて、まずは思ったことからアクションしていくことが大事だと思います。
 またそのアクションしていった先に、さらにそれを他者にどう見えているか、私の場合は見てもらいたいと思う人にアポをとって会いにいったりするんですが、相手がどういうふうにこれを見て感じたかということを確認したり、初めからもう1回自分がどういうことを考えているかということを、何回も繰り返し確認するようなことをしています。

●リサーチを大事にしながら、アクションしていく

 ただ、今話したこととちょっと矛盾するかもしれませんが、実際はアクションすることと同じぐらい、リサーチをすることは大事だと思っています。
 私が黒岩という集落を撮っているのは、ただ単に田舎の暮らしが残っているから、それがよくて撮っているわけではなくて、根底に水俣病があって。だから、水俣病自体のこともそうなんですけど、どういう背景があって、どんな暮らしがあったかということ。流通がどうだとか、状況や食のルートがどうかという、今と昔の生活圏の違いを比較してみたりだとか、その根拠の部分というのは探っていかないといけないと思っています。
 ただ田舎だから黒岩地域を撮っているだけではなくて、そこで写真を撮っていく中で、じゃあ自分はそこで何を言いたいのか、何を発するのか、その発する言葉が自分にとっては写真だと思うのですが、この部分が構築できていないと、写真がとても浅いものになるというか、ちょっとちぐはぐなところが生まれてくると思います。
 あとは、私は相手に押し付けたり、糾弾するような発し方があまり得意ではないので、見る人には自由な視点で、自分の視点で見てほしいとは思うんだけど、それを発する私のほうは、自分がどう考えているかとか、何を見せたいのかとか、そういう自分の意思ははっきりもっておかないといけないだろうとは思っています。そのためにも、リサーチすることと実際に歩くことは同じぐらい大事にすべきことでもあります。
 写真というか、作品にとって深みを出していくのはそういう基盤があってだと思っています。私もなんでもできるわけではないので、自分ができる範囲、調べられる範囲にはなってしまいますが、できるかぎりは、人に会ったり実際に歩いたりして調べることを心がけています。
 あとは社会問題ということを含むので、もちろんすべてを知ることも理解することもできないのですが、何かあったときに知らないとかってあまり理由にはならないと思っていて。万が一何か言われたときに、自分にそれが向く分にはいいですけど、撮らせてもらっている相手やその人たちの暮らしに何か影響があることは避けたいというか。撮らせてもらう上での責任として、最低限ちゃんとしておくことはしていかないといけないと思います。
 撮影とリサーチを広げて、最後に自分が何を表現したいかということを見直していくことでずっと絞っていって、それに沿って削いでいっています。

●写真のコンタクトシート

 写真のコンタクトシートというのを撮った後につくるんですね。こういう感じです。

 これ1枚でフィルム1本分になるのですが、デジタルとかだと一覧で見られるのですが、フィルムの場合は36枚撮りの、横6枚縦6枚で1枚の紙をコンタクトシートとしてつくっていきます。これが最初の段階になります。これを、私の場合は2LやLサイズのサービス版の小さなプリントにして、それを壁に張り巡らせて、自分が気づいたキーワードをどんどん壁に1回貼ってみて、何が気になるか、この写真はどうかということをずっと考えていく作業をします。
 これをただのインデックスと言う人もいるのですが、私はこれは一番重要なものだと思っています。コンタクトシートをクローズアップした書籍もあります。参考までにご紹介すると、『写真家のコンタクト探検―一枚の名作はどう選ばれたか 』(松本徳彦著、平凡社、1996年)や、『魚人』(田附勝著、T&M Projects、2017年)。あとは大きいですが『MAGNUM CONTACT SHEETS(マグナム・コンタクトシート)写真家の眼―フィルムに残された生の痕跡』(クリステン・リュッベン編集、青幻舎、2011年)などがあります。
 人のコンタクトシートを見られる機会ってとても嬉しくてありがたいんですが、同時に撮影者の内面とか心情の部分に上がり込んでいくようなところがあって、少し申し訳なさというか、お邪魔させていただくような感じが私としてはあります。自分のを見せるときは嘘をつけなくなるというか、さらけ出すような、ちょっと怖さのようなものがあって。
 本来、作品で見る写真というのは、この中から選ばれたものだったり、コンタクトシートの中のさらに一部分をトリミングしたものだったりするので、ごくごく一部でしかないのですが、これをぜんぶ見せることによって、時間軸もそうだし、または撮影者の行動がどうだったかということもわかります。あとは、相手の距離感だったり、お互いの、こっちから見ている視線はもちろん、この画として写っているのでわかるんですけど、相手の視線がどういうふうに向いていたかということも、いろいろ読み取れて。このコンタクトシート1枚から読み取れる情報がものすごく多いので、写真の裏側がわかっていると、いろいろな想像ができるものかと思っています。

