もくじ

» ページ1
●揺れも葛藤も、ぜんぶ水俣病として伝えたい
» ページ2
●水俣病と関わらざるを得ない環境に育って
» ページ3
●スライド:水俣病の発生とその歴史(前半)
» ページ4
●質疑応答1:——加害の向こう側に自分がいる、とは?
» ページ5
●質疑応答2:——熊本市内で暮らしていた三智と水俣のみっちゃん、どちらが永野さんにとって自然?
» ページ6
●スライド:水俣病の発生とその歴史(後半)
» ページ7
●水俣病で亡くなったトヨ子ちゃんとそのお姉さんの話
» ページ8
●水俣病に悶え加勢(かせ)し続ける、ということ
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8

●揺れも葛藤も、ぜんぶ水俣病として伝えたい

目の前の画面でみなさんの顔を見ながらお話をしていても、でもここには人がいないこのオンラインの状況に慣れなくて、よかったらみなさん、話のなかでちょっと大げさに頷いたり笑ったりして助けてもらえると、とてもうれしいです。「あぁ、錯覚ではないな、目の前に人がいるんだな」と思えるので、ぜひそんなふうにお願いできればと思います。
 なぜ今日のタイトルを「揺らぎと葛藤を伝える」とつけたか、からお話しします。
 私が水俣病センター相思社に入って5年くらいたった2013年、水俣病に関わってきたなかでの大きな出来事がありました。この年の4月に私の書道の恩師のお母さんが、40年かかって、ようやく水俣病として認められたのです。恩師のお母さんは認定申請の3年後に亡くなられていましたが、とても画期的な最高裁の判決でした。その数カ月後、もう一人、近所の方が患者と認定されました。この方の認定が報道でも流れて、水俣では誰もがそのことを知っているような状況でした。毎朝私に野菜をくれるおじさんがその報道の翌日に、「あいつが認定されたけん、また水俣病が盛りあがり始めたがな。せっかく終わりかけとったのに……」と言ったんですね。
 水俣病は1956年に公式に確認されて、70年ごろから認定申請をする方たちがわっと現れました。みなさんそれぞれ闘われて、1995年には未認定の患者に一時金を支給する政府の最終解決策が提示されたことで、1万3000人の未認定患者が和解することを選びました。その後2004年には、和解に応じなかった未認定患者が関西で継続していた裁判で勝訴し、それをきっかけにたくさんの人たち、約6万5000もの人たちが、「自分は水俣病」だと新たに名乗りをあげました。そして2009年、新聞には「2回目の最終解決」という言葉が躍りました。この時「水俣病被害者救済に関わる特別措置法(特措法)」が成立して、先ほどの近所のおじさんも、これでやっと水俣病が終わると考えたのだと思います。
 私はこのおじさんに野菜をもらって餌付け【「餌付け」に傍点】されていますから(笑)、おじさんに何て言ったらいいんだろう、と、揺れました。私は一方で、その時認定を受けたおじさんにも餌付け【「餌付け」に傍点】されていますから、そのおじさんのこれまでの苦しみであったり、また地域で裁判をするということは村八分も覚悟しなければならない、と、そういう状況のなかで闘ってきたこの人のことを、どういうふうにして伝えたらいいんだろう、と……。
 でもよくよく考えてみると、そう言う近所のおじさんも、1995年に水俣病の症状が認められて和解の対象となった、ご自身も水俣病の方なんですね。だけれども、新たに認定された人を批判しなければならない状況とか、そこで生まれてしまう溝とか、そういったものを抱えながら、どんなふうに水俣病のことを伝えていけばいいんだろうと考えた時に、「それも、そのまま伝えたらいいんじゃないか」、「揺れも葛藤もぜんぶ、水俣病のひとつとして伝えたらいいんじゃないか」と思った。その悩みとか葛藤とか揺れに、みんなを巻き込んでいければいいと思い始め、みんなの揺れや葛藤に私自身も巻き込まれて、いろいろなことを学びたいなと思っています
 最近、若い職員が、——といっても私も37歳で若いつもりなんですが(笑)、相思社の職員は20代が2人、30代が3人、50代が1人という構成で、6人いる職員のうち私は上から2番目なので、相対的に若いということですが——、私より比較的若い職員が、最近、自分が話していることがとても偽善に思えて苦しい、と言って揺れているんですね。
 水俣病を伝えるのは丸裸にされるというか、自分が試されるような時間です。加害の歴史や、その加害に加担をした社会であったり、企業であったり、行政であったりを語る時に、必ずその向こうには自分がいる。そう感じながら語ることは、若い職員にとって、苦しかったり悩ましかったりすることなのだろうなと思います。でも一方で私は、その意識をもって語ってくれるということはとても信用ができるなとも思っていて、胃を痛めながら、うーん、頑張れって言えない、何て言えばいいんだろうと、めっちゃ思います。そのままいけよ、とは言えない。言えないけれど、すごく大事だねと思いながらいるところです。

