「あわいを歩く」の風景について

 この動く風景は、私がある場所で撮影した写真が元になっている。今回のワークショップのイメージとも繋がっている。人間が開拓し牧場にした土地、その土地に生える草、その草を食べる食肉用の牛たち、かつてはこの土地全体を覆っていたであろう森、植えられ忘れ去られた人工林、連なる山々、そびえ立つ鉄塔、その間を縫うように走る電線、電線を通してどこかに送られる、あるいは送られてくる電気、雲、雲の隙間から差し込む日の光。この風景は一体何なのか。何故これがワークショップのイメージと繋がるのか。

 この風景について知る時、その「知り方」が大切だと思う。人にはそれぞれ「知る」の道筋(過程)がある。例えば私なら、電線がなんであるか知るだけではなく、この風景の中の電線が何なのか、考えたいと思う。

 それを考えるために、まずはこの土地を訪れてみる。この写真の枠の中に収められた風景とその先を、「訪ね方」を考えながら、歩いてみる。考える時、訪ねる時、必ず直面するのが、自分自身と自身の背景のことだ。自分が何であるのか、どこから来たのか、その土地にとって自分がどういう存在なのか、そして自分が生きる今はどんな時代なのか、「訪ねる」ことで、より考える。

 自分なりの方法でこの風景に少しづつ近づきながら、その中での気づきを記録してみる。文字を書いたり、写真や動画を撮ったり。その時は軽いメモ程度の気持ちだ。あとからその記録を見て、また考え、メモをする。何故自分はその時その風景を撮ったのか。何故この文章を書いたのか。

 そのうち、電線を通る電気の行き先を知り、牛たちが何故ここにいるのか知り、自分もその風景の一部だったと気づく。気づいた上でどうするか、その振る舞いが試されるように思う。一つの結論を導き出すことは困難だ。でも何もできないという葛藤、抱える矛盾、ズレは大切な存在だと思う。それを持ちこたえるために、表現という手段を借りる。

 表現という形で一旦自分の中から出してみた時、自分の立つ場と、土地との「距離」を考える。この形で表された、あの風景を見て、土地の人はどう思うだろうか。あの風景を知らない人はどう思うだろうか。

 あくまでもこれは一例で、人にはそれぞれの「歩み寄り方」や、「考え方」、「時間のかけ方」がある。一生かかるかもしれないし、一瞬でこの風景(の意味)に辿りつくかもしれない。その意味に辿り着いたと思っても、近づいてみるとそれはまだほんの一部に過ぎないことが多い。時間の経過で心情は変わり、時代も動き続ける。間も無くまた考えはじめる。生涯きっと、この繰り返しだ。

 私がこのワークショップを、この動く風景で表したのも、曖昧さを保ちたかったからだ。このワークショップでは、ある意味当たり前の、これらの一連のことを「あわい」を意識しながら、試みてほしいと思う。

(あわいを歩く事務局/森山晴香)

レポート