かつては日本最大の寄せ場だった、 「釜ヶ崎」という街

 松本渚です、よろしくお願いします。私は大阪市の西成区の「釜ヶ崎」と呼ばれる地域にあるNPO法人釜ヶ崎支援機構というところで毎日働いています。今日はここ釜ヶ崎から、釜ヶ崎という街のこと、そこでアートを始めとする表現活動を行っている「NPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)」、─これは私が活動に惹かれて、六年ほど前から参加していますが─、とくにそのココルームを舞台に、新しいプロジェクトとして行っている「カマは燃えている:ココ〈ボール〉ルームでなりたい自分になる(カマボール)」(*注)についてお話ししたいと思います。この写真は、釜ヶ崎の仲間たちです。
 私は釜ヶ崎支援機構の職員になって三年目になります。同時に大阪大学の大学院生でもあって、臨床哲学を専門に研究しています。これからお話しすることは、臨床哲学の研究者としての発言なのか、釜ヶ崎支援機構の職員としての発言なのか、分けることは結構難しいのですが、がんばって分けながらお話ししたいと思います。
 私は島根県で生まれて、大学で広島に行き、広島では被爆者のおじいちゃんやおばあちゃんと親しくしていました。大学院で大阪に来て、もう六年ほどになります。私はいろんな人の話を聞くのがすごく好きで、大阪でも出会う人たちのこと、その語られることに寄り添うようにしてきました。でも、そういう人たちを「研究対象」にするような関わり方は、できればしたくなくて、それでもうかがった話やご本人の人生のストーリーを何か形に残しておきたいけれど、なかなか形にできないということが、ずっと私の課題としてあり続けています。
 今勤めている釜ヶ崎も、私の研究のフィールドというわけでもなく、研究対象にしている方がいるわけでもないのですが、たまたまここと出会って、働き始めました。釜ヶ崎は地名ではなく、地図では西成区萩之茶屋一~三丁目、太子一丁目ですが、昔からこの地域の方たちは釜ヶ崎と呼んできました。行政上の名称はあいりん地域だけど、地域の人たちが慣れ親しんでいるのは釜ヶ崎という名称、という印象です。
 釜ヶ崎は、西成区の北東部にある〇.六平方キロメートルほどのすごく小さなエリアで、かつて約四万人が住んでいました。現在は二万人ほどです。かつては日本最大の寄せ場として、日雇い労働者の求人がもっとも多い場所でした。しかし、バブル経済の崩壊やリーマンショックの不景気などで日雇いの仕事を失った人たちが路上生活者となって、そうした困窮状態にある人をサポートする組織や団体、教会など、いろいろな民間のつながりができて、今は福祉の街となっています。
 もともと釜ヶ崎という場所は、大阪という近代都市が形成される過程で、お墓や処刑場といった都市から忌避されるものがつくられるような、インナーシティ(都心近接低所得地域)の役割をもたされたような場所で、一九二〇年代頃からは、近代工場の労働力になれなかった単身の日雇い労働者たちの、労働市場の受け皿となっていきました。戦後の一九五〇年代にはバラック小屋が立ち並び、一九六〇年代以降には、賃金の不払いなど、労働者の不平不満から暴動が起こることもたびたびありました。
 この一九六〇年代は日本の高度経済成長期にあたり、全国から単身の日雇い労働者が集められました。彼らが寝泊まりする場所は、「宿(やど)」をひっくり返した「ドヤ」と呼ばれる簡易宿泊所で、三畳一間の寝るためだけの部屋がたくさんつくられ、全体で二万人くらい収容できる街へと変貌していきました。釜ヶ崎は今でも男性の単身日雇い労働者かつ高齢者が多く住んでいますが、一九六〇年代前後には、生活保護制度を利用して女性や子どもを近くの区などに移住させることで、釜ヶ崎が、意図的に単身男性労働力が密集する場所として形成されていったという経緯もあります。
 故郷を離れ、仕事を得るために全国各地からこの街に集まってきた人、そしてそのまま高齢になって、今もこの街で暮らしている人も多くいます。とくにバブル経済の崩壊とリーマンショックの時には日雇い労働の仕事が激減して、路上生活を選ばざるを得ない人が増え、暮らしを成り立たせるために生活保護を受給する人も増加しました。何らかの障害を抱えていても障害者手帳を取得できず、行政の支援が受けられない人たちが、故郷を離れてこの街に流れ着いたり、ここで暮らす難民や外国からの出稼ぎ労働者も多くなってきています。
 一方、日雇い労働者の宿泊が減少した簡易宿泊所のなかには、観光客やビジネスマンも泊まれるホテルやゲストハウスに改修したところもあり、格安に宿泊できることで、コロナ禍以前には海外からのバックパッカーがたくさん訪れるようになっていました。キャリーケースを片手にもった中国人や欧米人を見かけることも日常的でした。しかし新型コロナウイルスの感染拡大によって、今ではぱったりとその姿も見られなくなりました。
 釜ヶ崎の紹介で欠かせないのは、夏まつりと越冬闘争だと思います。
 身寄りがなく、単身者の多い釜ヶ崎では、お盆や正月に仕事がお休みになっても帰る場所のない人たちが多いので、ここに暮らす人はもちろん、日雇い労働で全国各地に出かけていても、お盆と正月にはカマ(釜ヶ崎)に戻ってきます。
 夏まつりは八月一三日から一五日まで、地域の、三角公園というみんなの憩いの場所で行われます。夏まつりでいちばん大切な行事が、最終日の夕暮れに、この一年間で亡くなった人をみんなで追悼する慰霊祭です。亡くなっても連絡する家族のいない人が多い釜ヶ崎で、この街の仲間として追悼するおまつりは、もう五〇年くらい続いています。
 また越冬闘争は、一二月二八日から一月三日、年末から年始にかけての行事です。寒い季節ですから、「ひとりの死者も出さない」をスローガンに、パトロールや布団敷き、炊き出し、餅つき、またステージでのイベントなども行われています。釜ヶ崎には、そういうネットワークがあります。

