●黒岩地区の公民館から
事務局│今日は豊田さんと黒岩地区の皆さん、6名の方に、黒岩地区の公民館に集まっていただいています。今日は皆さんに、黒岩地区の暮らしについてお話を伺いたいと思っています。その中で、豊田さんがどのようにそこで撮影をされていたか、どんなところを撮影していたか、どんなことがあったかということもお伺いできたらいいなと思っています。では最初に、豊田さんから皆さんのご紹介をお願いしてもいいですか。
豊田│その場の空気などが伝わるといいなということで、今日はWS1回目に写真を見ていただいたりした黒岩地区からZoomをつないでお話ししようと思います。
私が黒岩地区を知ったのは、2012年の新聞記事でした。それを見た直後に来たのですが、それからだいぶ間が空き、次に来たのは2013年秋頃です。水俣病検診のときに区長さんをしていた橋本明さんを紹介していただいて訪ねました。そこから少しずつ通ってきて。
2015年に水俣に引っ越した直後に、やはりここを撮りたいんですということで、もう一度お願いしに来ました。その後、「今度どんどやと御講さんという村行事があるから、そのときに来て、話を聞いたり写真を撮ったりしたらいいよ」と許可を頂き、2016年から通わせていただいています。村行事や普段のときに来て、昔の暮らしなどいろいろなことを聞きながら進めてきました。その中で徐々に撮影ができるような距離の近さになって、今に至ります。
お一人ずつ自己紹介を簡単にしていただこうと思います。
橋本│皆さん、こんにちは。私は今日、みんなが集まっている公民館の館長をしています。有希ちゃんは、8年ぐらい前から来るようになって。今ではもう有希ちゃん、有希ちゃんと、ほとんど皆さんが知っている状態です。
でも、最初は一人で写真を撮るともいかんけん、私がずっとついて行って、写真を撮らせてください、写真ば撮らせてくださいと、一緒に回りました。でも2回、3回目からは一人で結構あちこちいかれてた記憶があります。私は来月で71歳です。橋本明です。よろしくお願いします。
久保│皆さん、こんにちは。久保誠也といいます。黒岩区長をして6年目になります。最近はコロナ関係でいろいろ行事もできませんが、コロナが落ち着いたら皆さんと一緒にまたできたらいいなと思っています。よろしくお願いします。
久保(の)│こんにちは。久保のり子といいます。妻です。私は、今日はたまたま休みということで、わけがわからず参加しろという(笑)。よろしくお願いします。
岩口│こんにちは。私は岩口虎次と言います。豊田さんとは祭りとかでよう会話をさせてもらっています。よろしくお願いいたします。
渕上│私は昔の平家の落人の5代目、6代目になるんですけど、黒岩でも平家の落人は、3家しかなかったんですよ。それで一番残っているのが今、渕上家がこうしてなんとか農業をやりながら暮らしておるんですけれども。もう年も80を越した男衆に、そう長くはもうもたないと思います。なんとかできるだけ黒岩の部落の人たちで仲良く暮らしていこうかなと。それだけは私は思っています。以上です。
渕上(ト)│私は渕上サイトウの妻です。トキエと申します。いろいろと主人が申したように、皆さんのおかげさまで、80を超えて、なんとか元気で二人で頑張っています。よろしくお願いします。
豊田│こんな感じで、集落のごく一部の方々ではあるのですが、今日ここにお越しいただきました。本当に皆さんに温かく接してもらいながら、撮影をつづけてきていて。ここで写真を上映したり、近くで写真展をしたりして、どういうふうに皆さんが思うんだろうということを考えながらつづけてきました。
逆に言うと、この地域になじみのない方たちは、この写真やこの地域をどのように見るのかなということも思っていて、どんなことがわからないか私も想像がつかないので、ぜひいろいろな質問を投げかけていただけたらと思います。
最初に3分のスライドショーを見ていただいて、その中で心に残っている写真があったら、そのことについてお話ししたり、村行事のことなどもなじみのない方が多いと思うので、そのことについてお話しいただこうかなと思っています。
<スライドショー上映>
●昔はなんでもつくっていた
参加者1│スライドショーで出てきた、木の壁にたくさん字が書いてあった写真は、何の写真でしょうか。[fig.②]
豊田│これは確か、昔の天秤とか荷物が置いてある納屋で撮らせてもらった写真ですね。
橋本│ああ、これは納屋の名簿とか書いてあっとやなか?みそとか。
豊田│そうです、そうです。納屋の壁にチョークのようなもので、メモ書きみたいな感じでされている。どこの家だったかな。
橋本│みそばつくるときの帳簿とか、そういうものかな。砂糖ばどんだけ入れればいい、砂糖、塩、どのくらい入れるとか。
豊田│たぶんその材料や量が作業をしながら見られるように壁に書いてあって。
渕上(ト)│もう今は覚えたばってんさ、みそ麦が何キロ、米が何キロ、塩が何キロと書いてあったメモがあったんですね。今はもう貼ってないけど。覚えたけん。
参加者2│今もみそってつくってるんですか?
渕上(ト)│そうです。手作りでつくってます。
豊田│トキエさんはみそもですけど、なんでもつくられます。
事務局│おみそは一軒一軒でつくるんですか。みんなでつくる?
