もくじ

» ページ1
●OiBokkeShiの看板俳優、 おかじいとの出会い  
●おかじいの言葉と実体験から 演劇をつくる  
●認知症の人の行動や 心理と出会う演劇
●お年寄りほど 絵になる俳優はいない
●誰もが自分に合った 役割を求めている
●介護者には、時に演技も必要だ
●「イエスアンドゲーム」介護バージョン
» ページ2
●【ワークショップⅠ】認知症の人と 介護職員のイエスアンドゲーム
●【ワークショップⅠ】認知症の人と 介護職員のイエスアンドゲーム:感想
●【ワークショップⅡ】 認知症の方と否定と イエスアンドの介護職員のゲーム
●否定しても 価値観を押し付けても、 人の心は変わらない
●認知症の人が見る世界に 寄り添うということ
» ページ3
●【フリートーク1】 「第三者」のかかわりの有効性
●【フリートーク2】 町に開かれる「演劇」の可能性
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 皆さんこんばんは、菅原です。僕は岡山県の県北、鳥取県との県境にある奈義町という町で演劇活動をしています。「OiBokkeShi(オイ・ボッケ・シ)」という劇団を主宰していて、今日はその活動を皆さんにお伝えできればと思っています。

 OiBokkeShiと書いてオイ・ボッケ・シと読みます。字面を見ると何じゃこりゃという感じですが、意味は「老い」と「ボケ」と「死」です。そう聞くと、つらくて悲しいマイナスのイメージがあると思います。できれば老いたくないし、ボケたくないし、死にたくない。僕もそう思っていました。しかししばらく介護の現場で働いて、多くのお年寄りと接するうちに、老い、ボケ、死から得る大切なこともあることに気づいたんです。

 僕は栃木県出身で、大学時代は神奈川県に下宿して東京の大学に通いました。結婚してからは千葉県に住んでいました。千葉の老人ホームで働いていたのですが、岡山県への移住という大きな決断をしたり、そこで演劇ユニットを立ち上げたりと、老人ホームで働いてからより良く生きようという気持ちがわいてきました。世間では老い、ボケ、死から目を背けたがる風潮がありますが、じつは、向き合うことによって前向きになれることもあるんじゃないか。OiBokkeShiでは、僕が老人ホームで見てきた老いの豊かな世界を、演劇などの芸術文化をとおして地域に発信しています。ゆくゆくは、老い、ボケ、死を隔離するのではなく、受け入れる文化を創出するお手伝いができたらいいなと思っています。

 僕の肩書きは、俳優と介護福祉士です。一〇代から二〇代にかけて東京で演劇活動を続けてきました。二〇代の終わりに介護の世界に入り老人ホームでお年寄りと接するうちに、介護と演劇がものすごく相性がよいことに気づきました。今日はそのことをお伝えしたい。もし時間に余裕があれば、ワークショップもやってみたいと思います。ではスライドを用意しましたので、画面共有しながらお話ししていきます。

●OiBokkeShiの看板俳優、 おかじいとの出会い  

 OiBokkeShiの活動を始めたのは二〇一四年六月です。介護と演劇の相性の良さを一般の人にも伝えたくて、まず最初にワークショップを行いました。認知症役と介護者役に分かれて、認知症の方との関わり方を演劇体験を通して楽しみながら考える内容です。介護って3Kと呼ばれて、きつい、汚い、給料安いとされている仕事ですが、実際に働いてみるとすごくやりがいがあったり、クリエイティブな側面もあると感じました。そんなことも、演劇を通じて伝えたいと思いました。  
六月八日に行った最初のワークショップの参加者に、ひとりだけ八八歳の高齢の方がいました。この方はワークショップが始まる一時間半前、僕たちが準備している時に来られて、会場に案内しようとすると僕の顔を見て、「あなたが菅原さんですか。新聞で見るよりいい男じゃな」と言われた。「ありがとうございます」と言って話を聞いたら、同い年の妻が認知症を患い長年介護しているけれど、「認知症を演技で受け止める」という、今日のワークショップを伝える新聞の見出しに引かれて来たというんですね。わざわざ岡山市から、電車とバスを乗り継いで一時間半ぐらいかけて来た、と。  演劇ワークショップでは体を使った遊びをして、その後グループに分かれて芝居づくりをします。その方はご高齢で、少し耳が遠いし歩く姿もつらそうで、ワークショップに参加するのは難しいんじゃないかなと思いました。それとなく見学を勧めたのですが、自分の話を延々と続けてまったく聞く耳をもちません。で、結局参加してもらうことにしました。  ところが、最後にグループごとにつくった芝居を発表した時、その場にいた全員が驚いてしまいました。このおじいさん、演技では水を得た魚のようにちょこまかちょこまか動き回るんです。僕は介護福祉士でもありますから、いつか転びそうでヒヤヒヤしました。不思議なことにさっきまで耳が遠かったのに、芝居が始まるといきなり耳がよくなって、どっちが演技かわからなくなるくらいでした。あとで「あなた、いったい何者ですか?」と聞くと、昔から芸事が好きで、定年退職後は憧れの映画俳優をめざして数々のオーディションを受けてきたというんですね。いちばん演技経験がある人だったわけです。岡山がロケ地となった、今村昌平監督の映画「黒い雨」(一九八九年)や「カンゾー先生」(一九九八年)にも、エキストラで出演したことがあるそうです。
 僕はその後もこのおじいさんのことが忘れられませんでした。演技が大好きで、認知症の奥さんを介護している。もうまさに老いと演劇を体現している人なんですね。で、その一週間後くらいに電話をかけると、開口一番、「これはオーディションに受かったということですか」と言われました。「いや、違うけどな」と思いましたが、でもまぁ、そういうことかな、と……。僕はこのおじいさんと一緒に芝居をつくりたいと思った。これがOiBokkeShiの看板俳優、岡田忠雄さんとの出会いです。僕らは「おかじい」って呼んでいます。それからもう七年たって、岡田さんは九五歳。今も現役で舞台に立っていただいています。

