もくじ

» ページ1
「ゆずりは」は、苦しい時にいつでもノックできる場所
「生きてきてくれてありがとう」が安心と楽しいを育む
「生きていてよかった」が芽生える場所でありたい
加害者となってしまった親へのケア
» ページ2
質疑応答1:——すべての相談者を助けられるのでしょうか?
質疑応答2:——当事者は、自分たちをもっと社会に知ってほしい?
質疑応答3:——高橋さんは、相談者にとってどんな存在?
» ページ3
「初めて履いた靴下」のおはなし
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「ゆずりは」は、苦しい時にいつでもノックできる場所

 こんばんは。アフターケア相談所「ゆずりは」の高橋亜美と申します。今日は、私が何かを話したり伝えるというよりは、参加してくれたみなさんと一緒におしゃべりする感覚でここへ来ています。といっていい加減な気持ちではないのですが、一方的にずっと話し続けるのがとても苦手なので、できればやりとりしながら進めていけたらと思っています。
 私は現在東京の国分寺市で、アフターケア相談所「ゆずりは」を運営しています。「ゆずりは」に相談にくる人は、——みなさんがどこまでご存じかはわかりませんが、児童養護施設や里親家庭など、虐待や貧困などの理由で、家庭で暮らせなくなった子どもたちを保護する施設や制度で暮らした経験をもつ子どもたちです。
 児童養護施設で暮らしている子どもたちは、今、全国に4万人ぐらいいるといわれています。彼らは、親は生きているけれど、自分の家で安心して暮らせなくなってしまった子どもたちです。一方の親としては、子どもをいっぱい愛したいのに、自分の子どもに暴力をふるいたくはないのに、子どもの顔を見るとイライラしてしまう。そして、ちょっと私たちの想像を超えるようなすさまじい暴力をふるってしまう。そういったことで苦しんでいるお父さんお母さんがたくさんいます。児童養護施設は、もともとは戦争で身寄りをみんななくしてしまった戦災孤児のために始まったものでした。しかし今では、そのほとんどの親は生きています。だけど、親と一緒に暮らすことで傷つけ合ってしまうような関係になってしまった、そういう子どもたちを保護しているのが児童養護施設です。
 でもそうした施設には原則18歳、高校卒業までしかいられません。高校を卒業して自分の家に戻る子もいるのですが、とりあえず子どもの命を守るために親子を引き離す、子どもを保護するところまでは何とかできているけれど、虐待など、不適切な養育をしてしまった親や家庭への支援はまったく行き届いていないのが現状ですから、その後、また安心した親子関係がつくっていけるかというと、そうではないことがほとんどです。ですから18歳になって高校を卒業しても家へ戻れる子はほとんどいなくて、みんな一人暮らしか、住み込み就職か、という選択をしていきます。
 親もとを離れることを、よく「自立」と言いますが、彼らは好きで一人暮らしをするわけではありません。自分で働いてお金を稼いで、家賃を払って、水道代や光熱費を払って、携帯電話の料金を払って、という生活をしていかなければならない。彼らがそうして生活を営んでいくなかで、仕事が続かなくなって家賃が払えなくなったり、今まで閉じ込めてきた虐待の深い傷つきが、大人になって、施設を離れてからパッと出てくる子たちもいます。
 施設や里親のもとで暮らしている時は、安心できる大人がそばにいるので何とか大丈夫だったり、病院代は無償なので、多くの子どもたちは精神科などに通院します。けれども子どもの頃に受けてきた深い傷つきが、大人になってからいろいろなかたちで表れてくることもあるんですね。人と話すのが怖い、コミュニケーションがうまくとれない、いっぱい汗をかいてしまう、朝どうしても起きられないとか……、その行動だけを見ると本人の怠慢のように見えてしまうけれども、とにかくいろいろなトラウマの症状が出てきます。だけど働き続けないと、たちまち彼らの生活は破綻に追い込まれてしまう。
 私はもともと、虐待や貧困が理由で家庭では暮らせない15歳から22歳までの若者たちとともに暮らす、グループホームのような、自立援助ホームというところでずっとスタッフをしていました。そこでは、一緒に暮らしてきた子どもたちが、施設から巣立って一人暮らしを始めた後に、本当に大変な状況に陥っていく姿をたくさん目の当たりにしてきました。自殺して亡くなった子もいたし、経済的な理由で、自分が望まない性産業の仕事に就く子もいたし、ホームレス状態になってしまう子もいました。
 そのことから、施設を巣立った後も、また何歳になっても、自分が苦しい状況に陥った時、陥りそうになった時に、安心して相談できるような場所をつくりたいと考えて、「ゆずりは」ができました。私は社会福祉法人の一職員ですから、もちろん私一人がつくったわけではありませんが、私がもともと勤めていた自立援助ホームを運営している法人にかけ合って、なんとか実現することができました。
 子どもの頃に受けた深いトラウマや傷つきが、大人になって強く出ることがあります。私は、「やっと悲鳴を上げてくれたね」というふうに、今は思えるようになりました。そうやって、いっぱいいっぱい閉じ込めきた苦しみや痛みは、本当は安心できる大人が一緒に暮らす施設にいる時に出せればいいけれども、その出せる時期やきっかけは人それぞれ違います。大人になって苦しいとなった時に、親や兄弟を頼れない人が「苦しい」「助けて」と言えるような場所や人がいないと、本当に死ぬしかない。というか、半分死んでいるような状態で生きていかなければいけない。
 そういう子たちが、とにかくノックできる場所をつくりたくて、つくってもらったのが「ゆずりは」です。「ゆずりは」の事業を始めて、今11年目を迎えています。もともとは小金井市に拠点を構えて相談所を運営していたのですが、借りていた物件が取り壊しになることになって、6年前にお隣の国分寺市に移りました。