渕上(ト)│いや、今はうち1軒だけです。昔は、村中つくりましたですかね。おみそもしょうゆも。今は、でもほら、しょうゆも買うとがあるし、みそも買うとがある(買うものがある)。だけん、あまりつくんならんけど、私はやっぱり手作りします。
事務局│いいですね。
参加者3│おみそのほかにも、今でも手作りされているものはありますか。
渕上(ト)│漬物とか。畑でつくる品物は、大豆とか、からいもとかですね。野菜はもうほとんどつくっています。
豊田│それぞれたくわんとか高菜とか。漬物はあとはどんなものが多いですかね。
渕上(ト)│ほとんど高菜かな。生姜みそ漬けとかな。
豊田│お花見や、敬老会のときは、みんなでもち寄りするんですね。おにぎりと、皿いっぱいにお漬物が並ぶ。いろいろなおうちのたくわんとか高菜とか漬物が並ぶので、だいたいそこで塩の塩梅の話になって、「これはからか」「これ甘か」「これはどがんとか」という話になって、その話を聞きながら、私はぜんぶ少しずつ食べていくのですが、どれもおいしいですよね。
●村の行事のこと─山の神さん
参加者4│縄を結って、縄を背負っているみたいな、何かの行事なのかなと思う写真があったんですけれども、それが何なのか、ぜひ教えていただけたらと思います。
豊田│あれは山の神様ですね。何て言うんですかね。皆さんは山の神さん、山の神さんって言うんですけど、山の神様を祀る行事があって。そこの写真もちょっと出しますね。
コロナ禍でいろいろな行事が中止になっていますが、この山の神さんだけでは今年もやって。これが今年ですが、最初にこんな感じで太いしめ縄をみんなで結うんです。これは前の日。しめ縄につける飾りをつくっている。これはサイトウさんと橋本さんです。昔からすごくきれいに、縄を結うのも飾りをつくるのもサイトウさんのきれいな手作業で。しめ縄は男性3、4人で結われますよね。[fig.③]
渕上(ト)│ミツネリせんばいけん、3人おらんと。
豊田│ミツネリ。3方向を1人ずつもって。この写真ですね。[fig.④]
渕上│これつくる前な、準備が大変やった。
事務局│サイトウさんがすごくそれがお上手だと豊田さんから聞きました。サイトウさんが教えてくださっている。
渕上│はい。
事務局│サイトウさんのお宅だけが今、田んぼをやっているとおっしゃっていましたっけ。
渕上(ト)│そうです。
事務局│わらは、そのときのわらですか。
渕上(ト)│そうです。
参加者5│縄を編んで、山の神様のところにかけるまでが、一連の行事ということですか。
橋本│そうですね。終わったら、お神酒上げ。お酒を山の神さんに上げてから、みんなで。
渕上(ト)│うるちの米で粉になして、団子(だご)をつくって、神さんに上げて、それを焼いて、食べるのが行事です。
豊田│昨年はみんなで一緒にしていたのですが、私が最初に来た年は、上に(山の神で)男性がよっていましたよね。女性が下で団子(だご)をというふうに分かれていましたよね。
渕上(ト)│家でつくっていって山の神さんに少しずつ丸めて、団子(だご)をつくっていって、わら苞と言ってからつくって、それをもっていって上げてからおろして、焼いて食べる。
久保(の)│そうすると、女の人はあれには上がれないの。
豊田│そうですよね。山の神様が女性なんですね。
久保(の)│女性だから、女の人は…。
渕上│昔は女の人は行ったらあかんいうて。
豊田│あそこの場所に行くのも駄目だったんですか。
渕上│昔は男の人だけ。
久保(の)│絶対男の人だけ。昔は人間が多かったけん、上と下に分かれて毎年交互だったんだけれども、人間がいないし、年もとってきたけん、合同でするように。
豊田│なるほど。そのような形で。山の神様だけは、コロナ禍でもあっていますよね。
●村の行事のこと─御正忌さん
渕上(ト)│秋の彼岸、春の彼岸、御正忌さん、3回は必ず、行事をしています。
事務局│御正忌さんてなんでしょうか。
渕上(ト)│御正忌でお寺さんのほら。阿弥陀如来さんの命日に、昔は古(旧暦)でしよったですばってん今はもう新でさすとたいな。御正忌さん。親鸞聖人の命日にほら、1月15日かな。古では。今は新でばっかりしよるでしょ(新暦でばかりおこなっているでしょう)。
豊田│これが御講さんですね。[fig.⑤]
渕上(ト)│はい。御正忌の御講さんって言ってから、必ずお煮しめつくって、みんな寄っておつとめをして、真宗のおつとめですたいね。黒茶碗で、白和えとかすわいとかお煮しめとかおつゆ(お吸い物)とか。5つたいな。それを黒茶碗でみんなそろって。御正忌さんと春の彼岸、秋の彼岸は、ずっとしよったですばってん。65、66、ずっとたいな。私が嫁いでから53年で終わりたい。53年してから。もう2年せんけんな。
豊田│今は年3回なんですが、昔は回し御講と言って。
渕上(ト)│そうですよ。一軒一軒。
豊田│農業の忙しい夏場を除いて、毎月一軒ずつが担当しながら御講さんを回していくというのもつづいていたのですが。
渕上(ト)│正月から4月までして、そしてから9月からやったか、10月からやったか。9月からやったかな。5、6、7、8月、4カ月なかだけだよな。ずっと一軒一軒。
事務局│一軒のおうちでみんなのごはんをつくるんですか。
渕上(ト)│そうです。
事務局│大変だ。
豊田│ここに、今ずらっと並んでいるんですが、これを前の日に食材を集めてきて、当日、朝から女性たちで切り分けてみんなで、大きな釜で順番に野菜とか厚揚げとかを煮ていくんです。それで最後に取り分けて、みんなで。
渕上(ト)│さっき釜が出てきたがな。[fig.⑥]
渕上(ト)│これこれ。そこで小豆炊く。
事務局│お砂糖は白いお砂糖なんですか。小豆。
渕上(ト)│そうです。小豆の中に白いお砂糖入れてですね。にんじんとか大根とか入れて、米粉の小さく団子をつくって、その中に入れて。20~30個つくって入れて。ぜんざいと一緒ですたいね。
豊田│そうですね。1月はそうですね。
渕上(ト)│はい。1月はもうそれです。秋の彼岸と春の彼岸は、もう本当の煮しめだけです。煮しめとすわいと白和えをして。
豊田│すわいってわかりますか。酢の物なんですけど。
事務局│ああ、そうですか。何と何の。
豊田│にんじんと大根を酢の物にしたものなんですよ。
渕上(ト)│そうです。それも手作りで。みんなでもち寄って、大根とかにんじん。
豊田│それは砂糖の塩梅をみんなでいろいろ言いますよね。これは甘か、とか。
渕上(ト)│材料は自分の家にあるものをもち寄って。
事務局│皆さん黒岩地区ご出身ということですが、小さいころからの生活の中で、そういうもののやり方とかは自然と身に付いてきたんでしょうか。
渕上(ト)│こんにゃくでも豆腐でも手作りばっかりだったです。昔はこうして回してな。で、豆腐をつくってしよらしたです。
豊田│家でだいたいみんな教えていましたか。