釜ヶ崎発ボールルーム、 「カマボール」開催への道

 今回のコロナ禍がきっかけで、釜ヶ崎にたどり着く人も増えています。コロナ禍の影響で仕事がなくなった人もいますし、派遣労働や工場勤務などの不安定な労働環境にいた人は真っ先に解雇されたという話も多かったため、有限会社ビッグイシュー日本や、私が働いているNPO法人釜ヶ崎支援機構など、大阪のサポート団体が定期的に合同で相談会を開催して、コロナ禍で住まいや仕事を失った人たちをサポートする動きが始まりました。
 それまでは、相談の窓口で相談員をしていた実感として、働き口が見つからなくなった五五歳から六〇歳以上の、高齢の日雇い労働者のサポートが多かったのですが、コロナ禍をきっかけに困窮する若い人がすごく増えました。彼らは、釜ヶ崎や西成は危ないところ、怖い場所というYouTubeの情報や報道に接していて、支援が必要だけれどここには来づらいと感じていて、そういう人たちに届けられるような情報を発信したりもしています。
 そんな釜ヶ崎には、「釜ヶ崎芸術大学」という市民大学があります。運営するのは、二〇年ほど前から「こえとことばとこころの部屋(ココルーム)」というカフェを開いているNPO法人です。私が釜ヶ崎と出会ったきっかけがココルームで、六年前に一度来てハマり、この街にどっぷりと入り込んでしまいました。
 ココルームは、表現活動を主軸にした場所として二〇〇三年にオープンし、二〇一九年には、大阪の真ん中、ココルームの庭で井戸掘りをするプロジェクトを行いました。
 もとは日雇い労働で土木作業をしていたおじさんたちに、スコップ作業の腰の入れ方から教わって、一緒に井戸掘りをしてみる。この街はもともと台地の上にあり、四メートルも掘れば水が出ると言われていたのですが、本当に出るのか? という感じで……。そんなアートのプロジェクトを、─井戸掘りがアートか? ということも含めて─年間一〇〇講座くらい開催しています。美学や合唱、ガムラン、夜回り、歯がない人のためのお粥づくり、書道といった講座もあります。この写真は先ほどお話しした夏まつりでダンスカンパニー「新人Hソケリッサ!」の皆さんと一緒につくったステージです。
 こんなふうにココルームは、地域の人やカマの人たちが表現活動をしたり、出会って交流する場になったりしています。ココルームでは二〇年間ずっと、お昼と夜はみんなで大皿を囲んでご飯を食べます。食べたり話したり、一緒に場を囲むと、ポロっと自分の悩みが話せたり、正直な気持ちを言えたりします。
 この写真で、右側の手前から二人目、ピンク色の服を着ている人が、ココルーム代表の上田假奈代さんです。