「生きてきてくれてありがとう」が安心と楽しいを育む

 この11年間、私は施設の職員とともに、子どもたちといっぱいいっぱい傷ついてきました。毎日死にたいけれど、死ねないからここにたどりつく子もいます。それは私が、「ゆずりは」の前に勤めていた施設で出会ってきたような子どもたちです。
 ニュースになるのは虐待死した子どもたちなので、「こんな親がいるのか」とか、「なぜこんな、かわいそう」という印象しか残らない報道が多いのですが、虐待自体の相談件数も右肩上がりにすごく増えていて、今では年間20万件ぐらいになっています。虐待がすごく増えているとか、また虐待で小さな子どもが亡くなったというようなことは耳にして、身近に苦しんでいる子どもたちが本当にたくさんいるのだけれども、それが「いるよね」と思って聞いてくれる方もいれば、その実態がよくわからないと思っている方もいるのではないかと思います。
 それだけ、密室で起こっていることなんです。虐待はまずそうで、すごく暴力をふるわれるのをたまに見てしまったり、大きな泣き声が聞こえてきたりしたとしても、自分の目の前で子どもがいっぱい殴られている姿に遭遇することはなかなかありません。また子どもの貧困といっても、みんなボロボロの服を着ているわけでもなくて、可視化していないというか、今、日本の社会の問題としてすごくたくさん起きていることなのに、肌触りというか、感触がわかりにくいことかなと思っています。
 でも私は施設の職員だったので、実際に暴力や、暴力をふるわれなくても何かの罰、親の機嫌が悪かったら1週間何も食べさせてもらえないとか、お風呂も何年も入ったことがないとか、ゴミ屋敷のような家で暮らしてきたとか、たとえば下着も3枚ぐらいしか持っていなくて、何年もの間ずっとボロボロになるまではき続けたとか、お金がないわけではないけれど、「おまえになんか買わない」と言われたり、とか……、そういうことをいっぱいいっぱい見てきました。
 私は、そういった子どもたちがやっとたどり着く場所で仕事をしていたので、日々子どもたちと出会い、一緒に暮らしてきました。本当に「こんな思いで生きてきたんだ」という子たちに出会えたことの積み重ねが、私が、今もこの仕事を続けられていることにもつながっていると思っています。
 出会えた子たちがよく口にしていたのが、「自分なんか生まれてこなければよかった」とか、「こんな暴力ふるうぐらいなら……、顔を見ればボコボコに殴ったり、ご飯もまともに用意してくれない。『おまえなんか生むんじゃなかった』と自分に言うなら、なんで産んだんだ。生まれてきたくなんかなかった」、「産んでくれって頼んだ覚えはない」という言葉で、日々耳にしてきました。
 そんな彼らと、——私は岐阜出身で、いつも基本的に岐阜弁なんですけれども、「あなたが生まれてくることは、望まれてなかったかもしれない。『なんで産んだんだ、この野郎』みたいな気持ちがあるというのはわかった。そうなんだね。そういうつらい、苦しい気持ちがあるのはそうだね。だけど、生まれてくることは選べなかったとしても、今日、今ここであなたが生きているということは、死ねないから生きてきたんだとしても、生きてきてくれたから、今ここにいて出会えたんだ。私たちは、生きてきてくれたから出会えたことを、『ありがとう』と心から思っている」というようなやりとりをしてきました。それが、「生きてきてくれてありがとう」という言葉です。
 「生きてきてくれてありがとう」って、顔を見て伝える時もあるんですが、それよりは「生きてきてくれてありがとう」という気持ちがいつも自分の心のなかにあって、一緒にご飯食べる、部屋の掃除をする、ちょっと花を生ける、お風呂を用意するとか、暮らしを一緒に育んでいく。暮らしがどういうことなのかも、暮らしを心地よくしていこうということも、ぜんぜんわからなかったような、「暮らし」を奪われてきた子たちにとって、ご飯食べたり風呂入ったり、ちょっとだらだらしたりだとか、そういった暮らしの営みが、生きていくことのエネルギーになるんですね。その「生きてきてくれてありがとう」は、一緒にご飯食べるでも、その子が好物のものをつくるでも、いろいろなことで伝えられると思ってやってきました。
 こんなちょっといい話ばかりしていますけれども、もちろん、はらわたが煮えくり返るようなこともたくさんたくさんあります。「クソババァ、おまえ死ね」と日常的に言われたり、「てめぇのつくった飯なんか食えねぇ」みたいなことも言われて、いっぱいぶつかって、いっぱいケンカしてやり合ってきたけれども、「てめぇ、この野郎」と思っても、「てめぇ、この野郎」のなかに「生きてきてくれてありがとう」が確かにあるということが、子どもたちとの本音のぶつかり合いのなかで育まれていったかな、と思っています。
 みなさんは私たちの仕事を、虐待を受けた子たちの支援や、その子たちの回復や治療だとイメージされていると思います。しかし私は、「支援」という言葉を使ってもいいけれども、治すとか治療ではなく、ともかく「安心」と「楽しい」ということを、相談に来てくれた人、出会えた人と一緒に育んでいくということを大切にしていて、それは以前の施設の時もそうだし、「ゆずりは」でもそうです。
 「ゆずりは」には、施設を出て大人になった人たちが相談に来てくれているので、小さな子どもや若者でもないのですが、そういった人たちと安心と楽しいを一緒に育むというのは、自分も安心で楽しいと思っていないとできないなと思っていて、ともにそれを感じ合いながらでないと、本当の安心と楽しいは生まれないとも思っています。