●おかじいの言葉と実体験から 演劇をつくる  

最初はどんな芝居をつくるかまったく考えていなかったので、岡田さんの家にうかがって、介護の話から戦争の話まで、ひたすら話を聞くことから始めました。介護では、最近妻が外へ出ていなくなってしまうので困る、という話でした。先日は明け方に外へ出てしまい、新聞配達員と一緒に町内を探し回ったそうです。その話を聞いて、「徘徊」をテーマに演劇をつくろうと思いました。妻の徘徊に困っている岡田さんと一緒に演劇をつくりながら、徘徊とは何かを考えてみたいと思った。で、スタートしたのが徘徊演劇「よみちにひはくれない」でした。
 「よみちにひはくれない」は岡田さんの口癖です。岡田さんは話し好きで、僕が家に遊びに行くと一時間も二時間もしゃべりつづけるんです。もう日が暮れるから帰ろうと思って時計を見ると、岡田さんは「夜道に日は暮れない」と言う。だからもうゆっくりしていけ、という意味なんですね。その開き直り方がすごくよいな、と思いました。せかせかしないで一緒にゆっくり楽しもうと、岡田さんが言うと何かとても味わい深い言葉だなと思って、それでタイトルにしました。
 徘徊がテーマですから、舞台はまちなか、実際の和気町の商店街です。ここも昔は栄えていましたが、最近はアーケードがなくなったりシャッターが下ろされたりと、ちょっと寂しい感じですが、ここでやりました。最初は駅のシーンから始まります。主人公は、私が演じる二〇年ぶりに和気町に帰省した青年です。青年が駅の改札からロータリーに出ると、そこに見覚えのあるおじいさんの後ろ姿があり、昔かわいがってくれた近所のおじいさんと再会します。
 するとおじいさんは、「認知症を患う妻が、最近外に出て困っている。今もいなくなってしまった」と言う。青年は「じゃあ一緒に探そう」と言って、二〇年ぶりの変わり果てた商店街でおばあちゃんを探すというストーリーです。観客は役者について駅からロータリー、商店街へと移動しながら観劇し、通行人に「おばあさん見かけませんでしたか」などと問いかける様子をずっと見ている。その通行人も俳優ですが、実際の商店街ですから役者と観客の見分けがつかなくなってしまうので、観客には「徘徊中」と書いた黄色いパスをつけてもらいました。[fig.③]
 岡田さんは舞台にかける情熱はものすごいんですが、セリフを覚える気は一向にない。どうすればこの人と一緒に芝居がつくれるんだろうかと考えて、目をつけたのがいつも僕にしてくれる話でした。台本を覚えてもらうのではなく、岡田さん自身の話を台本に組み込んだ。そうしたら岡田さん、もう台本をまったく見ないでも完璧な演技をしてくれました。今もそんな感じで、岡田さんの言いそうなセリフで芝居をつくっています。
 この芝居には実際の商店街の方々にも出ていただきました。突然「芝居をやりませんか」と言っても、演劇文化があるわけでもない和気町ではなかなか皆さん手を上げてくれません。なので商店街の方にはお願いして、自分の店で自分の役を演じてもらいました。時計屋さんを始めみんな演劇経験はないけれど、自分の店や自分に関してはプロですから、本番ではいつもより一.五倍くらい堂々と接客をしてくれました。このあたりは演劇の面白いところですね。これまで演劇をしたことがない人でも、当て書き(その人に合わせてセリフやストーリーを書くこと)をすれば、最初から才能を発揮してくれます。
 僕はこれまで、全国各地でワークショップをしてきました。参加者にはほとんど演劇経験がないのですが、演技をしてもらうと結構うまくて、なりきってやってくれます。それは、人ってやっぱり社会の中でも役を演じているからだと思います。小・中学生はまだちょっと恥ずかしがったり、仲間内でごにょごにょしゃべったりしてなかなか難しいですが、大学生や社会人は、最初から皆さんすばらしい演技をしてくれます。

●認知症の人の行動や 心理と出会う演劇

 こういうお芝居では、観客は何が現実で何がフィクションなのか、その境界がどんどん曖昧になってきます。普通の通行人が演劇の俳優に見えたり、町の音が演劇のためのBGMに聞こえてきたりする。それがこの徘徊演劇の大きな特徴になったのではないかと思います。
 最初は認知症のおばあさんがいなくなったと、介護者の疑似体験から始まるのですが、ストーリーが進むにつれ、じつはそのおばあさんはもう亡くなっていて、そのショックで認知症を発症したおじいさんがもういないおばあさんを探しているのかもしれない、みたいなことがわかってくる。すると観客は、自分たちは今、何のために歩いているんだろうと、ちょっと徘徊しているような気分になってくる。ですからこの芝居に参加すると、介護者や認知症の人が見ている世界を想像するきっかけになるのではないか、と思っています。そんな感じのお芝居です。
 もう少し説明しましょうか。これは「ぼくのパパはサムライだから」という第3回公演です。[fig.⑤]ぼくの、パパは、サムライ、だから、で、略してBPSD。介護や医療関係者は聞いたことがあると思いますが、BPSDは、認知症にともなう行動と心理症状(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)の頭文字を採った言葉です。昔でいう問題行動ですね。徘徊や暴言など、介護者を困らせるような認知症の人の行動を現在ではBPSDといいます。このお芝居は在宅介護をテーマにしていて、息子が、認知症で寝たきりの、高齢のおとうさんを介護しています。
 ところがこのおとうさんは、夜中になると刀を持って振り回すんです。立派な問題行動ですよね。でもその人生を紐解いてみると、もとは斬られ役の俳優だったことがわかります。京都・太秦の撮影所で活躍した大部屋俳優だった。そういうストーリーや個性を知ると、その行動の見え方も変わります。介護者を困らせようとしているのではなく、自分が生き生きしていた時代に戻っているだけだ、と。そうすると関わり方も変わってきて、押さえつけるのではなく、むしろこちらも刀を持って斬ってあげればいい。そうすればみごとに斬られる演技を披露してくれる。問題行動、問題行動と言うけれど、その人の人生や個性を知ると、見え方や関わり方が変わるのではないか。ぼくのパパはサムライだから、BPSDなんですね。
 この息子はあまりカタギじゃない人で、介護なんかまったくわからなくてひどい介護をしている。そこへ妖艶な謎の女性が現れる。彼女はホームヘルパーで、─こういうヘルパーさんが実際にいるかどうかはわかりませんが、この時九〇歳を迎えていた岡田さんに劇作家の僕からのささやかなプレゼントとして、劇中にこの女性とのベッドシーンを入れました。といっても、オムツ交換なんですけれどね(笑)。タバコ介助のシーンもあります。岡田さんは九一か九二歳までずっとヘビースモーカーでしたが、脳梗塞になった時、お医者さんから「舞台を取るかタバコを取るか」と言われたそうです。で、今は舞台を取って禁煙している。
 岡田さん演じるおとうさんがとくに生き生きするのは刀を持った時で、もう俳優そのものの顔です。[fig.⑥]最初は認知症の妻との関わりに困っているワークショップの参加者だった岡田さんは、すっかり演劇にのめり込んで、俳優になっている。最近では「舞台の上で死ねたら本望だ」と言って、僕を驚かせました。僕みたいな若い俳優が言うなら、「ああ、それくらい好きなんだね」とあしらわれると思いますが、岡田さんが言うとリアルだし重いし、お医者さんや看護師仲間を集めなきゃいけないような気になる。一時期劇団には、葬儀屋さんはいたんですけどね(笑)。岡田さんは死んだふりもものすごくうまくて、こちらがヒヤッとするくらいでした。と、こんな感じのお芝居です。