 ココルームは一階がカフェで、二階はゲストハウスになっているのですが、困窮して釜ヶ崎に流れ着く人が多くなったコロナ禍をきっかけに、地域の福祉団体と連携して、ここにそうした困窮状態にある人が無料宿泊できるようにもしています。また、クラウドファンディングを利用して集まったお金で「恩おくりごはん券」や「恩おくりコーヒー券」を発行して、お金がない人も、みんなでご飯を囲めるようにもしています。この恩送り(Pay it forword)とは、誰かから誰かに親切を贈る、という考え方なんですね。
 そんなココルームを会場にココルームや釜芸とは独立したプロジェクトとして私が実行委員として企画したのが、「カマは燃えている:ココ〈ボール〉ルームでなりたい自分になる」、通称「カマボール」というプロジェクトです。
 ボールルーム・カルチャーは、一九八〇年代のニューヨークのハーレムなどで、アフリカやラテンアメリカにルーツをもち、かつ様々な性的指向やジェンダーアイデンティティー、セクシャルマイノリティーの人たちが集まって開かれていたダンスパーティーで育まれ、今も続いている文化です。ボールとは舞踏室のことで、最近ではNetfrixでも配信されている「POSE/ポーズ」というアメリカのテレビドラマにも、その様子が再現されていました。
 ハデな衣装をまとう「ドラァグクイーン」は、皆さんご存じかと思いますが、もともとのボールルーム・カルチャーは、白人のお金持ちや偉い軍人さんなど、当時の階級社会で有色人種であるボールの出演者たちは絶対なれないけれど、その代わりに「なりたい自分らしさ」を表現し合っていました。当時は、ゲイであることをカミングアウトすると家にいられなくなって、よそへ出るしかないような時代でした。そうやって家庭や故郷を去らなければならなかった人たちがハーレムに集い、互いに暮らしを支え合いながら同じ家に住み、衣装を手づくりしたり工夫したりして、ボールルームのランウェイを踊り歩くことを生きる糧とした、そういうカルチャーです。
 釜ヶ崎も、今お話ししたように、一九六〇年代以降全国から単身の日雇い労働者が集められ、不安定な雇用で、仕事がなくなると路上生活をしたり生活保護を受けたりして、なんとか暮らしを成り立たせている人が増えています。生まれ故郷や家庭を離れた人たちが支え合って、それでもすごく生き生きと暮らしている。ですから私たちは、様々に自分を表現し直すことでつながり合う機会としての「カマボール」を企画しました。最初に見ていただいた写真は、その時のものです。みんながそれぞれに手づくりした衣装を身にまとって、音楽に乗ってココルームの庭をランウェイに見立てて踊り歩くカマボール。その映像を見てもらえたらと思います。

〈映像上映〉

【フリートーク】

【フリートーク1】
「カマボール」の映像を観て思うこと

参加者1│カマボールへの出演はどうやって呼びかけたのでしょうか。「参加しませんか」という感じですか。

松本│最初は、「なりたい自分になる」ということだけをキーワードとして、「やってみませんか」とお誘いしました。ココルームに集まる人や、地域の人たち、紙芝居劇むすびにお邪魔してお話しもしました。この地域には毎月一回、ケアネットワーク西成主催の「ロカボ(低炭水化物)を食べてHIV(ヒト免疫不全ウイルス)について知る会」、通称「HIVカフェ」が開催されていて、HIV陽性者もそうでない人も、みんなで語らう場所があります。そういうところにも出かけて行って、「一緒にやりませんか」とお話ししたり、いつもかわいらしい服装をしている人には、ピンポイントで声がけもしました。

事務局│「なりたい自分になってみませんか」と声をかけると、どんな反応が返ってくるんでしょうか?