●水俣病と関わらざるを得ない環境に育って

 私が水俣病に関心をもったのはいつかと考えると、自分はもたざるを得ない環境にいたのではないかと思います。
 私が生まれたのは、水俣病の激発地といわれる、初期の患者がたくさん発生した地域です。水俣病は、水銀が魚を通じて体内に入り、内臓器官や脳の神経細胞を壊していく病気です。妊娠中にその魚を食べると、胎児も同じようにして、お母さんのお腹の中で水俣病になる。これは遺伝ではなく、中毒ですね。水俣病の症状の特徴は手先足先の感覚障害があるのですが、大人よりも未熟な子どもの脳は侵される範囲が広く、また深部にその影響が及びます。とくに胎児性水俣病といわれる、お母さんのお腹の中で食中毒に遭った子どもには全身性の感覚障害が表れることが多く、棄却されていく人もたくさんいて、大人と同じように水俣病として認められることが難しいんですね。その子どもたちも今は60代になっていますが、失われた神経細胞は二度ともとに戻らないので、今も水銀が悪さをしているというのではなくて、みなさん後遺症に苦しんでいるという状況です。そういう問題も発生しています。
 そういう人たちはだいたい私の親と同世代なんですが、私は小さい頃から、胎児性の水俣病患者の人たちにかわいがってもらって育ちました。その頃近所に、「三智、ちょっとこけこんやー(ここへ来なさい)」と叫びながら私を呼ぶような、愛情豊かなおばあさんがいました。今も90歳を過ぎて元気で、私を「三智」と呼び捨てで呼ぶんですが、彼女は胎児性水俣病だった私の友だちのお母さんを、「あれは水俣病になって、チッソから金ばふんだくって、タクシーに乗ってステーキば買いに行って、タクシーで帰ってくる」と言う。私はこんなに頑張って働いて、これだけの貯金があると、通帳を見せるんですよね。その意味がよくわからなかった。一方で、友だちのお父さんの情緒不安定さとか、友だちのお母さんが暴言などを突然言うのを、わけもわからず受け取っていました。そういう環境で育ちました。そのみんなから、とてもかわいがってもらった記憶はありますが……。
 小学校の高学年の時に、水俣病のことで嫌な思いをすることがあって、それ以来何回かそういう経験がありました。中学校を卒業して熊本市内に暮らすようになってからは、出身を隠すようになって、水俣の隣町なんですが、鹿児島県の大口市出身だとウソを言って……。そう言った方が楽に、幸せに生きられると思って、そんなふうに20歳まで過ごしていました。
 20歳の時に、子どもの頃の書道の先生が裁判をやっていると聞いて、傍聴に行きました。そうしたら、その恩師もそうですが、この人たちはぜんぜん水俣病ではないと思っていた近所の人たちが、そこにずらっと並んでいたんです。傍聴をしに、その裁判の応援に来ていた。私はもう水俣には帰らないと思っていたのですが、そこで突然故郷が現れて、彼らが口々に自分の被害や自分の家族がどんな目に遭ってきたか、その理不尽な状況、歴史を語るんですよね。もう唖然としました。
 ただ水俣に生きているだけだと思っていた人たちが、ずっと彼らの人生のなかでそういう理不尽な目に遭ってきたんだということを感じて、当時出身を隠していた私はすごく後ろめたい気持ちになりつつも、そこに行ったらもう私は「水俣のみっちゃん」なんですね。
 私はそこで包み隠さずというか、ありのままでいられることの安心というか、解放感にはまってしまったんですよね。やはり何かを隠しながら生きるのは、それなりに自分にとっては負担だったんだなと思っています。負い目も感じつつ、そこでの結束というか、それがとても恋しくて、それから裁判に通うようになりました。
 その後しばらくして水俣に帰ってきて、水俣でいちばん大きな病院で働きました。そこの看護師さんたちが、水俣病患者がいるからこの町が疲弊していくんだとか、水俣病の裁判をしている人が勝ってそれでチッソがもしつぶれでもしたら、町の人口は半分以下になるとか、自分たちがこんなに充実した医療や福祉を受けられるのはチッソのおかげだとか、そんなふうに言っているということを知りました。相思社は水俣病患者の支援をしているので、「ニセ患者の製造所」だと言われていた。
 裁判をしていた恩師に再会して、水俣に帰ってきて、みなさんがどんなに苦しんできたかということもわかったはずなのに、そこで何も言い返せなかった。そんなことがあって、私は逃げるようにして相思社に就職しました。本当に逃げたんだと思います。その3年くらい後に、水俣病患者を批判していた病院の元同僚が、「自分にも症状がある」と相思社に来られました。
 その方は、たとえば脈を測る時の指の感覚が鈍くてわからないから聴診器で聞くとか、頭痛がひどくて普通の3倍の量の薬を飲まないと治らないとか、いつも寝る前に足がつって、寝ついてもそれで覚醒するとか、耳鳴りがするとか、いろいろな症状を訴えました。しかもそれは昔からあった症状で、自分が水俣病だとは気づいていたけれども、でももう、これ以上ひどくなるのが怖いと言っていらっしゃって、とても驚きました。
 そんなことが何度かあって、そのなかで、そういう方たちと水俣病の話をするにはどうしたらいいのか、どうやったらこの人たちの水俣病の扉が開くのだろうと、ずっと考えています。なかには自分が水俣病ではないと訴えたいために、ことさら水俣病患者を悪く言うようなこともあるんですね。