渕上(ト)│みんな豆腐とこんにゃくは自分のうちでぜんぶつくって、正月を迎えよる。
橋本│おばあちゃんからずっと伝わってきてる。
渕上(ト)│こんにゃくは今でも手作りします。
●暮らしの変化
参加者6│先ほどお米をつくっていらっしゃるのは1軒だけと。だいぶ減ってきているのかなとも思うのですが、長いあいだお米をつくっていらして、何か変化は感じていらっしゃいますか。
橋本│第一に、後継者がいないことですね。
参加者6│後継者がいない。若い方がいらっしゃらなくて、お米がつくりつづけられない。
橋本│この村も52戸ぐらいあったうちの30何件ぐらいお米をつくっていらしたね。でも、だんだん後継者がいなくなって、もう今は渕上さんだけになった次第です。
豊田│お二人がもう最後なのですが、田植えのときとか稲刈りのときは、近くの街に住んでいる娘さんや息子さんも集まってきてするような感じです。私も何回かお手伝いしただけですが、かなりの体力が必要になるから、つづけていくにも大変だなというのはすごく思いますね。今ある田んぼでは、1年でだいたい8俵から10俵のあいだで取れていると聞きました。
●豊田さんの写真に撮られるということ
参加者6│ 皆さん、豊田さんの写真はどうですか。
渕上(ト)│本当にいい写真をもらっています。
参加者6│皆さんは普段撮られたりしますか。集合写真以外で撮ることはあまりないですか。
久保(の)│携帯で風景は撮りますね。よく雲海が出るんです。それを撮ったりはします。
橋本│昨日の朝も結構出た。
渕上(ト)│昨日はきれかったな。
事務局│最初、橋本さんが案内されて、豊田さんがいらっしゃった。ほかの皆さんは、若いお嬢さんがいきなりバイクで現れて、どんなふうに思われたんでしょうね。
豊田│正直に、自由にどうぞ。
橋本│最初来たとき、男と思った(笑)。
豊田│真っ黒な服装でバイクで来るから。
渕上(ト)│私はそのとき田んぼにおったんですよ。そしたら、えらい太かバイクで、男の人が来らしたかと思って。
豊田│最初はどんどやのときに来させていただいたので。でもあまりね。そのときのことって。
渕上(ト)│一番最初のとき、御講さんに行ってきなさったもんな。
久保(の)│うちの子が成人式のとき。
豊田│あ、そうです。成人式で帰ってこられているとき。あれが最初です。
久保│あれで写真をもらって。
豊田│そうです。集合写真ば撮って。
橋本│こっちは小学校も中学校も閉校になったけん、学校が閉校になった跡も豊田さんば連れて行って、小学校のあった、中学校のあったんだと。
事務局│ 8年前くらいだと、豊田さんは20代でいらしたのかなと想像するのですが。
豊田│26ですね。
事務局│それぐらいの年代の方は、集落にはいらっしゃるんですか。
豊田│いない。今、26歳の息子さんが帰ってきたときとおっしゃったんですが、私はそれ以来、あまり若い方は見ていないです。
久保(の)│子どもは最後。
豊田│そうですね。子どもさんが最後で、6年前に来たときにちょうど成人式で帰ってこられていたんですが。
久保(の)│それでもう子どもはいないです。
事務局│それよりも年下の方がいないというところと、それぐらいの年代の方はそちらには住まないで、いろいろなところに住んでいるという感じですか。
豊田│出て行く方が増えて。若い方で40代の方がいますよね。一番若くてそのくらいから60代、70代。70代の方が多いような気がします。それから80代、90代。
渕上(ト)│昭和45年ぐらいは、70人ぐらい小学生がおったですばい。それがもう全然おらない。
豊田│全然違いますよね。
事務局│じゃあその中で豊田さんのような方がいきなり行くというのは、新鮮なことというか、珍しいことだった。
岩口│新鮮すぎて、怖かった。
豊田│最初に橋本さんを紹介していただいて。やはり顔見知りでないと、怪しいと思われるだろうとも思って。それで橋本さんが、いろいろなところに連れて行ってくださって、こうやって写真を撮っている人だよと言って、紹介してくださったんです。それから少しずつ顔がわかるようになってからは、一人でお話を聞きに行ったりとか、写真を撮らせてもらったりしました。
渕上(ト)│お嫁さんに欲しかったと考えたこともありました(笑)。
●一緒に時間を過ごす中で、少しずつ育まれた関係
参加者8│豊田さんは黒岩地区で撮影する際に、宿泊することはありますか。そのときはどなたかのおうちに宿泊されるのでしょうか。
豊田│いつも撮影のときは、橋本さんのご自宅に泊めていただいています。あとは、以前、取材を3〜4日集中的にしたいときがあって、そのときは親戚の方の空き家をお借りして泊めてもらいました。
参加者8│黒岩地区に宿はなさそうだなと思って。だから、撮影のときにバイクで来て、終わったらバイクで帰り、また次の日にバイクで来て帰りというのを繰り返していたのかなと思ったのですが。泊まったり一緒にごはんを食べたり、そういう生活をともにしているからこそ撮れる写真もあるのかな、とも思ったので、質問しました。
豊田│最初に来たどんどやのときも泊めていただいたのですが、どんどやとか山の神様の行事のとき、ビールや焼酎が結構出てくるんですね。一緒にいただきたくて泊めていただいたりしていて。夜もみんなでごはんを食べながら、ちょっと飲みながら、後半はカラオケ大会をしたり、そんな感じでずっと過ごさせていただいています。
事務局│きっとそうやって時間を過ごすことで、おみそ汁とごはんの写真とか、たぶんいろいろな思いが込もった、ああいう写真が出てきたり、ああいう風景が出てきたりするのだろうなという感じはとてもしますね。
豊田│田植えのときや田んぼ仕事のときとか、お昼ごはん食べていかんねと言ってくださったりするので、お邪魔させてもらったり。
取材と言うとかしこまる感じがあると思うのですが、実際はごはんを食べながらいろいろなことを話していたりします。あと、原稿を書くときには、言葉の間違いがあってはいけないと思っていろいろ聞きにいくんですよ。そこでゆっくりお茶しながら、話を聞いていくと、どんどん広がっていって、また新しいお話が聞けたりもする。取材ということもなく、ただお散歩をしながら話を聞いていくようなこともあるし。あまりかちっとせずに、話しやすい雰囲気で話してもらうようにしています。
●お花見や敬老会
参加者9│先ほどの写真についての質問です。和室でみんなが車座になって、サングラスのようなメガネをかけたおばちゃんが踊っている写真があったと思うのですが。あれは何かお祭りの行事だったんですか。[fig.⑦]
久保(の)│花見だね。
豊田│花見もごはんを食べて盛り上がってくると、こんな感じで仮想大会が始まったりとか、カラオケ大会が始まったりとか。あと、サイトウさんは、皿踊りの名手なので、のってくるとどんどん踊ったりしています。
井尻│室内で、花見をされているんですか?