松本│ピンとこない方もいますね。出演者の一人の長谷さんは、「ずっと男性として生きてきたけど、死ぬ前には和装せんと死ねんわな」と言って、芸者姿で参加してくれました。なかにはハダカデバネズミになりたい人や、嵐寛寿郎扮する明治天皇になりたい人もいました。障害のある、私と同世代くらいのココルームの元清掃スタッフは、最初は「健常者になりたい」と言っていました。で、「健常者って何?」と聞くと、「歌って踊れるKポップアイドルみたいな人」と言うので、いいねぇ、たとえばどんなかんじ?とYouTubeを検索しながらすすめていったり……。

事務局│じゃあ、私は健常者じゃないかもしれない(笑)。

松本│そうですね、私も……(笑)。

事務局│長谷さん、かっこいいですね。美しい。うらやましいです。映像の中で松本さんが着ていた服は、あれは何か……。

松本│あれは、私が労務者になってみたものです。

参加者1│背中にいろいろ書いてあって、もっとよく読んでみたかったです。

松本│「なりたい自分になる」ということで、わざわざ刺繍してもらいました。

事務局│とび職のお兄ちゃんみたいな。歩き方もそれっぽかった(笑)。

松本│この企画を進めていく途中で、一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、釜ヶ崎の労働者たちが『労務者渡世』(一九七四〜八五年)という雑誌を発行していたことを知りました。その中にはおかまの特集(一四号、一九七六年二月)などいろいろあって、私たちも勉強になったのですが、その表紙の文字を背中に刺繍してもらいました。創刊号(一九七四年)当初の表紙には、「腹を立てるな 不平を言うな 物を苦にするな 笑顔でくらせ」という、当時警察署が釜ヶ崎の飲食店などに貼り出していたスローガンが掲げられていたのですが、途中からそれが「腹を立てる 不平を言う 物を苦にす 笑顔でくら」に変わって、その雑誌がカッコ良すぎて、労務者渡世になりたいと思って、私もなりたい姿になりました。

参加者2│すごくロックでいいなと思いました。「なりたい自分になる」ということは、普段はなりたい自分になれていない、ということですね。ハーレム発祥のボールルーム・カルチャーもそうですが、それがあたりまえすぎると、「なれていない」とか「なれる」という考え自体がなくなってしまうのかな、と思う。カマボールも、何かもうヤバい、という感じだけれど、ヤバくていいと思う。
 「あなたがやりたいことをやっていいよ」と言われたら、「自分だけでやっていることだから……」とか、「私の夢って孤独かも……」と思って言いにくいけれど、ココルームの代表の上田さんを始め、ここではみんながぶっ壊れているから、俺もやっていいかな、と思えたり、紙芝居劇むすびのメンバーに誘われたりして、ここなら自分の思っていたことを黙らないでもいいのかな、頑張らないで出してもいいのかな、と思えるのかもしれません。
 カマボールがあったから「燃えてもいいんだな」と思えるところと、五〇年も続いてきた慰霊祭のお話を聞くとそんな簡単なことじゃなくて、ずっとそこにいる人たちにとっては、そこにはもうすでにいない人たちもいたり、できないこともあるという想いが、ずっとその地域に強くあることを感じます。できないことは多いけれど、この一瞬とか、このこと、この形なら、自分の中にあったものを素直に表現してもいいんだよな、と、カマボール はそういう「芸術」なのだろうと思う。それまでは食べること、生きることに必死で、できなかったこと、やってはいけなかったことも、この「今」なら考えてもいいし、やってもいいんだ、と。
 一緒にやっているほかの人を見て、この人たちはこんな「くだらないこと」や「自分には興味のないこと」を考えていたりするんだな、とか、それがしたくてもできなかったことなんだな、と、自分も含めて、いろんなものの不完全さに気づけるような仕組みが、このプロジェクトにはあるように思います。それがすごくあふれているから、その場の臨場感や共有感がなくて動画だけ見ると、やっぱり「何かヤベえの出しちゃってるな」としか見えないけれど(笑)、僕は普段から毒舌家なので、この「ヤベえの出てる」感じにすごく共感しました。

事務局│「ヤベエのが出てる」ってことは、共感できるってことなのね。

参加者2│ほめ言葉には聞こえないかもしれませんが、個人的には、そうですね。労働者渡世、高倉健的でいいな、と、共感しました。

松本│自分を出して、それが受け止めてもらえる「場」が、ココルームにはあると思います。

【フリートーク2】
釜ヶ崎の現実とココルームの役割

参加者3│先ほどの夏まつりのお話で、帰る家も故郷もなく亡くなった方たちのお墓はどうなっているのか、気になります。

松本│身寄り探しは病院や行政がします。ですから火葬後しばらくは遺骨が保管されますが、それでも身寄りが見つからなければ、無縁仏として阿倍野斎場の無縁仏の碑に納骨されます。一心寺というお寺にも納骨できます。また、地域にある市立の土地に私設の庭をつくり、亡くなった方への追悼の気持ちを込めてお花を植えているおっちゃんがいて、そこにはお線香を備えるエリアがつくられてもいます。