●スライド:水俣病の発生とその歴史(前半)

今日は、水俣病のことをそんなによく知らない人向けに、スライドをつくってきましたので、それを見ていただきたいと思います。
【スライド:「水俣病歴史考証館」での伝える活動】
 水俣病とは、不知火海を囲む周辺地域で発生した病気です。水俣病は、名前のイメージから熊本県水俣市でしか発生していないと思われがちです。私自身もそう思っていたのですが、豊田有希さんの写真にもあるように、この海で獲れた魚を行商さんたちが山手に持って行っていたので、山間部にも水俣病の症状をもつ人たちがいます。それから対岸の天草の島々や北の八代、今週の日曜日に阿久根や長島に患者検診に行ってきたのですが、このあたりにも水俣病の患者さんたちはいます。
 水俣病が発生した1956年当時は、水俣の人口5万人のうち、新日本窒素肥料(現・チッソJNC)の従業員が5000人、市長や市議会議員の半分以上がその出身者という状況にありました。水銀中毒になった人たちの数を、私たちは不知火海周辺地域の20万人と言ってきましたが、前熊本県知事の潮谷義子さんは、47万人の調査が必要だという見解を出しています。これは、豊田さんの写真がそれをとても物語っているなと思いますが、私たちは海岸部の人たちのみカウントしていたのですが、潮谷前知事は山間部の人たちのこともきちんと考えて、視野に入れていたということの結果です。
 水俣病の公式確認は1956年ですが、水俣湾を汚染したことに対して、最初に漁民がチッソに補償をしてくれと訴えたのは1923年なんですね。23年、25年、26年、43年と、1956年の公式確認に至るまで4回も、水俣の漁民たちはチッソに対して声を上げ続けている。そのいずれもが見舞金で片づけられたり、または漁業権を買いあげて、そこを埋め立てて工場をつくり、さらに汚染水を流して海を汚すことを続けています。水俣病は起こるべくして起こった公害病なんです。
【スライド:魚を分け合う家族】
 1961年、水俣病の公式確認の5年後に、子どもたちとそのお姉さんたちが魚を分け合っている写真があります。その写真からは、この人たちがとてもたくさんの量の魚を食べていることがわかります。なんで食べているんだろう、もう魚が危険だとわかったはずだよねと思うのですが、わかっていないんです。