「生きていてよかった」が芽生える場所でありたい

 ここまでは、以前の施設で私が出会えた子たちのしんどさを中心に話してきたのですが、「ゆずりは」は、もっと大人になってからやっと苦しいと言えた子たちが、安心して相談できる場所としてつくりました。どんな施設を退所した子も、年齢が何歳になっても利用でき、相談してくださる人は、上は60代、いちばん多いのは20代後半から30代です。アフターケアというと若者をイメージされるのですが、「ゆずりは」にはいろいろな年代の方がきます。それだけ。その人それぞれでしんどさが爆発する時とか、もう電池が切れた、もう生きていたくないと思う時期は、一人ひとり違うんですね。
 施設を巣立った人たちを対象に始めた「ゆずりは」ですが、今はその対象を広げています。ただ単純に児童相談所に保護されなかったというだけで、ずっと苦しい家庭環境で暮らしてきたり、ずっと苦しい親子関係でいた人たちもいます。幼少期からずっと虐待を受けているけれども発見しづらい、たとえば性虐待とかネグレクトとか、外傷がなかったり見えづらいような虐待はとても発見しづらくて、その人はもう25歳とか26歳だったりするのですが、住んでいる自分の家から逃げたいとか、そういった相談もたくさんもらっています。
 なので、今は施設を出た子かどうかをカテゴライズせずに、子どもの時に安心して子ども時代を生きられなかった人たち、大人になって苦しさが爆発した、やっと苦しさが出せた人たちが相談できる場所、みたいな感じでやっています。
 「ゆずりは」への相談は個別で、電話やメールでいただきますが、結構本当にぎりぎりの状態での相談が多いですね。今、本当にホームレス状態だとか、DVしてくる彼のもとで生活していて、本当は逃げたいけれど逃げる場所がないから彼の家にいるけれど、「逃げてもいいですか」みたいなことだったり、家賃を4カ月も5カ月も滞納してしまっている、借金があるとか、それを解決しないと安心して暮らしていけないといった問題を抱えた人たちから相談をもらい、その人たちに会いに行って、生活保護の申請を一緒にしたり、DVのシェルターに入れる手続きをしたり、あるいは通院の同行をしたり入院手続きしたり、不動産屋にも同行したりという個別のサポートをメインでやっています。
 一方で、この「ゆずりは」の場所を利用して、サロンというか、みんなでご飯を食べる会や、高卒の資格を取るための学習会などもやっています。相談者には中卒、高校中退という学歴の方も少なくありません。勉強が嫌いだったというよりは、安心して勉強できる環境ではなかったり、自分の命を守ることで精一杯で、勉強どころではなかったからなんですね。あるいは、めちゃくちゃ教育虐待みたいなことをされて、めちゃくちゃ高学歴で逃げてきた人もいます。
 ともかく安心して勉強ができなかったから、小学校、中学校、高校の勉強がぜんぜんできていないけれど、30代後半になってやっと「大学や専門学校に進学したい」という夢をもてるようになった人たちを対象にした、高卒の資格を取るための学習会もしています。昔の大検ですね。これもおにぎりやご飯を用意して、交通費もこちらで出して毎週やっています。
 「ゆずりは」ではまた、就労支援、働くことのサポートとして、毎週木曜日には工房で一緒にジャムをつくり、ネットなどで販売しています。ここに参加してくれている人たちは、ほとんどが生活保護受給者か、障害年金をもらって生活しているような人たちです。働けない状態になったから生活保護を受給しているけれども、誰にも頼れないから無理して体に鞭打って、フラフラになりながら働いてきた人たちです。生活保護を受けて精神科などに通院しながら、ゆっくり回復していくという状態でいる人たちが、私たちの利用者に多くいます。
 その人たちが生活保護を受給できるようになって、屋根のある家に住めて、病院にも通えるようになって、ご飯も食べられるようになって、お風呂も入れるようになって、みんなそれで「ああ、生きててよかった」というふうになるかというと、じつはなかなかならないんですよね。というのも、安心して屋根のある家に住めるようになると、今度はもっと自分の内面にベクトルが向くというか、「こんな自分が生きていてごめんなさい」、「生活保護をもらって、社会のお荷物みたいに生きていてごめんなさい」と、すごく自分で自分を責めることがどんどん始まってしまう。
 そういう時に私たちは、「始めは、ゆっくり休んでいていいんだよ」と言ったり、あるいは「生活保護を受けることが社会のお荷物ではまったくない。働けるんだったら、みんな働きたかったはず。だけどそれができない状況になったこと、あなたがいっぱいいろいろな被害を受けてきたり、頼れる親や家族がいないことは、あなたのせいじゃない」と伝えたりしているのですが、それでもやはりみんな苦しいんですよね。
 みんな「早く働きたい」、「早く働けるようにならなきゃ」と、生活保護受給中もアルバイトをしたり、精神障害者手帳をもっている人も多いので、精神障害者のための作業所などに行ったりもするのですが、結局そこでもほとんど続かない。そうなった時に、安心して働けるということ。ただ「ゆっくり休んでいいよ」といって家を用意され、ご飯が食べられ、寝るところがあるだけでなくて、自分がまた誰かのために何かできるとか、「ありがとう」と言ってもらえる存在になることが大切なんですね。
 私自身は、生活保護を受けることが一方的に施しを受けることだとは、まったく思わないのですけれども、「亜美さんは、でも生活保護を受けたことないよね」と言う子たちが、何人もいます。本当にそうだなと思います。私が「そんなことないよ」と言っても、生活保護を受けている人たちのしんどさや、卑屈になる気持ちはわからない。では「ゆずりは」で何ができるのかと考えて、他の場所では働くことが続かないなら、安心して働ける場所を私たちがつくろうと、始めたのがこの工房でした。
 ジャムづくりの工房を始めてもう6、7年になりますが、苦しい心に向き合ってほぐして言ったり、病院に通ってカウンセリングを受けることももちろん大事だけれども、自分の体を動かすとか、「ありがとう」「お疲れさま」というやりとりがあって、「生きていてよかった」が芽生えてくることにつながるな、と思っています。そういう意味でも、安心して働ける場所がもっともっとたくさんあるといい。ジャムづくりの工房は今12~3人が参加していて、すごく狭い場所でまあまあ密な状態でやっているので、少しずつでも広げてやっていけたらいいなと思っています。