●お年寄りほど 絵になる俳優はいない

 僕が老人ホームで働いて実感したのは、やっぱり高齢者ほどよい俳優はいない、ということでした。歩く姿が絵になるんです。いろいろなお年寄りがいて、僕は、いちいち俳優として負けているなって感じました。ただ歩いているだけで観客を引きつける、最高のパフォーマーなんじゃないかと。しかもお話を聞くと、皆さん八〇年、九〇年と生きているので、人生のストーリーが膨大にある。シベリア抑留の経験があったり、満州で青春時代を過ごしたりと、若い僕には想像もできないような激動の時代を生きてきた方々ばかりです。老人ホームには、人生のストーリーがたくさん詰まっている。ですから、お年寄りに舞台の上をゆっくり歩いてもらって、バックにその人のストーリーが字幕で流れたら、それだけで立派な演劇になるんじゃないかと思いました。いつかお年寄りと一緒に芝居がつくりたいと思っていたのですが、運良くというか、本当に運命のように岡田さんと出会えて、これまで芝居づくりをしてくることができました。
 老人ホームには認知症の方や、胃に穴を開けて栄養補給している胃ろうの方、寝たきりの方など、いろんな方がいます。僕は老人ホームで働いていて、そういう方々と向き合うなかで、「生きるって何なんだろう」とか、「コミュニケーションとは何なんだろう」と、根源的な疑問とも向き合う機会が増えてきました。そこで考えたことを、演劇として発表したいと思った。その時に思ったのは、高齢者と一緒に芝居をつくりたいということと、もう一つは、老人ホームで質の高いお芝居が発表できたらよいな、ということでした。というのも、老人ホームってなかなか訪れない場所ですよね。家族が入所したら面会に行く機会はできますが、地域の人はなかなか足を踏み入れない。なので、老人ホームで考えたことなどを演劇作品で発表して、それを地域の方々に見てもらう。そういうことができたらなと思いました。
 これは「カメラマンの変態」という第四作品目の芝居で、美作市の老人ホームで上演しました。美作は岡田さんの住まいからクルマで一時間ほどの町で、二日間の公演の送り迎えが大変だなと思ってホームの施設長に相談すると、一つある空き部屋を使っていいと言われました。アーティスト・イン・レジデンスなのか、老人ホームのお試し体験なのかよくわからない感じになって……(笑)。施設長が気を利かせて、扉に「控室」って貼ってくれて、大物俳優のような感じで老人ホームを借りました。
 上演の受付では、ホームの利用者や入居者にも手伝ってもらいました。開演待ちの時間には入居者が普通に食事していて、家族が介助していたりもする。で、お芝居が始まるとこんな感じです。淡々とした食事介助の風景があり、バックにそのおじいさんの人生ストーリーが流れる。岡田さんには、脳梗塞の後遺症で言語障害のあるおじいさんを演じてもらいました。一切しゃべらない。岡田さんのおしゃべりがあまりにも長いので、ちょっと黙らせようと思ってつくった役です(笑)。意思表示はこの鈴の音。彼はもとカメラマンで、介助をしてもらいながら写真を撮る、というお芝居です。

●誰もが自分に合った 役割を求めている

 OiBokkeShiの活動は、だいたいこんな感じです。岡田さんとワークショップで初めて出会った時、岡田さんは会うなり僕を「監督」と呼びました。当時の僕は俳優しか経験がなく、作・演出はやったことがありませんでした。なので、「いや、監督じゃないんだけどな」と思ったのですが、岡田さんは役割を求めているんだなと思い、僕はその監督役を引き受けようと思いました。役割ってすごく重要ですよね。人は自分に合った役割を見つけると、いきなり輝き出す。これは子どもからお年寄りまで、すべての人に言えるんじゃないかと思います。
 老人ホームのお年寄りも、これまでの人生では主婦役だったり、サラリーマン役だったり、父親役だったり、いろいろな役をもって生きてきたわけです。やがて子どもが巣立ち、定年退職し、認知症を発症して老人ホームに入るようになって、どんどん役割を奪われていってしまったのではないでしょうか。でも生きている限り、人ってやっぱり役割をもちたいんじゃないかなと思うんです。
 介護職員の仕事として食事、排泄、入浴の介助もすごく大切ですが、一方で、そのお年寄りに合った役割を見つけることもすごく大切な仕事だと思います。その方の今の状態を把握して、人生のストーリーに耳を傾け、その人に合った役割を見つける。人生それぞれでマニュアル化できないので、これってとてもクリエイティブなことで、どこか演出家の仕事にも似ていると思います。演出家の仕事はストーリーを読み解き、俳優に役を与えて、共演者や舞台装置、小道具などの環境を準備して、俳優に生き生きと演じてもらうことなんですね。だから俳優は、いい演出にめぐり会うといきなり輝き出すんです。
 老人ホームのお年寄りたちも、自分に合った役割を見つけると、職員や家族が驚くような身体能力、認知機能を発揮します。それがかつての自分の仕事だったりする場合も多く、マイクを渡したら流暢な挨拶を始めたお年寄りは、もと議員さんでした。そういうことは本当にたくさんある。そういう姿を見ると、介護ってやっぱりすごく面白いというか、感動的です。認知症になったり障害をもったりして、生きていくのも嫌だと思っていた方が、何かをきっかけに「よし、もうちょっと頑張ってみるか」という気持ちになる。そういう瞬間に立ち会える、もしくは、そういう機会を一緒につくれることはすごく楽しいし、やりがいのあることだと感じています。
 看板俳優の岡田さんは九五歳、今年九六歳になりますが、俳優という役割をまっとうしていて、「俳優に定年はない。歩けなくなったら車椅子の役、寝たきりになったら寝たきりの役、最後には棺桶に入る役ができる」と言っています。老いるのはつらいことの連続だと思うのですが、岡田さんはそれを表現に昇華して、そうやっていろんなことを受け入れているのかな、と思っています。