久保(の)│花は目の前に。そこで集合写真を撮って、あとは室内に。ここは公民館ですね。みんな、座ってゆっくりできるし、トイレがある。
豊田│敬老会も仮装したり、楽しい会ですよね。
久保(の)│昔は敬老会と言ったら、踊りの班とかを決めて、ずっとやっていたのね。今は人がいないから、飛び込みたいにしてやっているけれど。
豊田│宴会芸の人たちを順番で回していたんですか。
久保(の)│そうそう。宴会の人たちが踊りの練習を敬老会まで1カ月ぐらいして、その敬老会のときに披露するのを見せるというのをずっとやって。
橋本│カラオケを3曲歌ったら、今度は踊りば。
久保(の)│踊りをあいだに入れて。だから一人で、踊りもいくつか覚えないかんし、飛び込みでいかなきゃいけないし。
豊田│かなり盛り上がりますね。
●暮らしについて聞き取りをする
参加者9│豊田さんが集中的に聞き込みをされた時期があったということですが。豊田さんのお写真は、エピソードを言葉で語る感じではないのだろうなと思うのですが。聞き取りをされた内容は、暮らしのお話が中心なのか。それとも、水俣に結び付けたお話を聞いたのか。どんなお話を聞き取りしているのですか。
豊田│村行事のことだったり、その行事の詳しい、どういう成り行きでしているとか、あとは、小さいころどんな暮らしをしていたかとか、暮らしについてがほとんどです。暮らしを聞いていくと、昔の行商さんの話だったり、食べ物のことだったり、いろいろなところからつながっていくこともあって。
もちろん水俣病のことに関してもいろいろ聞いたりもしていたんですが、それは人によって様々なので、必ずこれとこれは聞くみたいなことはないんです。昔の暮らしとか、道がない時代は今とは生活圏が少し違ってくるので、こちらで取れたものをどういうところに売りに行っていたかとか、どういうところからこういうものを仕入れたかとか、そういうことを細かく聞いていったりしていましたね。
参加者9│その際のお話も伺っていきたいというお気持ちはある?
豊田│そうですね。水俣病の記事がきっかけなので、そのことも大元にあって、だから暮らしを伝えていきたいんですが、それは暮らしの端々にも入ってくるというか。水俣病のことを調べていたり、行商さんのことを調べていたり、ここの暮らしのことを調べていたりすると、どこかで歯車が合ってくるというか、話がどんどんつながっていったりするので、そういったことを聞いていく。
ただ、みんながみんな昔のことを知っているわけではないし、村行事のことをみんなが詳しく知っているわけではないから、いろいろなことを聞いていくと、これはこのことだったのかなとか、ここがこっちにつながってくるのかということがわかるので、そういった意味で話を聞いたり。あとは本で調べることもあります。黒岩の歴史や、昔の暮らしについて、もちろん水俣病がどうだったかも調べていく。
参加者9│調べて聞き取りした内容で、次の作品をつくっていこうとされているのでしょうか?
豊田│次の作品というよりは、その中で自分がどういうことを考えたか、どんなことを思ったかを、写真を組んでいく。一個一個に説明は付けないのですが、この写真でこんなことを言いたいということで、文字で文体を組んでいくような感覚で、写真を束で見せることをしていて。
なので、たぶん一枚一枚の写真で見ていくと、今日のような村行事のこととか、そういう説明になってしまうのですが、それをある程度固まった束で見せることによって、私が考えている「あめつちのことづて」の中に含まれる文体をどんどん組み合わせていくような感覚でしています。
ただやはり、自分の意図は、自分で話せるようになっておきたいとか、聞かれたときに答えられるようにしておきたいという気持ちもあるので、いろいろな話を集めたり、調べたりするようなことをしています。そういう調査というか、聞き取りだったり調べ事をしているような時間がほとんどだったりします。
参加者9│聞かれて答える皆さんとしては、どんなお気持ちなのかなというのも伺えたら。
橋本│私どもとしては、まだ70そこそこだけん、あまり昔のことはわからん。でも、先輩方と今はまつりごとも一緒に交わって、昔はどうやったかな、こうやったかなといろいろ聞きながら、つなげていっている。豊田さんが来られたときは、またそがいのやったげな、こうやったげなとか、そういう会話の流れによってから、そういう輪も広がるとじゃなかろうかなと思うとですよね。
参加者9│聞かれて初めて答えることができることもあるのかなと思いました。
●黒岩地区で写真を撮りつづける理由
参加者10│豊田さんにお聞きしたいのですが、写真を撮りつづけるとか、黒岩地区の暮らしを伝えつづけるというモチベーションを継続させる力強さをすごく感じます。前回のWSでは「撮りたいけれども、撮ることの責任を考えた」とか「村に入っていったけれども、それでも迷いがあった」というお話がありましたが、どうして撮りつづけようと思うようになったんでしょうか。
豊田│昔、水俣を撮っていた人に言われたことで、印象的だったことがあります。「いろいろな面で覚悟をしていかないといけないからね」と言われたんですね。撮ることに関してもそうだけれど、根底に水俣病という問題があって、それは誰しも触れられたくない部分もあるかもしれない。それがなくてただ山間集落の暮らしをということであれば、たぶん私はここに来ていなかったと思うのだけれど……。写真は撮るだけではなくて、こうやって見ていただくことまでが仕事だと思っているので、撮る前に一度そこまでの責任を取るというか、撮らせていただくからには信頼してもらって撮らないといけないと思っていたし、見せるときにもどう見えるか。撮られている相手が好きな写真だけを並べているわけではないので、どう思うかもすごく心配はしました。それで、最初に写真を見てもらう機会は、必ず地元の方が見ることができる範囲にしたんです。
その覚悟を決めて、ここに通い始めて。そうしたらこの集落の方が温かくいろいろなことをフォローしてくれて、私は当時20代後半でドキュメンタリー写真などを撮ったことがない段階で来ていたので、どういうふうにしていいかとか、何をしていいか、どんなことを聞いてもいいのかとか、まったくわからない状態だったのですが。
それから6年間、最初に知ったときからは9年ぐらいたっていますが、徐々に徐々にこの集落に通いながら、お話しさせてもらいながら、写真家として育ててもらったような感じなので、皆さんがいてこういう取り組みができたと思っています。
参加者10│写真を村の皆さんに見てもらって、言葉をもらって、気づかされることとかも多くあって。豊田さんが村の皆さんと一緒につくられているなというのがすごく伝わりました。ありがとうございます。
●豊田さんの写真を見て
事務局│豊田さんが最初に、皆さんに向けて上映会をしたという話があったのですが。皆さんはそれを見てどのように思われましたか?