加害者となってしまった親へのケア

 最後に、「ゆずりは」の「MY TREEペアレンツ・プログラム」を紹介します。これは、虐待に至ってしまった親の回復のプログラムです。
 私たちは、虐待被害を受けてきた人たちとたくさん出会ってきたのですが、彼らは親をとても憎んでいたりします。「いつか会ったら、ぶっ殺してやる」と言うくらいに……。でも人との関係は親や家族がすべてではなく、そこで安心の関係が育めなかった時は、他人とでも育むことができる、と、私はずっとそれを証明したい気持ちでやってきました。「私と育んでいけばいいじゃない。私たちと安心を育んでいこうよ」と。その思いは今もあります。
 虐待被害を受けてきた人たちが、安心できる他人と出会え、サポートしてもらえ、友だちや恋人と愛や楽しいを育むこと、それももちろん大事ですが、やっぱりいちばんあたりまえのことが、自分の親と安心や楽しいを育む、ということなんですね。
 自分の親が苦しい姿をいちばんそばで見てきているのが、虐待被害を受けてきた子どもたちでもあるから、「自分の親が笑った顔を、一度も見たことがない」、「お母さんはいつも怒ってた」、「友だちいなかったんだよね、うちの親」とか、「いつも役所に文句に行くのに、一緒に連れて行かれていた」とか、そういう話を聞くたびに、親と一緒に暮らしたいといちばん望んでいるのは、この子たち自身だと感じます。そういう経験を積み重ねていくなかで、私たちは加害した親を遠ざけるのではなく、彼らの苦しみにももっと寄り添っていかないと、虐待の問題って、ずっとずっと終わらないなと感じてきました。
 今の支援では、子どもから親を引き離すことにとどまってしまっています。でも、どうして子どもを愛せなくなってしまっているのか、そこに加害した親のしんどさや苦しさとかがあるので、「ゆずりは」では被害を受けた子どもたちとの出会いから、次のステップとして、加害者の親へのプログラムも毎年行うようになりました。

——事務局:どうもありがとうございます。お話にあった工房のジャムのレシピをつくったのが私の知り合いだったり、国分寺の施設のリノベーションを手がけたのが友だちだったりと、私も「ゆずりは」にはいろいろご縁があります。ジャムはとてもおいしいので、みなさんにぜひお勧めします。先日も木曜日の夕方に伺うと、たぶんジャムのお仕事をされた後の青年2人がベンチに座って、いい感じで話をしていました。「2人は同じ施設だったの?」と聞いたら、違う施設から来たということでしたが、ジャムづくりに2人でやってきて、仕事をした後にベンチに座って延々と話しているところに出会うことがあり、私が、なにかしらよい気持ちになったりしています。

質疑応答1:——すべての相談者を助けられるのでしょうか?