●介護者には、時に演技も必要だ

 僕が介護と演劇の相性がよいと感じたのは、お年寄りほどいい俳優はいないと思ったからですが、もう一つは、介護者も俳優になった方がいいと感じたからです。とくに認知症の方と関わる時には、演技は有効だと思う。皆さんの多くは演劇経験がありませんが、でもみんな日常生活では演技していると思う。例えば警察官は警察官らしく振舞うけれど、妻の前では夫で、子どもの前ではお父さんと、状況によって演じ分けている。
 ただ、介護現場での演技は明らかに演技だと実感しました。僕は老人ホームの廊下で、向こうから来たおばあちゃんに、「あら、時計屋さん」と言われたことがあります。「いやいや、僕、介護職員です。時計屋さんではありません」と言ってすれ違って、で、また次に会うと「あら、時計屋さん」と呼びかけられる。この時僕は、介護職員として俳優になってもいいんじゃないかなと思ったんですね。
 皆さんの中には、認知症の人と関わりをもったことがある方もいると思いますが、認知症の方の言動を受け入れるのか正すのかで悩んだことはありませんか? 僕が初めて出会った認知症の人は僕の母方の祖母で、高校二年の頃でした。「タンスの中に人がいる」と言ったり、デイサービスで出会った高齢男性が好きになり、家の前をクルマが通るたびに彼が迎えに来たと思って外へ出てしまい、徘徊を始めてしまうなど、いろいろ奇妙な体験をしました。そんな時どう関わればいいのか。「いやいや、タンスの中に人はいないでしょう」と正すのか、「タンスの中に人いたね。あぁ、そうだ、何か食べ物を持って行ってあげようか」と受け入れるのか、すごく悩んだことを今でもはっきり覚えています。
 それから一〇年経って介護職員として老人ホームで働くようになり、多くの認知症の方と接するようになりました。その時から心がけているのは、認知症の人の言動はやっぱりできるだけ受け入れた方がいい、ということです。正していては、介護する方もされる方も幸せになれないんじゃないかな、と。タンスの例でいえば、「いや、いないでしょう。じゃあ見て確かめてみよう……」という展開は、やはり何か言い負かそうとしているようで、あまり気持ちが良くないんですね。
確かに認知症の方には、こちらから見るとおしな言動が増えます。記憶障害などの中核症状(脳細胞の死滅や機能の低下によって起こる障害)があるので、これはもう仕方がないんです。にもかかわらず、いちいち言動を正したり失敗を指摘しては、認知症の人の気持ちはかなり傷つくのではないでしょうか。理論や理屈は通じないかもしれないけれど、あたりまえのように喜怒哀楽といった感情はしっかり残っています。ですから認知症の方と関わる時には、理論や理屈ではなく感情に寄り添った方がいいのではないかと思ったんです。そのためには僕らの常識では間違っていても、見たふりをしたりして受け入れたりする、そういう「演技」がすごく必要になってくるんじゃないかなと思いました。

●「イエスアンドゲーム」介護バージョン

 じゃあここで、ワークショップをやってみたいと思います。四名くらいに手を挙げていただけると、いちばんいいのですが……。そんなに難しいことはしません。いつもワークショップで皆さんにやってもらうことですから、演技経験、介護経験がなくても大丈夫です。(手を挙げた五名がワークショップに参加)
 ありがとうございます。ではこれから「イエスアンドゲーム」をします。これはインプロ(Improvisation=即興、即興演劇)といって、即興演劇のワークショップでよくやるメニューです。二人一組で、まず最初の一人が「旅行に行きたい」というように、何か提案をします。もう一人はその提案を受けて、自分がそうしたいかしたくないかにかかわらず、まず「いいね(イエス)」と応える。すべて肯定です。そしてアンドは、「レンタカー借りてこようか」とか「友だちを集めようか」みたいに、自分の意見をつけ加えるということです。その提案を実現するための提案や、さらに面白くするようなアイデアをつけ足す。これがイエスアンドゲームで、今回は僕がつくったその介護バージョンをやってみようと思います。
 介護バージョンも二人一組で、最初はAさんとBさんでお芝居していただきます。Aさんが認知症のお年寄り役、Bさんが介護職員役です。ゲームは介護職員役のBさんの声がけから始まります。声がけには食事と排泄と入浴の三大介護に対応する三つがあって、そのどれでもいいです。「Aさん、ごはんの時間ですよ」、「Aさん、お風呂に行きましょうか」、「Aさん、お手洗いに行きましょうか」というように声がけしてください。「○○しましょうか」だけでもいいです。お年寄り役のAさんは、それに少し文脈のズレた願望を言ってください。「田植えをしたい」、「宇宙へ行きたい」、「仮面ライダーになりたい」など、なんでもいいです。介護者を困らせるようなことや、ナンセンスなことでも大丈夫です。
 ただそれではあまりにも自由すぎて、真面目な人ほど苦労してしまいます。先日高校生とこのゲームをしたら、若い人は柔軟性があって、「マグロになりたい」とか「ピンク色になりたい」、「この施設を爆破したい」と、けっこういろいろ出てきました。難しいと感じる人は、自分の趣味や学生時代の部活動を思い出してみてください。とにかく少しでもズレていればいいんです。
 すると介護職員は「えっ」と、びっくりする。「いやいや、ごはんですよ」と言いたくなるけれど、これはイエスアンドゲームなので、例えば「野球選手になりたい」と言われたら、「あ、いいですね。じゃあバットとグローブを用意しましょうか」という感じで返してください。これでイエスアンドで、おしまいになります。で、次はBさんとCさんで、Bさんは今度はお年寄り役に替わります。そんなふうに両方の役を体験しながらローテーションしていき、一周したら二周目に入ります。普段は二周くらいやるのですが、今日は時間がなくなってきたので一周にします。
 皆さんお年寄り役の時に何を言うか、考えておいてください。考えておかないと、順番がきた時に真っ白になってしまうので……。先日「ごはんの時間ですよ」に「死にたい」と言った人がいて、でもイエスアンドゲームなので、「いいですね。じゃあちょっと薬ですか、ロープなんか持ってきましょうか」と返したケースがありましたが、それでもいいです。ぜんぶイエスアンドしてください。それと、これは高齢の方に多いのですが、延々と長い二人芝居を始めてしまう組が必ず出てきてしまう(笑)。
 いいですか、「ごはんの時間ですよ」「空を飛びたい」「じゃあちょっとタケコプター持ってきましょうか」で、おしまいでいいですからね。「空を飛びたい」のところで、タケコプターなのか飛行機なのか、何だろうと思った時には質問してもらってもいいですが、その次は必ずイエスアンドで返してください。じゃあAさんとBさんからスタートです。