【スライド:水俣市沿岸部鳥観図昭和28年】
 これは昭和28年(1953年)頃の水俣湾の周辺の地図です。石牟礼道子さんという、水俣病を描いた『苦海浄土—わが水俣病』(講談社、1961年)という作品を生み出した作家がいます。彼女が書いた『天の魚【ルビ:いを】』という作品を一人芝居にした、1971年に水俣に移住してこられた京都出身の役者さんがいます。この役者さんは非常に器用で、演劇もすれば、歌も歌えば、こうやって絵も描く。何をやっても器用な人っていますよね。非常に羨ましいなと思いますが、その人が描いた絵です。
 相思社はここにあります。水俣病が起きた、この水俣湾や袋湾や不知火海を見下ろす丘の上と、いつも私たちは説明をしています。何か偉そうですね、自分で言っていて、嫌だな(笑)。
 チッソは町の中心、このあたりにあります。ここ(百間排水口)から廃水が流れて海を汚染しました。「たくさんの患者が発生してしまったぞ」ということで、チッソは1958年、不知火海全域に流れるように排水口の場所を変えて、毒の希釈効果を期待するんです。毒は海水で薄まるのですが、魚の食物連鎖によって、人間の体の中に入る頃には高濃度の毒になってしまいました。
 海が汚染され、漁獲高も減るし、家族が水俣病になってしまったというので、とうとう不知火海周辺の漁師たちは幾度かチッソと交渉を試みるも、ついに乗り込み、中の機材を壊したりしてしまいました。同時期通産省はチッソに対して、排水口の場所を元に戻し、水銀を浄化する装置をつくることを指導します。チッソは命令を聞いて排水口の場所を元に戻し、サイクレーター(水銀浄化装置)をつくりました。ここでサイクレーターをつくった人は、誰でしょう? 確かにつくるのはチッソですが、実際に働いたなかには、水俣病患者の家族もいました。当時、病院に行かなければいけない、薬を買わなければいけないというので、現金収入が必要になった患者の家族たちが、チッソの下請の建築業で働いたのです。
 サイクレーターのお披露目式の場で、チッソの社長は熊本県知事を立会人として呼び、排水口から出てきた水をコップに注いで飲んでみせます。映画『MINAMATA-ミナマタ―』(監督:アンドリュー・レヴィタス、2020年)を見た人はいますか。あ、いないですよね。そんなにいないと思わなかったので、どうしよう。見てね(笑)。その映画のなかでは、その様子がちょっとコミカルに描写されているのですが、それで住民たちは「チッソの廃水は安全になった!」と、魚を食べ始めるんですね。
 私のうちの近所の、17歳で嫁に来て4人の子どもを産んだミツコさんは、27歳の時に夫を亡くし、夫のお父さんが水俣病で寝たきりになりました。家族5人を一人で養うために、廃水が浄化されたのを機に魚の行商の仕事を再開しました。その頃には漁も再開されていたんですね。ところがチッソの社長が飲んだのはチッソの排水ではなく、ただの水だったんです。どころか、サイクレーターには水銀をきれいにする効果はなく、それから10年もの間、水俣湾や不知火海の人たちは、だまされて毒を食わされて水俣病になっていったわけです。
 この2年後の1961年の魚の水銀値は、36ppmとデータで残っています。今の暫定の安全基準が0.3ppmですから、およそ100倍の毒が入った魚を、住民は食べていた。みんな魚は安全だと信じ込んでいた。信じたいですよ、ずっと魚を食べて生きてきたわけですから。

●質疑応答1:——加害の向こう側に自分がいる、とは?

——事務局:前半の永野さんの話を受けて、何かもう少し聞きたいとか、永野さんに直接おうかがいしたいことがあれば、ぜひご発言ください。

参加者1◉先ほど、「加害の向こう側に自分がある」とおっしゃったように聞こえたのですが、「偽善に思える」ということがどういうことか、聞いてもいいですか。

永野◉自分も、水俣病を生んだ社会や、それを放置する社会を構成しているもののうちの一人であるという感覚。
 92歳の漁師さんと話をすることがあるんですね。彼は8歳でお父さんを亡くして、ご飯の足しになるものを獲るために、近所の漁師さんたちにまざって漁を始めたんです。12歳で小学校を卒業してから中学校には行かず、漁師になったんです。小学校時代も半分以上が戦争の練習をさせられていたので、字がほとんど書けないんです。彼は魚が好きで、「魚と人間との命は同等だ」と言い、そういうものを自分が食べていると言う。
 その彼が、「水俣病になった時は、自分が漁師をしていることを後悔しなかったけれど、今60代になっている3人の子どもたちが症状を抱えていることを知ってからは、自分が漁師になったことを初めて後悔した」と、「こげん後悔せんばいかんとかな」と言われたんですよね。行政は何もせんとか、チッソを恨んでいるとか、行政やチッソとの闘いのなかで自分たちがどれだけ愚弄されてきたかということをお話しされるのですが、それを聞きながら、一緒に憤ることもできるんだけど、私はどちらかというと行政や社会に近い。自分が言われているような気がして。すごく苦しくなっちゃって。「そんな顔せんでよか」と言われるけど、水俣病の歴史を断罪するような時、自分の言葉にめっちゃ違和感があって、それは自分にも加害の部分があるからだと思っています。
 参加者1さんは「聞いていいんですか」と言ってくれたけれど、聞いていいんだけれど、うまく言えない。すみません、何かそういうことです。追い詰められた鹿。