橋本│写真といったらポーズは、こうやってピースするでしょう。豊田さんのはそういうのは絶対ないです。上映されたとき、あら、これは誰かなというか、いつ撮ったかなと、そういう点ではこれはよかなと。最初はカラーと思ったのに白黒やった、白黒か。
事務局│最初はびっくりされませんでしたか。ポーズをしていたりとか集合写真とかが日常的には多いと思うのですが、豊田さんが撮影された手の写真や、縄をなっているところの写真などをご覧になったときに、普通の写真と違うなとか、そんなふうに思われたところはないですか。
橋本│思いましたですね。
久保(の)│特に感動もしましたですね。見ない写真だから。
参加者12│写真を撮っているところが邪魔くさいと思ったことはないですか。こんなところを撮るのかとか。
橋本│知らず知らずに写真ば撮ってあるけんね。仕事しながらでも、手足伸ばしたらそこを撮ってもろうたり、そういう感じがよかった。
久保(の)│だから、みんな見た人が、「あら、私が写っとる」と言うから。そんな感じでした。
豊田│最初、慣れないときはカメラを構えると、ちょっとこわばるときがあるんですよね。そういうときはすっとカメラはしまって。ほとんど撮らずに帰ってきたりとかするので。向けてもみんなが動作を止めないでしてくれるぐらいの距離感になるまでというのは、すごく考えました。だから、もう向けて大丈夫かなというのは、言葉は交わしていないけれど、なんとなくみんなの表情だとか動作とかで確かめながら撮影していました。
事務局│豊田さんが展覧会をされて、それを見に行った方もいらした。そうした展示会場のような場所で、黒岩地区の方だけに限らずほかの方も見に行く様子を見て、皆さんは何か思われましたか?
橋本│ほかの人は黒岩の地形はわからんですけど、雲海の写真を撮ったり、そういう祭りの写真を撮ったりすれば、黒岩はいいところだなというか。一回私も行きたいと、そういう話はしますね。
久保(の)│これは何ですかみたいな感じで聞かれてね。
豊田│実際に会場で、来場者から質問されたりしていましたね。やはりご本人たちがおられる機会はなかなかないので、縄の写真とか、これはどういうものですかと聞かれたり。
事務局│熊本の方が見ても、ぱっとはわからないようなものも結構写っているというか。縄だったり七夕だったりは、黒岩地区独特のものだったりするんですか。
●昔からつづいてきた行事のこと
豊田│御講さんは、今つづいているのはこの集落だけですね。昔はたぶんこの周辺もあったとは思うのですが。私は熊本市内だったから、その近辺では見たことがないようなことが多かったですね。それで、集落行事などがどんなものかを調べるところから始めたりとか。
久保(の)│ここも昔は一軒一軒大きなのを飾っていたけれど、今はみんな年を取ったから、まとめてやっている。一軒一軒、旧の8月7日までで立てて。その年に亡くなった家は立てないというあれがあって。でもみんなも年が取って立てきらん。
豊田│七夕は7月7日だと思うのですが、こちらは先ほどおっしゃったように旧暦になるので、だいたい8月。
事務局│笹飾りとはちょっと違うものなんですか。
豊田│ここは、笹というよりは大きな、何竹と言いますか。
久保(の)│孟宗竹。
豊田│10mか15mぐらいある、すごく大きな竹に、皆さんでつくった笹飾りを倒した状態で掛けていくような感じです。これが今年の七夕で。これはこの公民館の前のところです。[fig.⑧]
これがまだ立てる前の。どんどやがあるところとこの公民館があるところの上下の2カ所に今は立てるのですが。かなり大きいですね。[fig.⑨]
参加者12│織姫彦星を祝うわけではなくて、新盆の先祖供養とか、そういう七夕ということですか。
久保(の)│それがあったのかな。わからない。昔から私たちの小さいときから。
橋本│あったけど、あったかもわからないね。
豊田│御講さんとかもそうですが、いろいろ聞いてみると、なぜかわからんけれど昔からつづいとったたいなという返答が結構多いですね。こういう村行事は一大イベントなのですが、土着したものなので、こういう意味でこういうものでということよりは、昔からつづいているから自然とつづいていくものだったりもするんですね。御講さんと言われるんだけれど、御講さんはこうやって、おじいちゃん、おばあちゃんからこういうふうに習ったけん、こういうふうにしていく、こういうことをしていこうかということでつづいていく。
聞いたら、ぜんぶ説明できる人も中にはいるのですが、みんながみんな、それをぜんぶ説明できるというよりは、こういういわれでこう伝わっているから、こういうふうに自分たちはしているんだということを話してくださる感じです。なので、私はそれをもとに熊本の民俗関係の本を調べて。いろいろな人から聞いた話と本で調べたことを照らし合わせていくような作業をずっとしています。
●黒岩地区の好きなところ
参加者13│皆さんに、豊田さんの写真の中で、自分が好きな写真を一枚教えていただけますでしょうか。
橋本│今日見たのは、ほとんど前に一回見ているから、わあいいなと。みんないい。どれと言えば、ちょっと難しいですね。
参加者13│皆さんが見ている黒岩の景色と、豊田さんから見た黒岩の景色で、豊田さんの写真を見て、あらためて黒岩のこんなところが好きだなみたいに思ったところが何かあったら、教えていただけたらと思うのですが。
橋本│われわれはもう何十年と住んどるけん、自然に生きとうけんですね。景色が変わるわけじゃない。雲海がたまに、5日に1回ぐらい出たりするぐらい。今日も雲海の出たな。そのぐらいですね。自然とそこで住んどるけんね。傾斜もちょっとひどいですね。
久保│山のとっぺんですもん。
橋本│隣と言ったって、たいがいの隣は上か下かどっちかで。横ではない。皆さんのまわりに、近くに田んぼとか山とかないんですか。1km行ったら田んぼがある、山があるといった感じは?