●【ワークショップⅠ】認知症の人と 介護職員のイエスアンドゲーム

加者B(介護職員役)│Aさん、ごはんの時間ですよ。

参加者A(お年寄り役)│ごはんは食べた
くないです。今すぐロシアに行って、プーチンのウクライナ侵攻を止めるんです。

参加者B│あっ、そうですか。そうしたら、飛行機のチケットをまず取りましょうか。

参加者A│お願いします。

•菅原│OKです。いいですね。すばらしいです。じゃあBさんとCさん、どうぞ。

参加者C(介護職員役)│Bさん、ごはん食べに行きましょうか。

参加者B(お年寄り役)│Cさん、僕、ゴジラになりたいんですよ。

参加者C│あぁ、じゃあとりあえず東海村の海岸へ行ってみましょうか。

参加者B│そうですね。そうしましょう。

•菅原│すばらしいですね。何かいいですね、皆さん。じゃあ次、CさんとDさん。

参加者D(介護職員役)│Cさん、ごはんですよ。ごはん行きましょう。

参加者C(お年寄り役)│犬のお散歩に行きたいな。

参加者D│犬のお散歩、いいですねぇ。じゃあワンちゃんもおなか空いてるかな。

参加者C│そうですね。

参加者D│ね、一緒に食べるといいね。

参加者C│そうですね。

•菅原│はい、OKです。いいですね。ごはんにつなげたくなっちゃう気持ちはすごくわかりますよね。犬も認めつつ、じゃあ一緒にごはん食べようというパターンですね。ありがとうございます。次、Dさん、Eさん。

参加者E(介護職員役)│Dさん、お風呂の時間ですよ。お風呂入りましょう。

参加者D(お年寄り役)│はい。私ね、お相撲大好きなのよ。お相撲見に行きたいの。

参加者E│いいですね。じゃあ、お出かけの準備をしましょうか。

参加者D│はい。

•菅原│いいですね。皆さん自然にイエスアンドができていて、すばらしい。じゃあ最後、Eさん、Aさん、お願いします。

参加者A(介護職員役)│Eさん、ごはん食べに行きましょうか。

参加者E(お年寄り役)│ごはん食べたくないです。遊園地の観覧車に乗りたいです。

参加者A│観覧車いいですね。あそこゆっくりしてて、高いところまで行けて。じゃあ一緒に行きましょう。

●【ワークショップⅠ】認知症の人と 介護職員のイエスアンドゲーム:感想

菅原│いいですね。ありがとうございます。皆さん自然に共感できて、相手が喜びそうな一言が言えたのはとてもよかったと思います。やってみてどうですか?

参加者A│難しいな、と感じました。

菅原│介護役とお年寄り、どちらが難しかったですか?

参加者A│介護者役の方が、ちょっと負担が大きかったような気がします。

菅原│どんな言葉が降ってくるかわからないですもんね。それに自分はちゃんとイエスアンドできるか、と、ちょっとドキドキしますよね。
 僕は各地でこのゲームをしていますが、現場を知っている人ほど「否定のコミュニケーション」が染み付いているようです。先ほどDさんは、犬の散歩とごはんをつなげました。「ごはんの時間ですよ」と声がけしたので、その心情はすごくわかります。たまにあるのが、「ごはんの時間ですよ」「ピクニックにいきたい」「今日は雨だから、ごはんに行きましょう」というパターン。相手の世界観をちょっと受け入れつつも、否定してしまう。現場を知っている人ほどそういう関わり方になってしまいがちです。確かに現場では、そんなにゆっくりイエスアンドしている余裕がなかったりしますから、どうしてもごはんが食べてほしくて、ついつい相手を否定してしまう。
 またよくあるのが、「○○に行きたい」「行きましょう」というパターンです。「行きましょう」というけれど、コロナ禍だったり夜だったりして、実際には行けない場合が多いわけですね。寄り添うことはウソをついているようで後ろめたい、という人の気持ちもすごくわかります。

●【ワークショップⅡ】 認知症の方と否定と イエスアンドの介護職員のゲーム

菅原│じゃあここでちょっと、逆のパターンをやってみましょう。Eさんに認知症のお年寄り役、Bさんにイエスアンドの介護職員役をやっていただき、僕が否定する介護職員になります。例えば、「ごはんの時間ですよ」「野球選手になりたい」「いえ、なれません。ごはんに行きましょう」という関わり方を、僕がEさんにします。Eさんは、そう言われて「じゃあごはんに行こう」と思えばごはんに行ってください。「何言ってるのこの人、私は野球選手になるんです」と思えば、ずっとそれを貫いてもらってもかまいません。つまり今度は、僕の関わり方に対してEさんの感情を、次の演技に反映してもらいます。イラっとしたら、僕が止めるまでケンカしててもいいです(笑)。じゃあ、やってみましょう。