参加者1◉それって一般的に共感とか同感、簡単にいうと気持ちが入り過ぎてしまっている感じなんですか。たとえば90歳のおじいさんや、強く発言されている方の話を聞いているうちに、自分自身もつらくなるというか……。

永野◉というのと、あと、自分も同じ、そういうふうにやってしまう危うさをもっているだろうなって思う。加害の側に立ちやすいよな、と思う。自分がその場に立って、どういう行動をとるかわからない。うちの若い職員が今抱えているものとちょっと似たような、そこは共感するんです。だから共感というなら、そっちかなと思います。その漁師さんには、共感というか、申し訳ありませんでしたと土下座したくなるような気持ちになります。共感と言ったら失礼だな、と思ったり。

参加者1◉私も会社員をやっていると、組織の中でもグレーなところはやはりあって、そっちに焦点を当てると、私も他人のことは言えないし……というような状況……。
 
永野◉でも、言っていいんです。言っていきましょう。

参加者1◉そういう状況に追い込まれて不正とかが起こるよねと言われると、われわれに水俣病は遠い話だから傍から言えるけど、じゃあ身近なことでそういうことはないのかと言われると、たぶん誰も、叩けばほこりが出ない人はいないと思いつつ聞いています。

永野◉そういうことを自覚していくということなのかなぁ、何なのかなぁ。うーん、はい、「はい」しか言えない。「はい」しか言えなくてすみません。参加者1さん、すみません。もっと頑張ります。頑張るだけでは駄目ですが、ありがとうございます。

●質疑応答2:——熊本市内で暮らしていた三智と水俣のみっちゃん、どちらが永野さんにとって自然?

参加者2◉水俣病はもちろん重い話で、水俣病に関する知識もなかったので、私にとっては、言ってみれば腫れもの的なお話なんですけれども、お話しされている様子から、葛藤とかも含めて、今聞いていて思ったのが、以前は水俣出身であることがわからないように暮らしていらした自分と、水俣のみっちゃんでいられる今のご自分と、どちらが自然というか、ご自身のかたち、精神的にどちらが楽というか、自然体でいられるのか、うかがえればと思います。

永野◉どちらも、それはそれで、あぁ、大変だなぁと思います。隠していた時は、隠さないと大変で隠していました。水俣に帰って、水俣病のことを仕事にすることで失うものの大きさを感じることがあります。
 あまり簡単に、こうだよ、ああだよと説明ができないんですが、この仕事を始めたことで切れてしまった縁とか、——それは、これからまた取り戻していこうと思うのですが——、水俣病にはタブーな部分があったり、運動のなかで敵対してきた人たちがいたりとか……。そのなかに自分も入り込んで、巻き込まれて、自分で巻き込まれていくんですが、幼い頃から築いてきた関係が、こんなことで簡単に切れてしまうんだなみたいなこともあったりして、水俣病は本当に腫れものであるというのは、あながち私にも当てはまらないでもないなと、今思いました。
 なので、わりとどっちが楽ということもないな、と思って。でも、それでも自分で選んだことなので、これをやっていくとは思っています。どうやったって水俣病からは逃れられないんだなと思っています。

参加者2◉先ほどの参加者1さんの話を引き取って言うと、今おっしゃったような葛藤というか、どちらを選んでも楽というわけでではなくて、悩んだり良かった面というのは、必ずそういうことは、誰彼構わず、暮らしのなかで一分一秒単位で訪れるのかなと思いました。とても自然なお答えだったと思います。

永野◉ありがとうございます。今が楽ですと言えればよかったのですが、あまり言えなくてすみません。

参加者2◉楽ですか、という聞き方はちょっと変でしたね。

永野◉いやいや、ぜんぜん変ではなかったです。一部楽になりました。隠さなくて済むっていう部分はとても楽になって。それでも県外に出た時に出身を聞かれてビクッとしたりとか、面倒くさいなと思ってしまう自分もいて……。そこは水俣病センター相思社の職員としてはどうなのと思いますが、こういう部分もあっていいかなと思うし。自分の友だちや弟が、関東の方で出身を隠しているということがあっても、隠していることも理解したいと思うし、彼らがそれで幸せであればとてもいいと思うし、また隠さなくてもいいような社会であったり、彼らの心持ちがあるとまたいいなとも思うけれど、それはどれを取ってもいいし、どれを取らなくてもいいと思っています。