——事務局:とりあえずみなさんが感じたこと、あるいは高橋さんに聞いてみたいことがあれば、手を挙げていただければと思います。と言っても、初めて会う方々のなかで、ちょっと「はーい」と手を挙げづらいかもしれませんね。
 たぶんみなさん、いろいろな関心をもってこのワークショップに申し込んでくださったと思います。子どもたちの虐待の問題について関心があり、多少ご存知の方もいれば、まったく初めてという方もいらっしゃると思います。それぞれの関心から、今の高橋さんのお話へ接続していただけるといいと思います。

参加者1◉「ゆずりは」に来られる方でも、やはりコミュニケーションが難しい方もいるというお話でしたが、知らないうちに来なくなっちゃったね、ぜんぜん連絡取れなくなっちゃったけど、という方もいらっしゃるのではないかと想像したんですけれども、どうでしょうか。

高橋◉生活困窮者の窓口や女性相談の窓口、親から逃げたいとか恋人から逃げたい人が相談する公的な窓口は、役所など、どの自治体にもあるんですよね。そこに相談に行った人もいるし、行っても自分のしんどさを理解してもらえず、「まだもうちょっとガンバレ」と言われてしまうこともある。一見結構元気な人に見えるので、公的な支援の窓口ではなかなかうまくいかない人たちもいます。そういう人たちのために、私たちのような民間の相談所や施設がいくつもあるわけです。
 東京は恵まれているのでいろいろあるんですけれども、「ゆずりは」に来るのは、公的な窓口やいろんな施設が対応しきれなくなったような人が多くて、あそこもここも出入り禁止になった、病院や精神科も出禁というようなツワモノもいます。あと、刑務所から出所した人もいますね。正直「面倒臭いな」とも思いますが、来てくれればそこでつながる。ぶつかり合って「てめえ、二度と来るな、この野郎!」「二度と来るか、くそ。放火してやる」と、さすがに放火はされていないですけれど、そんなふうに言い合うこともあります。
 基本的に私たちは後追いしないので、今現在連絡が取れていない人たちはいっぱいいるけれど、困った時にまた連絡してくるという感じで、完全に「もう私たち、あなたのことをみられません。もう『ゆずりは』は利用しないでください」と言った人は、この11年間に1人もいません。必要がなくなったり、「もうあいつらのところへは行かない」と思っている人もいるかもしれないけれども、決裂していなくなったり、連絡を取らなくなった人は、本当にいない。
 私たちは出禁にはしません。でも、ここで包丁を振り回して暴れるようなことは絶対許さない。包丁を持ち歩くことがお守りになる子もいて、いつもリュックに入れておかないと電車に乗れない男の子もいます。「ゆずりは」にジャムをつくりに来るのに、いつも包丁を何本も持ってくるんです。もちろん使わないので、私たちは持ってくるなとは言わないけれど、もし「おまえらやったろうか」と、その包丁を使おうとするような時には、結構毅然と、「おまえ、それやったら警察呼ぶ」とか、「出ていけ」と言う。そういうバトルはあったりするんですね。
 私たちが白旗を掲げて決裂したことはないのですが、ただ、自死した子は2人います。いろいろな人が来るし、「ゆずりは」はずっと一緒に暮らす場ではないので、出会って、保証人が誰もいなくてアパートの契約ができないから、そこのところを助けてほしいと、そういうところからやりとりが始まるのですが、そこで半年、1年も関わっていないかな、11年のなかで2人自死しているのは、とても悲しいことでした。
 だけど、「死ぬ」という選択をしたということも尊重したい。そう言うときれいごとに聞こえるかもしれないけれど、自死をどう受けとめるかというのも、みなさん、いろいろな考えがあると思います。ともかく、かかわってきた子のなかの2人、亡くなっている子がいます。

参加者1◉ありがとうございます。

質疑応答2:——当事者は、自分たちをもっと社会に知ってほしい?

参加者2◉生活保護受給者が卑屈になっている、「あなたは受給したことがないからわからないよ」と言われる、とおっしゃっていました。私は車椅子ユーザーと一緒にバリアフリーの情報集めなどをしていますが、その時にも車椅子ユーザーから、「あなたは車椅子に乗ったことないからわからないでしょ」って、やはり同じことを言われたりするんですね。とはいえ、車椅子ユーザーは、自分のことをちゃんと知ってもらいたいと意思表示するわけです。
 現状を知ることは、社会の固定観念を払拭することにつながると考えた時に、「ゆずりは」に来る相談者たちは、社会の大勢の人たちに、自分たちのことを知ってもらいたいと思っているのでしょうか。今後、社会や地域のメンバーで彼らとの関わりが増えていく人もいると思いますが、彼らはあまり自分たちのことを知ってもらいたくないと拒絶しているのか、それともどんどん知ってもらいたいのか、お聞きしたいと思ったんですけど。

高橋◉それはたとえば、虐待の被害を受けてきたことや、生活保護を受けていてこんな苦しい思いをしているということを、当事者の人たちがもっと知ってほしいと思っているかどうかということですか。