参加者3│先ほどの長谷さんも高齢になってから釜ヶ崎に来られたようですが、そういう方も多いのでしょうか。私も高齢で故郷を失っておられる方の近くにいたことがあり、その時、あまりうまく接することができなかった経験がありましたので……。

松本│確かに終の住処として釜ヶ崎に移り住む人もいます。釜ヶ崎にはいろんな人がいますから、あまり過去を問わないような文化があります。単身で高齢の男性は他人と関わりをもたない人も多く、孤立や孤独死が問題になることも多いですね。一方、自発的に関わりをつくっていく人は、先ほどの紙芝居劇団などのコミュニティに所属して、一緒に練習したりご飯を食べたりしています。ココルームは毎日開いているカフェですから、釜ヶ崎芸術大学の講座に参加して、詩を書いてみたり……。そうですね、孤独死が問題になって、地域には、西成区から受託した六五歳以上の単身高齢の生活保護受給者の居場所づくり事業「ひと花センター」もありますから、そういう場所はあります。

参加者3│制度としてのサポートというよりは、お互い一人の人間同士として、松本さんはどう向き合っていらっしゃるのでしょうか?

松本│私は週一度くらい長谷さんの家に行って、目的もなく、ただだらだらおしゃべりしたり、近所のおじさんとコーヒーを飲みに行ったり、皆さん人生の先輩なので、職場の悩みを聞いてもらったりと、ただしゃべってますね(笑)。

参加者4│映像を見て、長谷さんすごいな、と率直に思いました。私は高齢者と関わる仕事をしていて、九二歳ともなると認知症になる方も多いのですが、長谷さんは「なれなかった自分」というものをもっているからこそ、ああいうかたちで自分を完結させられたのかな、とも思います。「なれなかった」ことは必ずしも不幸なことではないだろう、と。
 高齢の方の中にはココルームには関わらない、「そういうのは自分はいらないよ」という方もいらっしゃると思います。釜ヶ崎が福祉の街になってきたというお話もありましたが、日雇い労働者として社会的な疎外感をもって生きてこられた人たちには、差し伸べられる福祉の手をなかなか素直に受け取れないと感じる人も多くいらっしゃると思います。そこにココルームがあることで、何か変化が生まれているのか、松本さんが感じられていることをお聞かせいただけたらと思います。

松本│おっしゃるとおりで、社会的な疎外感があり、でもプライドをもって一人で生きてきた方たちも多いので、先ほどお話しした六五歳以上の方の居場所づくり事業では、誰かとつながるときの自分の表現や、人と表現し合うことを体験する、表現プログラムが開設されています。長谷さんは時代的にも同性愛者であることをずっと隠し続けて生きてきて、その「なれなかった自分」をずっと詩に書いてこられた。ですから表現すること、詩を書くことが友だちで、現実の友だちやパートナーは一切つくらなかった。そういう方もいらっしゃいます。長谷さんのように詩を書く方だけではなく、絵を描く方もいらっしゃいます。

参加者4│自発的に関わらない人に対して、ココルームでは何かアプローチされているのですか?

松本│釜ヶ崎芸術大学では街全体を芸術大学に見立てて講座を開いていますから、ココルームだけではなく、地域のおじさんたちが集まる「あいりん総合センター」や西成区の区民館に出かけて行ったり、皆さんがいらっしゃる救護施設やシェルターを会場にしたりもしてきました。

事務局│どんな講座が人気ですか?

松本│詩のワークショップが人気ですね。「こころのたねとして」という、ペアになって相手の話を聞いて、それを詩にするというワークショップで、それは自分の人生の重みを詩のプレゼントとして返してもらえるので、やっぱりおもしろい。合作俳句も人気で、五七五をそれぞれ別の人が詠んで、トンチンカンな句ができる(笑)。ココルームの代表の上田さんが詩人なので、そういうワークショップも多いですね。

参加者4│詩を書くことも、言葉になるまでは人それぞれかと思いますが、するする言葉が出てくるものですか。

松本│「贈り物」だったり、「故郷」だったり、と、いつもテーマが決まっていますから、テーマについて話すことができるので、それをそのまま書くだけでも詩になりますし、そこで表現を工夫される方もいます。もちろん言葉に詰まる方もいますが、言葉が出なければ絵に描くのもよし、という感じです。