●今回撮影した写真『鈴木さん家の日常(仮)』

 ここで、今回撮った写真を簡単に20枚ぐらいお見せしたいと思います。まだ何が表現したいとかということではなく、鈴木さんの暮らしから何を思ったかとか、制作過程をお見せする程度とは思うんですけど、その状況も含めて見ていただけたらと思います。

 『鈴木さん家の日常(仮)』。
 数年前に奥様が倒れられてから、鈴木さんは介護をしながら普段生活しているんですけど、ご自身もがんということもあって、あと今年から新薬を始めて、その副作用がきついということで、ショートステイというものを増やしながら、そこのバランスをとりながら、介護を自分でしながら暮らしているということです。

 これはショートステイに行く朝で、お迎えを待っているときですね。

 これは自宅に戻って自分の朝ごはんというか、お昼ごはん。

 これは家の裏の畑なんですけど、おもむろに畑に何か燃やしに行くかと言って、煙を眺めながら二人でぽつぽつと話しながら、ニュータウン開発のときのことや、家のことだったり、お父さんのことをいろいろ話してくださいました。

 これが鈴木さんです。

 これは私が滞在させてもらっている堆肥小屋で、実際に今も堆肥のお仕事はされていて、その作業の一部を撮らせてもらったんですけど。こんな感じですね。

 これが、がんの闘病の薬です。今年の4月から新薬を飲むようになったので、その副作用と闘いながら普段は過ごされています。

 これはおうちの、奥さんのベッドの横なんですけども、ベッドの横の壁には、昔の若かったころだとか、自分が飼っている犬の写真だとか、そういうのがいっぱい張り巡らされています。

 これは、鈴木さんの食事のあとの片づけの様子ですね。[fig.⑭]

 これは病院。月に1、2回、がんの治療のために病院に行くんですけど、血液のがんなので、採血をして、その血液を調べて、どういうふうにしていくかということで、点滴をするかとか、そういうことをしていろいろ決めているときの写真です。