参加者2◉はい、そうですね。

高橋◉相談者は実数で、毎年500人ぐらいいるんですね。延べの相談件数だと、電話、メール合わせて3万件ぐらいある。1人が1日に「電話出ろ、バカ」みたいなことを100回メールしてくることもあって、それをぜんぶ合わせて3〜4万件なので、まあまあなたくさんの相談や声が届きます。そうして出会う人たちは、基本的にはやはり知ってもらいたいというか、わかってもらいたい。だってすごくしんどい思いをしてきたから、わかってほしいという思いはすごくあると思うんです。
 だけど、当事者としてソーシャルアクションができるかできないか、したいかしたくないかというのはすごく分かれますね。それをしたいと、やっている人たちはいっぱいいます。自分からYouTubeで発信したり、当事者の方たちが虐待被害者の団体などをつくって声を上げていく。あるいはそういう養護施設を出てこんなにしんどい思いをしているんだと、当事者の方たちがいろいろな支援が必要だという声を上げているというのも結構たくさんありますね。
 根底には、わかってほしい思いがある。ぜんぶ社会のせい、親のせいにしているわけではないけれども、やはりもっと早く自分の被害に気づいてくれる人に出会いたかったとか、もっと早くに、自分がこんなにしんどいんだと言える人に出会いたかったと、本当にみんなそう思っている。わかってくれる人や社会をすごく切実に求めているんだな、と、いつも感じています。

参加者2◉ありがとうございました。

質疑応答3:——高橋さんは、相談者にとってどんな存在?

参加者3◉「ゆずりは」は相談所というかたちの事業だと思うんですけれども、一緒にご飯食べたり、お風呂入ったりというお話もありました。「ゆずりは」はあくまで通所の場所であって、生活の場所というわけではないということですよね。
 生活をしていくなかで回復があるということでいうと、「ゆずりは」は生活をともにする場所ではないということで、何かジレンマがあるかな、ということが一つ。もう一つは、相談に来られる方にとって、高橋さんはどういう存在なのか。お母さん的存在なのか、お姉さん的存在なのか、友人なのか、どんなふうに思われていると感じられているか、お聞きできたらと思います。

高橋◉ごめんなさい、何かいろいろ混同してしまって。私はもともと施設の職員だったので、施設にいた時は子どもたちと一緒に暮らして、衣食住をともにしながら、傷ついた心と体の回復というか、元気にしていくということをやってきました。そのなかで、どんなすごい精神科医に通うよりも、その人が暮らす場所が安心できることが、何よりも元気になっていくことなのだと痛感したという土台があります。
 今、「ゆずりは」はサロンをやったり、勉強会をやったり、ご飯を食べたりしていますが、みんな家に帰っていくんですよね。それこそシェルターではないけれど、1週間、2週間と、ここで暮らせるようなこともやりたいと思い始めています。でもそれをやるとなると、ものすごくお金もかかるし、人も必要なんですね。
 「ゆずりは」を始めた頃は、暮らしをともにしないからこそできることをやってきました。一緒に生活することがどれだけ大変なことかということも経験してきたから、もう絶対そんなしんどいことはやらないと思っていたけれども、今は、一部屋でも二部屋でも、生活できる場を「ゆずりは」につくりたいな、と。「ここでちょっと暮らしてみ」みたいなことを、やってみたいなと思い始めています。
 今のスタイルでやれることは限られてはいるけれど、でもその子一人ひとり、ほとんどみんなアパートに一人暮らししているんですけれど、そこの暮らしに思いを馳せるというか、家の中に上がり込むことはあまりしないようにはしているんですけれども、必要に応じてゴミ屋敷を一緒に掃除するとか、一緒に暮らしの場所を整えるようなこともやっていきたい。
 「ゆずりは」は通所型施設ではあるのですが、ここを心地よい場所に整備しておくこと、何か心地よくて安心だなということがその人のなかに芽生えて、自分の家にも、ちゃんとした花瓶でなくてもいいからちょっと花を飾ってみようとか、そういう暮らしのアイデアが生まれていくようなやりとりはしていきたいなと、いつも思っています。
 あと、私がどういう存在かというご質問でしたが、今は、私は私だと思っています。みんな支援者として求めたり、応えてもらいたかったりして、もちろん私も支援するという仕事はあるけれど、でも最終的には、「私は私だよ。何か文句あるか」みたいな感じですね。
 だから結構正直に、できることできないこと、何でも話します。支援する側だから何でも受けとめたり理解しようとはするけれど、それは私に限らず、わからないことやできないこともある。「あなたたちは支援者だから、それで食っているんだったら電話出ろ」とか、みんないろいろなことをすごく求めてくるんだけれども、「夜中の3時4時の『死にたい』という電話には出られないよ。私も寝るのは必要だから」とか、できることできないことを言う。そんな感じ。そういうやりとりですね。
 これもいろいろな考え方があると思いますが、私は「プライベートを見せない」というようなことはしていません。聞かれたら答えるし、聞かれてもいないのに話してしまうこともある。スタッフによっては、プライベートなことは一切話したくない、それがお守りになって、安心になって相談者と関われる人もいるので、それぞれ自分のスタンスを大事にすればいいかな、というのはあります。
 私はこの人にはこれを言って、あの人にはあれを言わないみたいなことがわからなくなるので、結構何でも言ってしまいます。たとえば今も離婚の途中だとか、そんなこと誰も聞きたくないかもしれないですけれども、そういうことも言ったりしますね。