参加者5│釜ヶ崎には様々な社会活動団体があると思いますが、それらと連携した活動もありますか。

松本│最初にお話ししたコロナ禍での相談会は二〇団体くらい、地域の企業の社長やココルームも協力して、困窮状態の方たちにアプローチしました。その後も相談の窓口や、居場所や宿泊に使える場所の提供など、地域で応援していく仕組みもありますし、日常的に連携はしています。窓口に相談に来た方が、絵を描いてみたいとかアートに興味があるなら、ココルームにつながることもあります。たまたまココルームに泊りにきたお客さんが、じつは困窮状態に陥っているとわかることもありました。都会の真ん中にあるけれど、ココルームには庭があって、そこが格好の相談の場になったりしています。相談者が障害をもつ方であれば、地域の福祉団体に引き継ぐこともあります。私自身は「釜ヶ崎芸術大学運営チーム・かまぷ〜」として、ココルームへは週に一度くらい手伝いに行っています。普段はNPO法人釜ヶ崎支援機構で働いているので、そこで出会った方をココルームに紹介することもありますね。

【フリートーク3】
カルチャーとしてのカマボールの位置

参加者6│カマボールは魅力的ですが、ニューヨークで自発的に始まったことを外からこの地域に持ち込むことの関係性については、どう考えられていますか。

松本│企画の段階から、文化の盗用にならないようにすごく考えながら進めてきました。もともとのボールルーム・カルチャーの形式は尊重していますが、それを本物らしくマネるのでもなく、一方で出演する人たちの人生経験を消費してしまうことのないように、そのどちらかの極に振れないように、すごく気をつけながらやっています。
 もちろん事前にドキュメンタリー映像や文献で研究して、そこで大事なのは世間で認められるということではなく、お互いに支え合いのあるコミュニティーの中の、いつもの人たちの前で「なりたい自分」になって、それが受けとめられることだ、と、考えました。釜ヶ崎のカマボールに出演する人たちの「なりたい自分」や「ありたい姿」に沿うように形式をつくっていくと、オリジナルのボールルームのような夜ではなく昼の開催で、カッコいいウォーキングではなく、ただ歩いたり歌ったり、しかもポロンポロンと三味線が流れてくる……と、オリジナルに忠実というよりは、出演者がやりたいことを受け止めるような「場」になっていったと思います。

参加者6│私は二〇代の頃サルサにすごくハマって、それはプエルトリコからの移民がニューヨークのブロンクスに住み着いて生まれた音楽だったので、ブロンクスやハーレムについて一時期すごく勉強しました。当時は公民権運動がすごく盛んで、ハーレムのプエルトリコ系や黒人系の人たちが自分たちの権利を守るために立ち上がって、いろいろなカルチャーが生まれてきたと、私は解釈しています。
 でも今の日本を見ていると、自分たちが何とかしなければというよりも、そこにアートが入り助成金が入って、ものごとが動いてしまうことが多々あると感じています。例えば今、コロナ禍というすごく苦しい状況があって、そこから自分たちで立ち上げることはあるのか、ないのか、その時どうやってその気持ちを汲み取って、その「何か」を立ち上げていったらいいのか、と、そんなことを考えていました。当事者の自発性と、それに関わっていく人たちとの関係性について、今回の松本さんの講演は、私にとってすごく示唆的です。
 
事務局│松本さんから、カマボールの準備の時に長谷さんに「あんた(松本さん)のためにやったんだ」と言われたという話を聞きました。誰が誰のためにやっているのか、ということがわからなくなってしまう……。松本さんはみんなに良かれと思ってすごく一生懸命やっているけれど、じつはおっちゃんたちは、みんな松本さんを応援しようと思ってやってくれていたり……。