●今後に向けて
 こんな感じで、ざっと撮った写真を並べさせてもらったんですけど。これはまだ、鈴木さんの日常の暮らしの外見をとらえただけで、本質的には触れられていないところがあると思います。
 今回取材に行ってみて思ったことは、いろいろな農地開発とかで運動に携わってこられているので、もう少し私も法だとか、取り決めだとか、そういったことについて、開発の裏で何が起きていたかということを調べる必要性を感じています。それをしないことには、暮らしの外見だけとらえても何も伝えられることがないなと思っていて。
 亨さんの話を聞いていると、生産緑地法のことや都市計画法とか、いろいろな言葉が出てきます。あと農地法ですね。ニュータウンにはその当時なかったので、障害者福祉施設をご自身で設立されるのですが、そこにも市街化調整区域でいろいろ規制があったんだけど、社会福祉法人なら設立できるということで、ご自身でいろいろなところに出向かれて、動いて、かたくりの会という社会福祉法人の施設を建てられています。そういうところの規制の裏側というか、どういうことが起きて、時系列で知ることもそうなんですけど、その政策自体がどういうものなのかということも知らないといけないと感じました。
 あとは、新規就農者の受け入れを鈴木さんはされています。それは八王子市でも初期の頃からされていることで、鈴木さんのところには、八王子市で5人目の新規就農者の方が来られて、その方から何人か増えていって、フィオ(FIO)という会社を立ち上げて活動されています。牛舎を改装して事務所にしていたり、福祉施設の方たちが活動できるような場にしているんですけれども、そこの法の部分だったりを知らないと掘り下げられないなということを強く感じました。
 もう一つ気になったのが新規就農者の人たちとの関係です。新規就農者の人たちは、それが最初から収入につながるということはないので、亨さんのところの畑を借りにいって、それと同時に管理する障害者福祉施設で働くことになるんですね。その中で自分たちがどういうふうにしていけばいいかということで動いて、八王子市では貸し出しの市民農園とかも新規就農者の方たちが動いて始めたりされています。
 最初は鈴木さんの計らいでこういう農地を借りたんだけど、いろいろ動いていくことによって、逆に鈴木さんもそこからいろいろなパワーを吸収しているというか、とてもいい人間関係というか、すごく活動の循環がいいなと思っています。堆肥小屋の横に事務所があるので、若い新規就農の方たちとも話す機会は結構あって、その人たちから聞く鈴木さんに対する信頼の抱き方もそうだし、また別の面が見えておもしろいというか、いろいろな発見がありました。そこの関係性に関しても深めていきたいと思っています。
 次に行けるのは1月末ですが、それまでに、この政策の部分や社会の仕組みについてもう少し深く掘り下げて、撮影することをもっと絞って取り組めたらと思います。

●参加者との意見交換

事務局│ありがとうございました。コンタクトシートについて。確かに時系列でシャッターを押した順番に並んでいるので、その変化があるし、コンタクトシートは嘘をつけないみたいなことであるとか。撮った自分の視線だけではなく、相手の視線もそこに写っているということとか。すごくおもしろいなと。しかも、豊田さんがそれを一番大事だとおっしゃっているところもとても興味深いなと。

森山│さっき見せていただいた『鈴木さん家の日常(仮)』の写真を見たときに、その人が、自分が写されているという意識がないくらいまでいくのってすごく難しいんだなと思いました。生活の一部みたいな写真なんですけど、まだ鈴木さんの体の緊張感みたいなものが少し残っているのかなと、パッと見の印象で思いました。写されているなとちょっとは意識しているんだなと。豊田さんの水俣での写真と比べて、まだ短期間なので当たり前だと思うのですが、そういうのを写すのって難しいんだと思いました。

事務局│私は逆に、鈴木さんがどんな方か私はお会いしたことないのでわからないのだけど、鈴木さんの緊張はあるのかもしれないけれど、この短期間によく病院まで一緒に行って、ごはんのお茶碗の写真も撮らせてもらったりとか。緊張のことはともかくとして、関係性として、よくそこまでこの短期間でいった。いったという言い方は変ですけれども、そういうふうになったんだなと、とても驚きました。
 私の写真の感想を言ってしまうと、やっぱり鈴木さんの緊張だけではなくて、見る豊田さんのまなざしがすごくクリアに感じられるなという感じがしました。

森山│そう、だから逆に。いや、本当にすごいと思いますよ、この短期間で。だから水俣の写真がどれだけ溶け込んでというのかわからないですが、どれだけ時間をかけていたものかというのがあらためてわかったというか。

豊田│撮影をしていて思ったのは、緊張もあると思うんですけど、私がどういう人間かというのを見定めているんだろうなというところはすごく感じましたね。撮られていることも意識はしているんだろうけど、この人はどういう人だろうかと、単純にそういうことを疑問に思っていたり。いろいろ入り込ませてはいただいているけど、まだそこまでちゃんと関係としては成立していないというか、そういう印象を抱いたんですけど、写真もそういうのはすごく出るんじゃないかと思います。