参加者14│僕は山梨県で農家をしているので、盆地なので山なんです。むしろ今回の話はわかりました。長野の山奥に大学時代に通っていて、そこは水もなくて、お米をつくれたのが戦後、耕作機械が入って初めて水がきてつくれて、すごくうれしかったみたいな話をされていて。
先ほど、道が通って山の神様を動かしたりしたという話とかで、たぶん道ができたときにいろいろ変わったんだろうなとか想像しました。
でも、なんとなくいい暮らしというか、七夕や山の神様とかも、地域とか全体に感謝する暮らしがあるんだなというのを、お話を聞きながらいいなと思いました。
豊田│水のことで言うと、ここも3km先から水を引いています。ホースで引いていて、集落にタンクがあるのですが、それを数軒ずつ分けていく。なので、大雪が降ったときは、最初に水道のホースの破裂を心配して見に行かれますよね。水が出らん、水が凍っとるよ、あそこが腫れとるよ。草刈りのときに、ホースだけは絶対切るなと私は何度も言われました(笑)。
それから、道ができたことで、生活が結構変わった。昔は行商さんがここまで担いで歩いて来ていたんですよね。けれども、道ができたことによって、こちらのお店でも仕入れが始まって、10年ぐらいは行商さんと、仕入れで。最初は車は走れなかったから、バイクで荷物を取りに行って運んでくるみたいな仕入れが一時あったそうです。10年ぐらいして、完全に道がきれいになってからはそれもなくなった。なので、道のあるなしでもだいぶ変わるのかなと思いますが、どうですか。
久保│一ときだったものな。
●行商さん
事務局│行商さんはいつまで来ていたんですか。
橋本│何ぼやろか。35年。
豊田│昭和35年。
橋本│どのくらいだった。まだ遅かったのかな。
久保(の)│まだ遅いんじゃない。かすかに覚えてる。私は39年生まれだから。
豊田│橋本さんもまだ子どものころ。
橋本│小学生ぐらいまでは来よらしたけど。
豊田│行商さんって、箱に氷を積んでくるんですよね。からって魚入れて氷を。それをよくつまんで食べていたという話を。魚臭い氷を食べていたという、そんな話を聞きながら、なるほどと思いながらいろいろ。
橋本│そこも大事ですね。氷もないし。
久保(の)│道がこの上まで通ったのが、私が小学生ぐらいかな。
豊田│結婚式のときも、化粧して白無垢着て5km下から山道を歩いてきたとかいう話も聞いたんです。
事務局│私は当然車で伺ったのですが、あの道を行商さんは下から歩いて背負ってこられていたということなんですよね。お魚を背負って。
豊田│今の道は結構くねくねしているのですが、昔の山道は、山を越えて直線距離みたいなことだったんですよ。なので、道でつながっている隣の集落も、今では隣なんですが、結構違ったりとか、行商さんが違ったりとか、そういう話もいろいろあるので。だから生活圏は今とは少し違うのかなと。
事務局│行商さんのことは覚えていらっしゃいますか。
橋本│覚えていますよ。小学生ぐらいまで来らしてたからね。
久保(の)│小学生。私も覚えてる。本当に歩くだけの道がずっとあって。今はもう木とか草とか生い茂って通れないけれど。
橋本│そのころはもうイノシシもシカもおらんやったけん。
豊田│そうですね。
事務局│ありがとうございます。いろいろまだ伺いたいこともあるのですが、時間になってしまったので、今日はこれで終わりにしたいと思います。黒岩の皆さん、豊田さん、長い時間どうもありがとうございました。
今回お聞きになっていてわかると思うのですが、ごくごく日常的なお話を伺ってきましたが、でもその隅々というか端々に、豊田さんが黒岩の皆さんとどんなふうに出会ってきたかとか、そのときどんな豊田さんの考え方や歩み方があったのかというのが質問に対するお答えからも見えてきたのではないかと思うんです。
気になることをどのように突き詰めていくのか、ちょっとした違和感を自分の暮らしに照らしてどういうふうに明らかにしていくか、求めていくのかという姿勢が、皆さんのお話の中からも伺えたと思っています。
●今後に向けて
こんな感じで、ざっと撮った写真を並べさせてもらったんですけど。これはまだ、鈴木さんの日常の暮らしの外見をとらえただけで、本質的には触れられていないところがあると思います。
今回取材に行ってみて思ったことは、いろいろな農地開発とかで運動に携わってこられているので、もう少し私も法だとか、取り決めだとか、そういったことについて、開発の裏で何が起きていたかということを調べる必要性を感じています。それをしないことには、暮らしの外見だけとらえても何も伝えられることがないなと思っていて。
亨さんの話を聞いていると、生産緑地法のことや都市計画法とか、いろいろな言葉が出てきます。あと農地法ですね。ニュータウンにはその当時なかったので、障害者福祉施設をご自身で設立されるのですが、そこにも市街化調整区域でいろいろ規制があったんだけど、社会福祉法人なら設立できるということで、ご自身でいろいろなところに出向かれて、動いて、かたくりの会という社会福祉法人の施設を建てられています。そういうところの規制の裏側というか、どういうことが起きて、時系列で知ることもそうなんですけど、その政策自体がどういうものなのかということも知らないといけないと感じました。