菅原(否定する介護職員役)│Eさん、Eさん、ごはんの時間なのでごはん行きましょう。

参加者E(お年寄り役)│ごはん食べたくないです。私アイドル歌手で、このあと歌番組に出るんです。

菅原│Eさん、ないない、ないない。アイドルじゃないから、Eさん。今ごはんの時間だからごはん行きましょう。ないない、そんなの。

参加者E│いや。ファンが待ってるから。ファンが待ってるんです。

菅原│いや、待ってない。Eさん、ここね、老人ホーム。Eさんは八八歳のおばあさんですから、アイドルじゃない。ファンもいない。ね、ごはん行きましょう。

参加者E│私は一六歳です。

菅原│いや、八八歳。

参加者E│一六歳。

菅原│Eさん、今ね、みんな待ってるから、食堂で。ごはん。アイドルじゃないから。

参加者E│いや、待ってるのはファンです。

菅原│残念ながらファンいないです。

参加者E│ファンなんです。

菅原│Eさん、聞いてください。今、食事の時間なので食事行きましょう。ファンはいないです。アイドルじゃない。八八歳のおばあさん。

参加者E│行きたくない。歌いたい。

菅原│ごはん行きましょう。

参加者E│歌いたいです。

菅原│はい、OKです。ありがとうございます。いい感じですね。歌いたい、歌いたいって言われて、僕は、ちょっと食事に連れて行くのが難しいなと思いました。べつに僕も意地悪しているわけじゃなくて、それは僕から見てただ事実を言っているだけなのに、どうしてこの人はわかってくれないのだろう、と思っている。そこで僕は、先輩介護職員のBさんを呼びに行きます。
 Bさんはイエスアンドの介護職員で、どんなに忙しくても認知症の人の言動を受け入れる達人です。というとちょっとハードルが高く感じるかもしれませんが、先ほどやったイエスアンドで、「あ、アイドルですよね。そうですよね。うわぁ、これから番組に出るんですか。いいですね。じゃあちょっと衣装か何か用意しましょうか」みたいな感じで、どんどんアンドでアイディアを出してください。「今どんな気分ですか」とか、「ずっと憧れていたの?」と質問してもらってもいいし、番組に出るためのアイデアを出してもらっても大丈夫です。
 このゲームのゴールは「食事に連れて行く」ことではありません。ただ途中で、この感じならEさんが食事に行ってくれそうだったら、食事の話をしてもいいです。早い段階で言う必要はありません。食事の話をしてもEさんがアイドルの話を続けたら、食事の話はおいてもらって、テレビ局や番組の話をしてもらってもかまいません。じゃあ、さっきの続きから始めます。

菅原(否定する介護職員役)│Eさん、ファン待ってないですから。それよりごはん、ごはん行きましょう。

参加者E(お年寄り役)│歌うんです。歌いたい。

菅原│Eさん、ちょっと待ってもらっていいですか。B先輩っ!。

参加者B(イエスアンドの介護職員役)│はい。(Bさん登場)

菅原│ちょっといいですか。今、Eさんにごはんの時間ですよと声がけしたんですけど、何かアイドルとか、ファンが待ってるとか言って……。いえいえ、そんなことないです、絶対ないですって言ったらすごく怒って。僕の言うことをまったく聞いてくれないので、ちょっと替わってもらってもいいですか。僕、食堂に行かなきゃいけないんで。

参加者B│わかりました。じゃあ、ちょっとこちらで対応しますね。

菅原│すみません。(菅原さん退場)

参加者B│Eさん、どうしました。

参加者E│このあと歌番組があるので、スタジオに行かなきゃいけないんです。

参加者B│ああ、そうなんですね。そうしたらどうしましょう。まずちょっと、もうタクシーを拾っちゃいますか。

参加者E│はい。ファンが待ってるんです。歌番組に行かなきゃいけないんです。

参加者B│あぁ、そうなんですね。そうしたらどうしよう。衣装とかも準備しないとですよね、そうすると……。

参加者E│そう。衣装の準備お願いします。

参加者B│わかりました。そうしたらどんな衣装にします?

参加者E│うーん。赤くてひらひらしたのが着たいです。

参加者B│あ、わかりました。じゃあちょっと準備しましょうかね。そういう服が好きなんですね、Eさん。

参加者E│はい。ひらひらしたのが着たーい。

参加者B│わかりました。そうしたら、あとはどんな歌を歌ったりするんですか。

参加者E│うーん、えーと。聖子ちゃんみたいな歌が歌いたいです。

参加者B│ああ、いいですね。ファンもすごい喜びそうですね、そういう歌だと。

参加者E│はい。

参加者B│すごいファンの人たちもいっぱいいるんですね。

参加者E│そうなんです。いつも応援してくれるんです。

参加者B│そうなんですね。ファンレターとかも来たりするんですか。

参加者E│たくさん来るので、読みきれないぐらいです。

参加者B│ああ、すごくいいですね、それは。今度よかったら僕にも読ませてくれませんか、そのファンレター。

参加者E│どうぞ、どうぞ。たくさん来ますよ。

参加者B│本当ですか。ありがとうございます。

菅原│はい、OKです。いいですね。すばらしいですね。

●否定しても 価値観を押し付けても、 人の心は変わらない

菅原│ちょっとEさんにインタビューしたいのですが、今、僕が演じた否定して現実に戻す介護職員と、Bさんが演じたイエスアンドの介護職員と、二通りの職員がいましたね。僕の演じた介護職員とのやりとりでは、どんな気持ちになりましたか?

参加者E│気持ちがどんどんどんどん意固地になってきて、理解してもらえないので、より頑なになっていく感じがしました。

菅原│なるほど。私は絶対アイドルだっていう感じになって、歌うことに、かなり頑なになっていたわけですね。最初は、今日はちょっと歌いたいな、番組あるから行かなきゃっていう感じだったのが、あれだけ否定されたら、もう何がなんでも番組に行く、私は歌うんだみたいな感じになってくる。

参加者E│はい。

菅原│僕としては、Eさんはおなかが空いているだろうし、食べてもらいたくて声がけしたのにわかってもらえなくて、ちょっとムキになってくる。で、お互いに感情的になって、頑なになっていく。僕はどうにかして食事をしてもらいたいと思っているけれど、逆効果になっている、ということでしょうか。

参加者E│うん。絶対行きたくない気持ちになりますね(笑)。

菅原│このイヤな人はあっち行け、みたいな感じにもなっていましたよね。じゃあBさん演じるイエスアンドの介護職員が来て、どういう変化がありましたか?

参加者E│やっぱり受け入れてもらえて、心がほぐれていく。いろんな前向きな提案をしてもらえるので、自然と笑顔になってしまうような気持ちになりました。

菅原│確かに、アイドルになりたいEさんの世界が広がった感じがありました。Bさんがどんな歌を歌いたいのか、どんな衣装を着たいのかと聞くと、Eさんが見ている世界というか思いが、こちらにもぐっと伝わってきた。それと比べると、否定して現実に戻す介護職員である僕は、見えてくる世界にフタをしていたような感じだったのかな。Eさんとしては、Bさんが何か信頼できる感じになるんでしょうか。

参加者E│はい、菅原さんより格段にBさんの方が信頼できました(笑)。

菅原│もしかしてタクシーに向かう途中に、「今ちょっと食事が出ているようなので先にすませちゃう?」みたいな話になったら、食べるかもしれない? そんなに話を聞いてくれるなら、この人が言うこともちょっと聞いてみようかな、と。

参加者E│うん。なりますね。今の流れで、途中で「あ、ここに素敵なレストランがあるからごはん食べませんか」と言われたら、食べちゃいます。

菅原│なるほど。Bさんは演じてみてどうでしたか。難しかったですか?