事務局│そのプロセス自体もすごく大事な気がするんですよね。理解していく過程で、少しずつ写真も変わっていく、そのプロセスがすごく大事だと私は見ていて思いました。

森山│見れてラッキー。

事務局│私もそう思いました。参加者の皆さん、どうでしょう。皆さんも今それぞれにフィールドワークを始めていると思うので、それと関連して何かお話しいただけることがあれば伺いたいです。
 
参加者1│お話ありがとうございました。自分は今、三鷹に住んでいて、職場が武蔵野市というのもあって、武蔵野市と三鷹市の気になっている場所を調べたり、歩いてみたりしています。
 豊田さんの活動を聞いたり写真を見せていただいたりして、すごいなといつも思うのは、すごく人と関わろうとされているというか。自分は、人と会ってコミュニケーションをするというのがすごく体力が要ることだというのは常日頃感じていて。自分自身もそんなに人としゃべるのが得意じゃない部分もあるので、今の自分がやっているフィールドワークも、あまりそこの部分はできていないと感じています。
 それを3月までに自分がやれるのかどうかも正直わからないですけれど、豊田さんの活動を見るにつけ、やはりそこがすごいなと思うし、土地を語るときに、人とか人の暮らしって欠かせないんだなということはすごく感じます。そこから、そこの町の、そこの土地で暮らす人のお話や日常から、その場所が立ち上がってくるみたいなことを目的にしているのかなと考えています。

事務局│今、武蔵野市と三鷹市で写真を撮っていらっしゃるんですか?

参加者1│写真を撮ったり、動画を撮ったりしています。具体的には、三鷹駅のちょっと西に、陸橋があって。そこがもう撤去される、壊されることは決定しているのですが、天気がいいと富士山が見えたり、すぐ下を中央線が走っていて、土日、休みの日には子どもたちが集まってくる人気スポットです。そこを定点観測していて、そういう、いずれなくなるんだけど今はあって、その場所の記憶みたいなものに少し興味があるので、そういうのを撮りためていけるといいなということで、今は少しずつそれを進めています。

事務局│なくなること、新聞にも大きく出ていましたね。私も懐かしいです。30年以上前に、三鷹の駅って、ちょうど8時台に、働いている人があそこでラジオ体操をしていたんです。通勤しているときに、電車からラジオ体操をしているのが見えたの。

参加者1│橋の上でやっていたんですか。

事務局│橋の上じゃないんだけど。操作場みたいなところでラジオ体操をしていたの。ある世代以上の人はそのことをよく知っていると思います。ちょっと古い駅の印象もありますよね。歴史を感じるところもあるかなと思います。

参加者2│今、地域で外国の方との関わり合いが何かできないかなと考えています。これまで関わっていた日本語教室は、今は新型コロナウイルスの影響で人も減っているので、そこなのか、もう一つ別に立ち上げるのかわからないですが、そういうことを考えていました。
 豊田さんのお話を聞いて、資料を読んだりしたことが自分の考えの中に出てくる、変わっていくのか、と。私はそういうふうには思っていなかったところがあって。うーんと思いつつ、どうやって組み立てようかなと今思っているところです。

事務局│豊田さんは、テキストとか資料を読まれているけど、単に知識を入れているだけではなく、相手の人と会うときに、そのことがどういうことなのかがもっとリアルにわかっていたら、関係も違ってくると考えているのかなと思いました。そういう意味では、資料の取り扱い方や位置付けみたいなものもすごく大事なんだろうなと。ただ単に情報として知識があればいいということではなくて、そういうものと自分の経験がどう重なっていくのかということもすごく大きなポイントなんだろうなと思いました。

参加者2│フィールドワーク的な仕事というか、個人的に非公式なことはやっていて、それについての手がかりになるかと思って今回ワークショップに参加させていただいています。僕の場合は、興味をもってくれた人と接続するという形でやっているんですね。その対象というのは、基本的には面識のない知らない人ということで、そのときだけの相手というような形がいいなと思って、そういう機会を大変マイペースな形で進めています。
 そういった意味では豊田さんのアプローチとは違うのかもしれませんが、今回のワークショップで思っているのは、リサーチと実際の行動とのバランスというか。関係のない関係性みたいなところに興味があるのかなと思って、自分のやっていることを客観的に今回勉強させてもらっているようなところがあります。
 