参加者2◉ありがとうございます。

事務局◉二つの質問は、なぜこのプロジェクトを始めたかを考えるところにつながっていくお話なので。

永野◉もう裸ん坊になりました(笑)。

事務局◉うれしいです。裸ん坊になっていただくと。ありがとうございます。

●スライド:水俣病の発生とその歴史(後半)

——事務局:ぜんぜん休憩なしですが、少し後半の話をいただければと。

【スライド:根本的な解決要求「廃水を中止せよ」】
 先ほど言った、漁師さんたちがチッソに陳情に行ったのが左の写真で、熊日さんからいただきました。右の写真が、患者たちが座り込みをした時の写真です。
【スライド:企業と行政は原因を知っていた】  
 水俣病の公式確認から3年後です。チッソは、そして行政は水俣病の原因を知っていた。知っていたけれども、それを隠して暴動した漁師を責め、座り込みをする患者のテントを、労働者を使って取り上げたりしています。
【スライド:廃水浄化装置と見舞金】  
 廃水浄化装置(サイクレーター)の実物がこの写真で、今も水俣に来れば、バクテリアで廃水を浄化するこの装置を見ることができます。この装置ができたことをきっかけに見舞金契約を結んで、チッソが原因ではないけれども、貧しい人たちがチッソの近所に住んでいるので、その人たちにお見舞いしてさしあげますよという契約を、患者たちとチッソが結びました。
 非常に安い見舞金です。この見舞金を受け取った方のリストが相思社にあって、近所の女性がそのなかにいたんです。小さい頃からよく知っている方だったのですが、「なんでこんな契約にサインしたの。金額は安いし、理不尽なことがいっぱい書いてある!」と、びっくりして質問に行ったんです。そうしたら「だって字が読めんやったもね」と言われて……。「弁護士さんでもおらったら違ったよ」と。
 「だけどその時は、私たちの味方はいなかった、マスコミも市民も行政も学者も、みんなチッソの味方をした。支援者といわれる人たちが来たのはいつね。その10年後でしょうが」と言われて、本当に愚問だったなと思いました。
【スライド:「患者」とは誰か】
 冒頭で少し話をしたんですが、認定患者は何人ぐらいいるの、これまでに認定申請した人たちはどれぐらいなの、和解した人たちは、そのうち和解でも切り捨てられた人たちはどのくらい、今は何人認定しているの……。すみません。いちばん下の「認定申請者」が熊本県の数字でした。鹿児島県も合わせると1000人ぐらいになります。
【スライド:現在の認定申請者の状況】
 今、認定申請をしている人たちから聞いた話です。
 被害を訴えて、まず認定申請をすると、行政が認定するための条件として証拠が求められます。「たとえば60年前に食べた魚の領収書を」と、若い行政職員が言うのです。
 私たちがお手伝いして認定された方が数名いるのですが、その方たちは、たとえば裁判で勝訴した私の恩師、溝口秋生先生のお母さんのように、裁判で司法認定を受けて、その後に行政が認めた司法認定のケース、県知事の独断で認定を受けたケース——これは審査会がどうのということではなくてです、それから第一次訴訟、1969年から73年までの水俣病の裁判の原告で、両親が水俣病であることが認められていて、裁判資料がきちんと残っている、そういうケースのみでした。
 去年はコロナ禍だったので棄却された方は100名ちょっとだったのですが、その前年は300名、その前年は300名、その前年は300名と、棄却される人たちはたくさんいて、認定はもうほとんど望めない。私は名古屋などにも検診の手伝いに行くのですが、そこで検診に来た方が、「棄却されるのはわかっている、棄却の通知を待っているのは死刑判決を待っているようなものだ」と言われていて、本当に切ないなと思いました。
【スライド:証拠ではなく証言を】  
 これは、左が「ここの魚は危険だから捕らないでね」と熊本県と水俣市と市の漁協が言っている看板で、右の看板は「隣の看板を書いた人たちは、昭和40年代にここの魚は安全だから食べろと先頭に立って言っていた人たちです。こういう看板を見るにつけ憤りを感じますという」と、地域の住民が立てたそういう内容の看板です。
 住民が行政に対してなぜこんなに怒りを抱いているのかというと、今現在に至るまで、水俣湾や不知火海の漁獲の規制、摂取の法律的な規制、すなわち、魚を捕るな食べるなと、法律で言われたことが一回もないんです。この看板は法律ではないんです。だからたとえば今コロナ禍で、休みなさいと法律で命令されていないから何の手当もない、みたいなこととすごく似ているなと思うのですが、そういうことです。
【スライド:ご清聴ありがとうございました】
 ご清聴ありがとうございました。ここまでが前半で話そうと思っていたことで、ここからが後半です。ちょっと頭を切り替えてください。