「初めて履いた靴下」のおはなし

——事務局:では後半を、始めます。最初に、「初めて履いた靴下」と題した映像を見ていただきます。

 今見てもらった動画というか物語は、「初めて履いた靴下」という話です。これは実話で、私がもう20年以上前、福祉系の大学の4年生の時に出会った、16歳の女の子、リョウコちゃんが伝えてくれたエピソードです。当時私は、その後自分が勤めることになる自立援助ホーム「あすなろ荘」で実習をしていました。その時そこに暮らしていたのが、リョウコちゃんでした。
 彼女は父子家庭で育って、お父さんはお父さんなりに必死に子育てしていたんですけれども、家を離れてお金を稼いでまた戻ってくるというような生活をしていて、二つ三つ上の、そんなに年の離れていないお兄ちゃんがいて、ほぼそのお兄ちゃんとリョウコちゃんの二人で生活をしていたような状況でした。
 リョウコちゃんとは実習中にとても仲良くなって、自分のおうちのこととか、どうして施設に来ることになったか、「こういう理由で来ていたんだよ」「リョウコの家はこういうふうだったんだよ」「お父さん毎日いなくて、お金だけ置いてあって」と、そういう話もいっぱいしてくれたんです。
 今お見せしたエピソードぜんぶを伝えてもらっていたんですけれど、私が半年くらいの実習の最後の日を迎える前に、大学の担当の先生から、「苦しくてしんどい家庭環境で育った彼女が、やっと誰かの手に保護されて、生活が始まって、そこでいちばん嬉しかったことは何かということをヒアリングしてきて」というような課題をもらいました。
 私は、わざわざヒアリングしなくても、きっと彼女は施設に入って、おなかいっぱい毎日ご飯食べられるとか、彼女は女の子だからお風呂にも入れるとか、いちばん嬉しかったり安心したことはそういうことだろうと思っていました。お兄ちゃんに暴力をふるわれたとか、学校では「臭い」「汚い」といじめられたり、いつも体操服を着ていたとか、ご飯が食べられなくて、ガリガリで細くて、背も小さくて、学校には一人も友達がいなかったけれど、給食食べに学校行っていたんだよ、みたいな話をしてくれていたので……。
 でも最後に彼女に直接聞いてみようと思って、「リョウコちゃんが施設に入れていちばん嬉しかったことは何だった?」と聞いたら、彼女の答えが、「それね、マジ靴下」だったんです。私は「マジ靴下」と言われてピンとこなくて、「えっ、靴下? この靴下?」と聞いたら、「うん、その靴下。靴下は、べつに履かなくても生きていけるから。うちは貧乏だったし、お父さんにいろいろ言うのが怖かったから、靴下買ってくれって言えたことなかったんだよね。下履きたかったけれど、ずっと履けなくて、履きたいと思っていたから」と言って。
 彼女は小学校5年生と、とても遅くに保護されて養護施設に入ったんですが、養護施設の前にいったん入る一時保護所と呼ばれるシェルターみたいな場所があります。たぶんこの靴下の話はその一時保護所でのことだと思うんですけれども、11年間靴下を履いたことのない素足で生きてきた足だし、兄からの暴力も本当に凄まじかったので、きっと傷だらけの足だったのを見て、一時保護所のスタッフか職員が、「カサカサだね」と言って履かせてくれた。それが、もう超嬉しかったということを伝えてくれたんですね。
 このエピソードは、本にしてもらったり動画にしてもらったりして、私にとってもとても大事なエピソードなんですね。靴下って、自分がなぜ履いているかとか考えたこともなかったというか、いつから履けるようになったとか、靴下を履きたいとか履きたくないとか、そんなことも考えたことなかったなと思って。そうしたら、ぜんぶそうだな、と思ったんですね。自分が普通に「いただきます」や「ごちそうさま」を言うとか、暗くなったら電気をつけるとか、お友だちとケンカしたら「ごめんね」と言うとか……、自分があたりまえにしていることって、自分が勝手に身につけたことではなくて、それを教えてくれた誰かがいたわけです。それは親じゃなくてもいいけれど、それを教えてくれる、育んでくれる誰かがいる。靴下を用意してくれる、履かせてくれる誰かがいる。そういうことだな、と。シンプルなことですが、私には、すごい衝撃だったんですね。
 さらにリョウコちゃんが、「お兄ちゃんも靴下履かせてもらっているか、と聞きたかったけれど聞けなかったんだよね」と言った時には、「はあ?」って思いました。親からのネグレクトに加えて、兄からすごい暴力をふるわれていていっぱいアザをつくっていて、それでやっと保護されたのに、そんな兄が靴下を履かせてもらっているかどうか気になるなんて、と。
 虐待されている子どもと親の関係もそうですが、大学時代の私はそれを被害者と加害者だと決めつけてしまって、リョウコの兄は、自分のストレスをぜんぶ妹への暴力にしてしまった悪いヤツというふうにしか思えませんでした。リョウコちゃんにとってももちろん怖い兄だし、憎んでもいたけれど、お兄ちゃんもずっと靴下を履いていないのを見ていて、「お兄ちゃんも履いてないから、まあいいか」と思えたりする気持ちもあったのかな、と。
 そうやって加害者と被害者をばっさり分けるとか、悪い人か良い人か、助けられるべき人かそうでない人か、ジャッジする精神がその頃の私にはあって、その後も結構ずっとあるんですけれども、やっと最近になって、そういうジャッジから自由になれたように思います。リョウコちゃんの「お兄ちゃん、靴下履いてるかな」という言葉はずっと心に残っていて、その時も衝撃だったけれど、本当にその言葉の意味をわかって、「リョウコ、わかったよ」と言ってあげられるようになったのは、まだほんの最近かなというふうに思っています。
 11歳で初めて履いた靴下も、「これ、履いておきな」と渡された靴下だったら、「マジ靴下」の「マジ」はついていなかった。やはり「カサカサだね」と言って、クリームを塗ってもらって履かせてもらったというのが、「マジ」と言ってしまうほど、すごく忘れられない大切な記憶になったんだ、「めっちゃ嬉しかった」になったんだな、と思います。
 おなかいっぱいご飯食べられればいいとか、体操服ではなくてキレイで清潔な服が着られればいいとか、屋根のある家に住めればいいだけじゃなくて、そこに誰かのぬくもりや気持ちが一緒にないと、せっかくの靴下も、せっかくのご飯も、せっかくのおうちも、本当に心に染みわたっていくものにはならないということ。そのことも、20年以上前のリョウコちゃんとのやりとりにいっぱい詰まっていたので、私はこれをずっと大事にしてきたし、この気持ちを伝えるのにいちばんわかりやすいエピソードとして、お話しさせていただきました。
 リョウコちゃんとの出会いがなかったら……。いや、まぁ全員か、出会ってきたみんなかもしれない。そういう出会いがなかったら、今私はこうしていないし、この仕事もしていなかったと思います。それをぜひみなさんに伝えたかった。私の話は、以上です。