事務局│関係のない関係性みたいな、だけど必ずそこに人がいるということなのかなとお話を伺っていて思いました。豊田さんのようなアプローチの仕方もあるし、そういう近寄っていき方というか、自分以外の人に歩み寄っていく歩みってあるんだなというのはおもしろいなと思いました。

豊田│私はどちらかというとコミュニティに入り込むタイプの撮影の方法で。その相手に何かを思って、対象の人に惚れ惚れしてしまうところがあって、そこに入り込みたいと思うので、その人に近づいていくことをしています。逆に、観察的な撮影の手法をもつ人もいると思います。そのコミュニティに入らないで、ただそこにいて、見ているだけ。あくまでもそれを撮っていく中で取り組んでいく人もいて。
 取材の仕方というか、取り組み方は様々なので。自分で自分の仕方を、ほかの人の模倣をしながらでもいいし、そういうのを行ったり来たりしながら、自分は最終的に何がしたいかということを見つけていけばいいと思っています。だから、観察的手法もすごくおもしろいなと思ったことはあります。
 あと、コミュニティに入っていくと、どうしても撮影と生活と、分けられないところがあって。あまりに近すぎるときつくなるときがあるんですね。そういうときは、一歩置いて、観察的なことに切り替えてみたりするんですけど、何も思わないでただそこにいるような手法も大事な仕方だと思うので、それをどんどん形にしていくとおもしろいのかなと。

事務局│九州に伺って、一緒に黒岩地区に連れていってもらったときに、最初黒岩に住もうかなと思ったけれど住まなかったとおっしゃっていましたね。いろいろな経緯があると思いますが。

豊田│それはただ単に、空き家といっても人が住めるレベルの空き家じゃなかったり、盆正月になると家族が集まったりもするという理由もあったんですけど。家賃が一番安いところとかを探していたら、水俣の市営団地が空いていたので、そこに住むことにしました。結果的にはその場所は、一番の水俣病の激震地なので、そこに住んで、働いてみることで聞けることもあって、それはすごくよかったと思います。
 同時に、撮影地に住んでしまうと分けられなくなるので難しいなということも感じました。だからその距離にいてよかったなと思うけど、逆に水俣で広げたいときに、動くことの難しさも同時に感じたりもします。

参加者4│僕は、どちらかというと、人とのコミュニケーションをとるのが苦手なほうで、人物を撮るときも、自分が後で見てみると最初は距離が遠いんですね。もともとプロのカメラマンではないので、積極的に人の写真を撮るタイプではなかったけれど、仕事の中で、子どもの写真を撮る必要性に迫られてやってきました。そうすると、自分が子どもたちとか対象になる人たちと距離が近くなっていくと、自分でも写真が変わっていくなと思う瞬間があるんですね。
 あと、どちらかというと僕は、客観的に観察したいタイプで、あまり中心に入っていかずに、写真を撮るときも自分の気配をできるだけ消して、その人の生の姿というか、あまりこちらを意識しないでというところを撮りたいと思うタイプです。だから、本人が見たらちょっと意地悪なところを撮っていると思われるときもあります。僕は自分で写真を撮っていて、そんなふうに思います。そこら辺の撮影態度の違いはすごくあると思っていて、豊田さんの話を聞くと新鮮というか、俺にはちょっとできねえなという感じはします。

事務局│豊田さんは、鈴木さんと向かい合っているときに、自分の気配を消すことを意識されることはありますか?

豊田│消すことはできないと思うので、気にされているときはカメラはやめるとか、そういう感じの距離のとり方をしますね。でもカメラが入る以上、やはり消えることは絶対ないと思っているので、それがいても許してくれるような環境というか、そういう状況になるまでは、と思っています。