参加者B│難しかったですね。最初、タクシーや衣装を準備しましょうと言っちゃったんですが、それ、実現できなかったらどうするんだろうと、ちょっと思いました。なので、途中からインタビューに変えていくと、一緒にEさんのストーリーをつくっている感じがあって、その方がいいなと思いました。

菅原│そのコミュニケーション自体が目的にもなるかもしれませんね。あれだけEさんの思いに寄り添うことができれば、本当には番組で歌えなくても、何かちょっと満たされた気持ちが出てくるかもしれないですよね。ありがとうございました。
 これをやって感じるのは、一方的にこちらの価値観を押しつけたり、頭ごなしに否定しても、人の気持ちは変わらないし、むしろ意固地になっちゃうということですね。相手の話を聞いて信頼関係が築ければ、お互いのストレスをなくせるかもしれない。これは認知症の人に限ったことじゃなく、誰でも自分が信じているものを頭ごなしに否定されたり、一方的に価値観を押しつけられれば、意固地になる。心は変わらない。これは子どもからお年寄りまで、すべての人に言えるんじゃないかと思います。
 介護も子育てもそうですが、こちら側に時間のゆとりや心の余裕がなくなったりすると、人はコミュニケーション不全に陥りやすいのではないでしょうか。一方的に価値観を押しつけてしまうと相手はどういう気持ちになるのか、を、疑似体験していただくワークショップでした。お二人ともどうもありがとうございました。

●認知症の人が見る世界に 寄り添うということ

ほどのゲームの解説を少しさせてください。場面設定は「場所:老人ホームの居室。時間:昼。登場人物:介護職員、認知症の人。問題:介護職員の声がけに認知症の人が応じようとしない」でした。認知症の方には、今がいつで、ここはどこなのか、目の前の人が誰なのか、わからなくなる見当識障害をともなう方がいて、同じ空間にいても別の世界を見ている可能性があります。それは内的な世界ですね。
 例えば「場所:ホテルの一室。時間:朝。登場人物:宿泊客、ホテルマン。問題:チェックアウトの時間なのにスーツが見当たらない」というような、まったく別の世界です。この内的世界を生きているのはもとサラリーマンで、出張の多い生活をしていました。老人ホームに入ってまだ二週間ほどで、今朝目を覚ますと見慣れない部屋にいる。ここはどこ? あ、そうだ、出張でホテルに泊まってるんだ、と、勘違いするかもしれない。
 で、スーツを探しているとガラガラと扉が開いて、「○○さんごはんの時間ですよ」と声がかけられる。「いや、スーツを探しているんだ」と言っても、「いやいや、もうスーツなんて着なくていいから、ごはんに行きましょう」と、そういう関わり方をすると、もう見ている世界がまるで違いますから、コミュニケーションが最初から成立しないんです。僕がさっきEさんにした、相手の見ている世界を否定して現実に引きずり込む関わり方ですよね。
 あるいは、Bさんがしたように相手の内的世界を尊重して、どうにか現実との折り合いを見つけるか。どちらを取るかで介護の現場の雰囲気はだいぶ変わってきます。ですから認知症の人に声をかけて、「おやっ」と思う言動が返ってきたら、いったんこちらの都合はおいて、相手が見ている世界を想像して求められる役を演じる、そういうアプローチも重要なのではないかと思います。
 この、いったん自分の都合をおくというのが、ものすごく難しいんですよね。ごはんの時間だから食べてほしいという都合に、人は知らず知らず支配されてしまいます。人手不足の介護現場だったり、家事、仕事、介護といろいろやることの多い家族介護では、やはりそういう関わり方はなかなか難しいと思います。だからこそ、認知症の人の理解と環境を見直すことは、すごく必要なことだと考えています。
 認知症には中核症状と、先ほどのBPSD(行動心理症状)があり、記憶障害や見当識障害などの中核症状は認知症には必ず生じる症状です。一方BPSDは、徘徊、攻撃的言動、介護への抵抗、興奮など、介護者を困らせるような行動や心理症状として現れますが、これは出る人も出ない人もいる症状です。分析してみると、中核症状の方に対して不適切な対応、─否定したり、無視したり、そういう関わり方をすることで感情が傷つき、行動心理症状が生じるようです。さっきも僕が否したことで、Eさんの抵抗は大きくなりましたが、逆に肯定的な関わり方をすれば、行動心理症状を減らすことができるのではないか。そういうメカニズムをぜひ覚えていただけたらと思います。
 ちょっと長くなりましたが、介護は家族の問題でもありますので、皆さんがこのワークショップで感じたこと、考えたこと、あるいはご自身の介護体験なども、ここからのブレイクアウトルームでお話いただけたらと思います。

*この後、グループに分かれて二〇分ほど、「ブレイクアウトルーム」での話し合いの時間がもたれました。

●【フリートーク1】 「第三者」のかかわりの有効性

─事務局│では、四チームそれぞれでどんな話が出たのか、代表の方にお話しいただきたいと思います。菅原さんへの質問などもあれば、どうぞ。

参加者A│私たちのグループはまずみんなで感想を出し合って、私の印象に残ったのは、Eさんがもと教師をしていた大叔母さんを老人ホームに訪ねた時、ホームの主任が教え子という体で接していて、帰りの電車で「そんな偶然もあるんだね」とお父さんに話したら、「いや、あれは演技だよ」と言われてびっくりしたという話でした。もう二〇年以上前の記憶が、突然よみがえったそうです。ほかには、とくに家族の場合はどうしても否定で関わってしまいがちだよね、という話がありました。

参加者B│僕がさっき参加したワークショップの感想なども含めて、「演じる」ことについて話しました。演じた方が楽だという話も出ました。徘徊演劇の通行人は演じていない状態で、どことも関係を結べていないよね、という話とか……。

参加者F│例えば介護職員であれば介護職員の演技をしているし、認知症の方と向き合ったら寄り添う演技をする、その二つの関係はどうなんだろう。どっちも演技だけど、その関係や違いはどうなんだろう、という話をしました。みんなそれぞれ役割をしているけれど、演技をする時に、自分は何になってどういう演技をすればいいのだろうか、と、そんなことが印象に残りました。