*この後、グループに分かれ高橋さんを含め話し合いの時間がもたれました。

——事務局:2時間は長いかなと思っていましたが、あっという間に終わりの時間がきてしまいました。参加いただいたみなさんには、いろいろと気づきや質問、あるいはお話ししたいことが、今日だけですごくたくさん出てきたのではないかと思います。今回のテーマは、また引き続いて深めていければと思います。高橋さん、どうもありがとうございました。

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参加者の感想やコメント

  • 想像力をもっと駆使して暮らしていきたいと思いました。

  • 高橋さんの言葉にならないところに耳を傾ける、という態度が印象的だったと気づきました。

  • 無意識に人を量り、裁いている自分。自分を普通と思えている間はいいが、自分と周りを比較し、他人の中に自身の存在価値を見つけていて、上向くと喜び、下向くとおびえ、他人にもその影を見る。
    でもそう教えられ、動機付けられ、慣れさせられ、失う恐怖と不安に怯える、時折そんなふうに感じる。

  • 高橋さんは、そんな世間の価値観に翻弄されないのだろうか?(私は飼いならされた会社員としての素朴な疑問を感じましたが)途中の休憩前に少し高橋さんがどういう人か見えてきた気がした、同時に高橋さんの屈託のないところが、安定し開放的な性格に安心感を感じた。

  • もしかしてわたしは、高橋さんからそれらしき理由、モチベーションを聞いて、納得したかった、あるいは、分かった気になりたかったのか?と思って、自分の理解ができる枠の中に人を押し込めてはいけない…と思った。
    それでもやっぱり尋ねてみたい、とも思う。

  • 「社会的な辺境」は腫れものではない「社会の一部(いつもそこにある)」として捉える視点や態度を持ちたいと思います。

  • 地方の実態はどうなのか、また、東京であってもそういう場所があるということ自体しらない子はどう日々をやり過ごしているのか、気になりました。届かないところに届けるにはどうすればいいのか、たとえ届かないとしても救える手段ははたしてあるのか。

  • アートは視点を変えるというが、困難な状況にある人は、とても複雑な視点を社会や人、世界に対して持っているのだと思う。その困難な視点というのは、誰にも気付かれないようなものかもしれない。高橋さんの活動は、そうした困難な視点にゆっくりと向き合い続ける活動なのだと感じた。

  • 扉を開いて関わるスタンスを教えてもらいました。関わる事、ご飯や空間で安心と楽しいを一緒に育む。楽しいは心の栄養に欠かせない。笑顔が出る場所なんだろうな、ふらっと遊びに行きたくなりました。

  • その人を「知る」「わかる」というのは、何か?、も活動事例からヒントをいただけたと思います。