●水俣病で亡くなったトヨ子ちゃんとそのお姉さんの話

 今度は、トヨ子さんとそのお姉さんの話をしたいと思います。
 めっちゃ頻繁に相思社に来るその方は、今は80代半ばぐらいで、初めてお会いしたのは70歳になったばかりの頃でした。相思社にいらしてまったく同じ話をされるんです。自分の妹が5歳で発症して、8歳で亡くなったと。「その妹にビナという巻貝を食べさせたのは私だ。毒がたんまり入っていた。でも、知らんかったもんね、おいしかったもね」と言って、いつも笑うんです。わっははははと。
 そういう話を、いろいろな場面で誰にでもするんです。私にはもちろん、初対面の人たちにも、ぜんぜん悲しいこととしてではなく、13年ぐらいそういうふうに話してこられて。その話や、妹さんのお墓を掘り起こしたという話を、たぶん私はもう100回以上聞いていて、そらで話せるくらいです。私も時々ちょっと飽きてしまって、——すみません、飽きちゃいけないのかもしれないのですが——、ほかの話を聞きたいと思ったりして……。
 その話が、昨年末ぐらいですか、まったく逆の感情で語られて、本当に少女みたいなお顔になって、10代の女の子のようになって泣かれて、ということがあって。これをどんなふうにして受け取ったらいいんだろう、どうしようと思っていたのですが、たぶんその私の動揺が伝わって、それ以来またその話を笑い話として、妹にビナを食べさせたのは私だと笑いながらするようになったんですね。
 最近その亡くなった妹さんのお弔いをここでやったんです。相思社には大きな仏壇があって、そこに位牌があるんですね。(永野氏、zoomのカメラアングル変更)これは今の職場なんですが、仏壇が見えますか。ここにトヨ子ちゃんという女の子のお位牌をお預かりしていて、お姉さんであるその方は私たちに会いに来るというよりも、妹さんの位牌を拝みに来る。その時に妹さんの思い出話として、その話をとにかく繰り返すということだったんです。妹さんが亡くなられたのが3月15日で、その日にお弔いをしようという計画でしたが、お姉さんが入院して2カ月遅れとなりました。
 とにかく祈りの会にしようと、それまでずっと聞いてきたなかにトヨ子ちゃんは歌と踊りが好きだという話が出ていて、ではお弔いだけれども妹さんが好きだったことをいっぱいやろうということで、コロナ禍でもあったのですが、チンドン屋さんや歌い手さん、芸能の人たちにご協力いただいて、仏間でにぎやかに歌ったり踊ったりしたんです。そうしたらお姉さんが一番盛り上がって、とても楽しんでくださって。
 最初に山伏の方がお経をあげ、それから石牟礼道子さんの『苦海浄土』第二部「神々の村」に、そのトヨ子ちゃんとお母さんのことが出てくるのですが、それを弾き語ってくれて。その後チンドン屋さんが出てきてたくさん歌を歌って、踊りを踊って、最後に埼玉から駆けつけてくれたイ・ジョンミさんという祈りの歌を歌う方が、トヨ子ちゃんのためだけに祈ったんですね。それはトヨ子ちゃんのためだけと言いつつ、お姉さんのためでもあって、みんなが彼女に注目して、彼女のこれまでの苦労をねぎらうような場がもてたことが嬉しかった。
 その3日後から、トヨ子ちゃんのお姉さんはまた相思社に来られるようになりました。疲れて3日間横になって寝ていたそうですが、それからはトヨ子ちゃんの話をしなくなったんですね。位牌へのお参りも1カ月せずに、縁側でただご自身の話をする。小さい頃の話からあふれるようにされる。1カ月経ってようやくトヨ子ちゃんのことを思い出したようにして、お参りされました。背負ってきたトヨ子ちゃんを下ろしたのかな、一人の人として相思社に来るようになったのかなと思いました。私も彼女を一人の人としてではなく「トヨ子ちゃんのお姉さん」として見ていたし、彼女もまたそれを求めていたのではないかと思いますが、そういう関係ではなくなった。たった一人の人になった、一人になった、そういうことの表れなのかなと思って。
 その一人のために、一人たちが祈る時間の大切さを感じました。それは私だけではできなかったし、相思社だけではできなかったし、みんなが彼女のために祈ることで生まれた時間でした。私は相思社に13年半ぐらいいるんですが、ここにいてよかったなと思いました。
 その方に、頻繁に来るにしては決して開かない扉というか、乗り越えられない壁というか、そういうものを感じていて。一度も涙を見たことがない。絶対人に頼らないとか、風を切って歩くみたいな、そういう人で。最初に妹さんが発症した時さんざんいじめられて、兄弟の一人は小学校を転校するぐらいひどいいじめに遭ったり、とか。