参加者G│否定の介護職員とイエスアンドの介護職員のワークショップで、否定されるのは聞いていてつらいけれど、その場にいたら、否定して現実に戻したい思いもすごくわかると思います。もしかしたらイエスアンドは、ただ迎合するだけになっちゃうかもしれない。どちらが人の尊厳を尊重しているのだろう、という話が出ました。
 最初のグループから、身内だときつくなっちゃうという話が出ていましたが、訪問ヘルパーをしているCさんはその経験から、介護は身内じゃない方がいいと思ったと話されていました。「身内だったらきつく責めてしまうところでも、ヘルパーならヘラヘラ言える」という言い方をされていたのがすごく印象的で、何かいいなと思いました。でも、東京のヘルパーの半分以上は六五歳以上だという話を聞いて、老いとか死を考えるタイミングや出会うタイミングを見つけるのは難しそうだと思いました。
 菅原さんは患者さんばかりでなく介護する方にもよいことがある、とおっしゃっていましたが、私自身も今、大阪の西成で支援活動をしていて、現場では人生の大先輩たちに具体的なトイレの掃除の仕方を学ぶこともあるし、困窮状態にあっても楽しく生きる人たちと一緒にいて私にもいいことがあるので、すごく納得しながら聞いていました。ともかくみんな、楽しく笑って暮らそうね、と話し合いました(笑)。

菅原│介護は、家族だと遠慮なくずけずけ言ってしまったりするので、なかなか難しいですよね。それが親であれば、もう四〇年も五〇年もその人の前では息子や娘を演じてきてるわけですから、いきなり「時計屋さん」と言われても、なかなかその役を演じられないし、こちらの頭にはしっかりしていた頃の親の姿が焼きついているので、認知症でだんだんできないことが多くなっていく現実を、認めたくない部分もあると思います。ただ、演技というとハードルが高くなりますが、家族の場合なら普段の言動を振り返ってみて、普段してしまっていることをしない、ついせかしたり、失敗をいちいち指摘したり、きつく当たったりということをしないようにするだけでも、ずいぶん変わってくることもあるんじゃないかと思います。

事務局│そう考えると、子育ての時は厳しかったですね。

菅原│そうですね、自分の親は他人に任せて、自分は他人の親を看ると、介護現場でもよく言われます。その方がいい関係を築きやすい。嫁姑問題もそうですが、家族だといろんな感情が混ざってしまって、介護の邪魔をすることがけっこうあります。

事務局│それって面白いですね。ステップファミリーのように少しずらしていくことを社会として真面目に考えることができたら、起こっている様々な問題も少し開けていく可能性があるかもしれないですね。

菅原│そうですね。真面目な家族ほど、介護の問題も家族で解決しようと思いがちです。でも、近所の人でも、介護サービス、ケアマネジャーでもいいですが、第三者が入ることは重要です。例えば父親と息子の二人暮らしの場合であれば、第三者が入った方が父親がちゃんと話せたり、いい父親を演じられたりするんです。

●【フリートーク2】 町に開かれる「演劇」の可能性

事務局│「自分の親は他人に任せて、自分は他人の親を看る」というような開かれ方と、徘徊演劇のように演劇が実際の町に開かれていくことが、何かうまくつながっていかないかと考えているのですが……。起こっていることを、不特定というか、匿名なところに開いていくというような。菅原さんは町に出ていく演劇を、どんなふうに考えていらっしゃいますか。

菅原│最初の徘徊演劇は、徘徊がテーマなので町でやろうと、あまり考えずに外へ出ました。ちょうど芝居ができるいい場所もなかったので、商店街をそのまま舞台にしようと思ったんです。ただ、町に出ることでいろんな出会いがありました。最近イギリスでも徘徊演劇を上演したのですが、やっぱり介護の問題ってけっこうみんな話したがっているんです。家族のこと、老いや介護のこと、いろんな悩みがある。だからまちなかの偶然の出会いから演劇を鑑賞して自分の体験をほかの人に話すような、そういうきっかけにはなり得るのかな、と思っています。この徘徊演劇をどんどん発展させて、チケットを買ったお客さんだけじゃなく、通行人たちも舞台に触れて自分の体験を話したくなるような、そういう仕掛けをつくっていけたらいいですね。
 僕は認知症の啓発などいろんな機会に、今日のようなワークショップや講座を開催していますが、やっぱり関心のある人しか来てくれません。でも町に出ると、そういう問題は居酒屋にも普通のお店にも、すでにあるわけですね。だから介護や認知症の啓発に関わっている人たちも、福祉会館や公民館ではなく、町に出ることも重要じゃないかと思います。
 徘徊演劇の上演をイギリスに呼んでくれたデービッドさんはアーティストで、やはりまちなかで演劇をやっている人です。彼の作品「BED」では、町中に高齢者が寝ているベッドが突如現れ、高齢者役の俳優が実際の通行人に自分のストーリーを話しかける。そういうパフォーマンスなんですが、すごく興味深い。そういうふうに老いや認知症の問題を、作品を通して目に見えるものにしていきたいと思います。
 福岡県の大牟田市で上演された認知症啓発のお芝居も面白いですよ。若年性認知症の当事者が俳優になって、いろいろな家を突撃訪問していくんです。当事者である俳優自身が町に飛び出してピンポン押して、「私は認知症役で、これから演じますので参加してくれませんか」、と。その話を聞いて、すごい前衛的なお芝居だと思いました。僕は今、老いと演劇を結びつけて芝居をつくっていますが、啓発にもなり、しかもすごく前衛的な芝居も、ゆくゆくはつくっていけたらいいなと思っています。

事務局│ピンポンした人が認知症の当事者で、もしかしてピンポンされた人だって何かの病気かもしれないじゃないですか。そうしたら病気論争になるかもしれないし、慰め合ったり、助け合ったりできるかもしれない。何か一つが特別な病であるというふうにならないかもしれないというのは面白いですね。

菅原│そうですね。演出者の意図しない出会いがある。現実には老老介護やどちらも認知症である認認介護、認知症の息子を高齢の親が介護するなどいろんなケースがありますから、演劇をまちなかに開いていくことで、もっといろいろ見えてくるかもしれませんね。

事務局│私も何かやれたらいいな、という気持ちになってきました(笑)。本日はありがとうございました。

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