あとは、新規就農者の受け入れを鈴木さんはされています。それは八王子市でも初期の頃からされていることで、鈴木さんのところには、八王子市で5人目の新規就農者の方が来られて、その方から何人か増えていって、フィオ(FIO)という会社を立ち上げて活動されています。牛舎を改装して事務所にしていたり、福祉施設の方たちが活動できるような場にしているんですけれども、そこの法の部分だったりを知らないと掘り下げられないなということを強く感じました。
もう一つ気になったのが新規就農者の人たちとの関係です。新規就農者の人たちは、それが最初から収入につながるということはないので、亨さんのところの畑を借りにいって、それと同時に管理する障害者福祉施設で働くことになるんですね。その中で自分たちがどういうふうにしていけばいいかということで動いて、八王子市では貸し出しの市民農園とかも新規就農者の方たちが動いて始めたりされています。
最初は鈴木さんの計らいでこういう農地を借りたんだけど、いろいろ動いていくことによって、逆に鈴木さんもそこからいろいろなパワーを吸収しているというか、とてもいい人間関係というか、すごく活動の循環がいいなと思っています。堆肥小屋の横に事務所があるので、若い新規就農の方たちとも話す機会は結構あって、その人たちから聞く鈴木さんに対する信頼の抱き方もそうだし、また別の面が見えておもしろいというか、いろいろな発見がありました。そこの関係性に関しても深めていきたいと思っています。
次に行けるのは1月末ですが、それまでに、この政策の部分や社会の仕組みについてもう少し深く掘り下げて、撮影することをもっと絞って取り組めたらと思います。
事務局│ありがとうございました。コンタクトシートについて。確かに時系列でシャッターを押した順番に並んでいるので、その変化があるし、コンタクトシートは嘘をつけないみたいなことであるとか。撮った自分の視線だけではなく、相手の視線もそこに写っているということとか。すごくおもしろいなと。しかも、豊田さんがそれを一番大事だとおっしゃっているところもとても興味深いなと。
森山│さっき見せていただいた『鈴木さん家の日常(仮)』の写真を見たときに、その人が、自分が写されているという意識がないくらいまでいくのってすごく難しいんだなと思いました。生活の一部みたいな写真なんですけど、まだ鈴木さんの体の緊張感みたいなものが少し残っているのかなと、パッと見の印象で思いました。写されているなとちょっとは意識しているんだなと。豊田さんの水俣での写真と比べて、まだ短期間なので当たり前だと思うのですが、そういうのを写すのって難しいんだと思いました。
事務局│私は逆に、鈴木さんがどんな方か私はお会いしたことないのでわからないのだけど、鈴木さんの緊張はあるのかもしれないけれど、この短期間によく病院まで一緒に行って、ごはんのお茶碗の写真も撮らせてもらったりとか。緊張のことはともかくとして、関係性として、よくそこまでこの短期間でいった。いったという言い方は変ですけれども、そういうふうになったんだなと、とても驚きました。
私の写真の感想を言ってしまうと、やっぱり鈴木さんの緊張だけではなくて、見る豊田さんのまなざしがすごくクリアに感じられるなという感じがしました。
森山│そう、だから逆に。いや、本当にすごいと思いますよ、この短期間で。だから水俣の写真がどれだけ溶け込んでというのかわからないですが、どれだけ時間をかけていたものかというのがあらためてわかったというか。
豊田│撮影をしていて思ったのは、緊張もあると思うんですけど、私がどういう人間かというのを見定めているんだろうなというところはすごく感じましたね。撮られていることも意識はしているんだろうけど、この人はどういう人だろうかと、単純にそういうことを疑問に思っていたり。いろいろ入り込ませてはいただいているけど、まだそこまでちゃんと関係としては成立していないというか、そういう印象を抱いたんですけど、写真もそういうのはすごく出るんじゃないかと思います。
事務局│そのプロセス自体もすごく大事な気がするんですよね。理解していく過程で、少しずつ写真も変わっていく、そのプロセスがすごく大事だと私は見ていて思いました。
森山│見れてラッキー。
事務局│私もそう思いました。参加者の皆さん、どうでしょう。皆さんも今それぞれにフィールドワークを始めていると思うので、それと関連して何かお話しいただけることがあれば伺いたいです。
参加者1│お話ありがとうございました。自分は今、三鷹に住んでいて、職場が武蔵野市というのもあって、武蔵野市と三鷹市の気になっている場所を調べたり、歩いてみたりしています。
豊田さんの活動を聞いたり写真を見せていただいたりして、すごいなといつも思うのは、すごく人と関わろうとされているというか。自分は、人と会ってコミュニケーションをするというのがすごく体力が要ることだというのは常日頃感じていて。自分自身もそんなに人としゃべるのが得意じゃない部分もあるので、今の自分がやっているフィールドワークも、あまりそこの部分はできていないと感じています。
それを3月までに自分がやれるのかどうかも正直わからないですけれど、豊田さんの活動を見るにつけ、やはりそこがすごいなと思うし、土地を語るときに、人とか人の暮らしって欠かせないんだなということはすごく感じます。そこから、そこの町の、そこの土地で暮らす人のお話や日常から、その場所が立ち上がってくるみたいなことを目的にしているのかなと考えています。
事務局│今、武蔵野市と三鷹市で写真を撮っていらっしゃるんですか?