●水俣病に悶え加勢(かせ)し続ける、ということ

——事務局:ありがとうございました。ではお伝えしているとおり、ブレークアウトルームで少人数に分かれていただいて。今日の永野さんの「揺らぎと葛藤を伝える」というお話をめぐって、お気づきのことや感じたこととをお話しください。先ほどの永野さんの本のなかに「悶え加勢する」という言葉が出てくるんですが、悶えながら加勢するのか、悶えて加勢するのかわからないけれど、一緒に悶える、みたいなこともあるのかと……。

永野◉先日、55歳の方から電話がかかってきたんですね。その人は本当に症状をたくさんもっているのですが、絶対に弱音を吐かない人で、まわりの人を気遣ったり、曲がったことが本当に嫌いで、そういうことがあると先陣を切って正していくような人なんです。「病」を感じさせない人です。その人から電話がかかって、「死にたい」と言うんです。少し前にお会いした時には体のつらさがいっぱいあって、「病気の品評会のような感じ」と笑いながら話してくれたり、「やっぱり俺も水俣病なんだよなぁ」と言っていらっしゃったのですが、その人がいきなり死にたいと言うから、「ええっ」と思って。
 その人は、今は運搬船に乗っているんです。「どういう時に死にたいと思いますか」と聞くと、「海を見ていたら死にたいと思うんだよ」と言う。「じゃあ、海見ないでください」と言ったら、「海を見ないと仕事できないじゃないか」と言われて、そうだよなと思って(笑)。笑いごとじゃないんですが、そうだよな、どうしたらいいんだろうなと思って。お子さんが高校生で、高校を卒業するまではとにかく働かなきゃというから、「とりあえずそこまでは生きましょう」と言ったのですが、それ以上何も言えなかった。
 その日の夜、ご飯をつくっていたら住職をしている友だちが来て、ご飯を食べながらその話をしたんです。その時は何も言わなかった住職は見送りの時に、「三智は以前『悶え加勢する』という言葉、言ったよね、あの言葉に自分は今支えられているんだよね」と言う。今コロナ禍で、最期を迎える人の看取りを家族ができなくて、その住職はそういう人たちのところに行くことが最近の仕事になっていて、死を目前にして、怒ったり、悲しんだりする人たちを前にして何もできない自分がいる、ここにいていいのだろうかと思っていた時にその言葉を思い出して、自分はここにいていいんだと思った、と。
 その言葉は、私もおばあさんから聞いた言葉でした。苦しい人がいる時に、その人の家の前をただおろおろと行ったり来たりする。それだけで、それを見たその人は少し楽になる。悶えて加勢する。「悶え加勢する」という言葉なんだと聞いて、それをその住職にそのまま話しました。言葉というのはとにかく、何でもいいから、——何でもいいわけではないかもしれませんが、発すればきちんと自分のもとに戻ってきてくれて、こうやって自分を救ってくれるんです。
 役に立たないと、どうしても役に立ちたいと思って苦しくなってしまうし、役に立たない自分の存在価値を考えてしまったりするけれど、じつは、役に立たない自分がここにい続けるということがいちばん難しくて、大切なこと、——私にとってトヨ子ちゃんのお姉さんの変化はとても大きかったんですが、おつきあいを続けてきてよかったな、と。この人が生きているうちに一人になったその様子を見ることができたことは、とてもよかったなと思っています。以上です。

——事務局:ありがとうございます。ではブレークアウトルームを開けます。

——事務局:ありがとうございます。ではブレークアウトルームを開けます。

*この後、グループに分かれて20分ほど、「ブレイクアウトルーム」での話し合いの時間がもたれました。

——事務局:永野さん、ブレークアウトルームはいかがでしたでしょうか。  

永野◉とても複雑な話があったり、子どもの頃に水俣の隣町の出水に住んでいた方は、「チッソ格好いい」という空気があったみたいな、そんな話が出て……。確かにそんな空気もあった。
 また、チッソのなかでも第一組合と第二組合があって、チッソに対して声を挙げる選択した第一組合の方たちは、その後患者の裁判支援を始めたり、患者とともに生きることを決めたりして、加害企業のなかにも加害と向き合った人たちがいることは希望だという話をしました。

——事務局:永野さん、今日はどうもありがとうございました。

  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8