参加者1│写真を撮ったり、動画を撮ったりしています。具体的には、三鷹駅のちょっと西に、陸橋があって。そこがもう撤去される、壊されることは決定しているのですが、天気がいいと富士山が見えたり、すぐ下を中央線が走っていて、土日、休みの日には子どもたちが集まってくる人気スポットです。そこを定点観測していて、そういう、いずれなくなるんだけど今はあって、その場所の記憶みたいなものに少し興味があるので、そういうのを撮りためていけるといいなということで、今は少しずつそれを進めています。
事務局│なくなること、新聞にも大きく出ていましたね。私も懐かしいです。30年以上前に、三鷹の駅って、ちょうど8時台に、働いている人があそこでラジオ体操をしていたんです。通勤しているときに、電車からラジオ体操をしているのが見えたの。
参加者1│橋の上でやっていたんですか。
事務局│橋の上じゃないんだけど。操作場みたいなところでラジオ体操をしていたの。ある世代以上の人はそのことをよく知っていると思います。ちょっと古い駅の印象もありますよね。歴史を感じるところもあるかなと思います。
参加者2│今、地域で外国の方との関わり合いが何かできないかなと考えています。これまで関わっていた日本語教室は、今は新型コロナウイルスの影響で人も減っているので、そこなのか、もう一つ別に立ち上げるのかわからないですが、そういうことを考えていました。
豊田さんのお話を聞いて、資料を読んだりしたことが自分の考えの中に出てくる、変わっていくのか、と。私はそういうふうには思っていなかったところがあって。うーんと思いつつ、どうやって組み立てようかなと今思っているところです。
事務局│豊田さんは、テキストとか資料を読まれているけど、単に知識を入れているだけではなく、相手の人と会うときに、そのことがどういうことなのかがもっとリアルにわかっていたら、関係も違ってくると考えているのかなと思いました。そういう意味では、資料の取り扱い方や位置付けみたいなものもすごく大事なんだろうなと。ただ単に情報として知識があればいいということではなくて、そういうものと自分の経験がどう重なっていくのかということもすごく大きなポイントなんだろうなと思いました。
参加者2│フィールドワーク的な仕事というか、個人的に非公式なことはやっていて、それについての手がかりになるかと思って今回ワークショップに参加させていただいています。僕の場合は、興味をもってくれた人と接続するという形でやっているんですね。その対象というのは、基本的には面識のない知らない人ということで、そのときだけの相手というような形がいいなと思って、そういう機会を大変マイペースな形で進めています。
そういった意味では豊田さんのアプローチとは違うのかもしれませんが、今回のワークショップで思っているのは、リサーチと実際の行動とのバランスというか。関係のない関係性みたいなところに興味があるのかなと思って、自分のやっていることを客観的に今回勉強させてもらっているようなところがあります。
事務局│関係のない関係性みたいな、だけど必ずそこに人がいるということなのかなとお話を伺っていて思いました。豊田さんのようなアプローチの仕方もあるし、そういう近寄っていき方というか、自分以外の人に歩み寄っていく歩みってあるんだなというのはおもしろいなと思いました。
豊田│私はどちらかというとコミュニティに入り込むタイプの撮影の方法で。その相手に何かを思って、対象の人に惚れ惚れしてしまうところがあって、そこに入り込みたいと思うので、その人に近づいていくことをしています。逆に、観察的な撮影の手法をもつ人もいると思います。そのコミュニティに入らないで、ただそこにいて、見ているだけ。あくまでもそれを撮っていく中で取り組んでいく人もいて。
取材の仕方というか、取り組み方は様々なので。自分で自分の仕方を、ほかの人の模倣をしながらでもいいし、そういうのを行ったり来たりしながら、自分は最終的に何がしたいかということを見つけていけばいいと思っています。だから、観察的手法もすごくおもしろいなと思ったことはあります。
あと、コミュニティに入っていくと、どうしても撮影と生活と、分けられないところがあって。あまりに近すぎるときつくなるときがあるんですね。そういうときは、一歩置いて、観察的なことに切り替えてみたりするんですけど、何も思わないでただそこにいるような手法も大事な仕方だと思うので、それをどんどん形にしていくとおもしろいのかなと。
事務局│九州に伺って、一緒に黒岩地区に連れていってもらったときに、最初黒岩に住もうかなと思ったけれど住まなかったとおっしゃっていましたね。いろいろな経緯があると思いますが。
豊田│それはただ単に、空き家といっても人が住めるレベルの空き家じゃなかったり、盆正月になると家族が集まったりもするという理由もあったんですけど。家賃が一番安いところとかを探していたら、水俣の市営団地が空いていたので、そこに住むことにしました。結果的にはその場所は、一番の水俣病の激震地なので、そこに住んで、働いてみることで聞けることもあって、それはすごくよかったと思います。
同時に、撮影地に住んでしまうと分けられなくなるので難しいなということも感じました。だからその距離にいてよかったなと思うけど、逆に水俣で広げたいときに、動くことの難しさも同時に感じたりもします。
参加者4│僕は、どちらかというと、人とのコミュニケーションをとるのが苦手なほうで、人物を撮るときも、自分が後で見てみると最初は距離が遠いんですね。もともとプロのカメラマンではないので、積極的に人の写真を撮るタイプではなかったけれど、仕事の中で、子どもの写真を撮る必要性に迫られてやってきました。そうすると、自分が子どもたちとか対象になる人たちと距離が近くなっていくと、自分でも写真が変わっていくなと思う瞬間があるんですね。
あと、どちらかというと僕は、客観的に観察したいタイプで、あまり中心に入っていかずに、写真を撮るときも自分の気配をできるだけ消して、その人の生の姿というか、あまりこちらを意識しないでというところを撮りたいと思うタイプです。だから、本人が見たらちょっと意地悪なところを撮っていると思われるときもあります。僕は自分で写真を撮っていて、そんなふうに思います。そこら辺の撮影態度の違いはすごくあると思っていて、豊田さんの話を聞くと新鮮というか、俺にはちょっとできねえなという感じはします。
事務局│豊田さんは、鈴木さんと向かい合っているときに、自分の気配を消すことを意識されることはありますか?
豊田│消すことはできないと思うので、気にされているときはカメラはやめるとか、そういう感じの距離のとり方をしますね。でもカメラが入る以上、やはり消えることは絶対ないと思っているので、それがいても許してくれるような環境というか、そういう状況になるまでは、と思っています。