カマボールという
プロジェクトの成り立ち

 後半は、カマボールのプロジェクトの成り立ちや、私が今考えていることを少しだけお話ししたいと思います。
 カマボールは、そもそも昨年長谷さんと出会って、そこで長谷さんから聞いた「女性装をしてみたい」という話を詳しくうかがうことから始まりました。でも聞いてみると、女性装も、そんなに「なりたい自分」もべつにないよ、と言います。長谷さんはすごく奥ゆかしい性格で、自分からこうなりたい、ああしたい、と言うような方ではなく、「あんたがやりたいならやってもええけど」という感じですが、でも、それでも「和装はせんと死ねんわな」とおっしゃったところから、このプログラムはスタートしています。
 企画を立ち上げるにあたって私たちはまず、ボールルーム・カルチャーをドキュメントした映画「Paris Is Burning 」(ジェニー・リビングストン監督作品、一九九〇年)を見ました。
 先ほどお話ししたようにボールルームは、白人社会で排除されてきたハーレムのアフリカ系やラテン系の方たち、とりわけセクシュアルマイノリティーの方が集う場所です。一九六〇年代から一九八〇年代にかけてハーレムは、セクシュアリティーと人種の二重のマイノリティーで、貧困、孤立、HIV感染のリスクにもさらされている地域でした。
 そこには、抑圧されて周縁化された人たちが生き延びるために疑似家族のハウスが形成されていて、それぞれのハウスでマザー、あるいはファーザーと呼ばれる先達がいて、互いに世話をし合う文化もありました。生家を追われたり逃げてきたり、生家にいられなくなったチルドレンたちがそうしたハウスに集まり、マザーやファーザーがそれをケアする。その過酷な環境の中、ボールルームではきらびやかな白人の女性スター、お金持ち、偉い軍人など、「なりたい自分になる」表現やパフォーマンスが夜毎繰り広げられていた。その、「なりたい自分になる」とはどういうことなのか、それを考えながらイベントの企画を進めていきました。
 そもそものアイデアは、釜ヶ崎もまた様々なかたちで周縁化された人たちが暮らす街であり、ボールルームを生んだハーレムと似ていると感じたことでした。釜ヶ崎でなら日本のボールルームができるのではないか、と、大阪大学COデザインセンターの特任講師である高橋綾さん、教員のほんまなほさん、臨床哲学研究室出身でアーツマネジメント業の小泉朝未さんと私が中心となって実行委員会を結成しました。私自身は釜ヶ崎で働き、ココルームを手伝う傍ら大阪大学の博士後期課程に在籍中でしたので、院の教育プロジェクトの一環としてこのイベントを企画・実施しながら学びを深める、という目的もありました。一般的な研究とは異なる少し変わった教育プロジェクトですが、ココルームを始め、HIVカフェや紙芝居劇むすび、支援ハウスなど、私がつながっている釜ヶ崎のいろいろなコミュニティーに声をかけて進めました。このプロジェクトを実施することで、あらためて関係をつなぎ直すことのできたコミュニティーもあります。
 最初は「なりたい自分になる」というプロジェクトのコアだけをいろいろな人に提示して、そもそも「なりたい自分」とは何を意味するのかということは、出演者と話し合って決めていくようにしました。話し合いには、出演者、私たち実行委員とともに、サポーターとして、アーティストで、非建築家で、ドラァグクイーンで、文筆家でもある、ヴィヴィアン佐藤さんに加わっていただきました。
 まず何になりたいのか、メイクや衣装はどんな感じか、という形をつくります。例えば「嵐寛寿郎扮する明治天皇になりたい」というたけちゃんには、どんな姿の明治天皇なのか聞きながら、具体的につくり込んでいく。話し合いの中からたまたま形が生まれてくることも多かったのですが、衣装からパフォーマンスまで、すべて自分で準備した方も一人いました。「健常者になりたい」と言うそうちゃんとは、クルマに乗って歌って踊れるKポップアイドルという形をめざして、みんなで段ボールの大きなクルマをつくり、本物らしく見えるようにプリントもほどこしました。そういう小物づくりもみんなで一緒にしました。
 その過程で、それぞれの人がその姿や形に込める思いや、関係するライフストーリーをインタビューして先ほどご覧いただいた動画を制作し、当日は、その映像を見てもらった後にパフォーマンスを披露するという順序で開催しました。パフォーマンスの音楽は、長谷さんが作詞作曲した楽曲を実行委員会のほんまなほさんがアレンジやリミックスして、演奏しました。

カマボールを終えて
─「なりたい自分になる」
ということ

 カマボールを開催して、「なりたい自分になる」って何だろうと今振り返ると、自分らしさとか自己のアイデンティティを表現する自己表現とはまたちょっと違って、普段ほかの人に見えている自分とは違う姿になってみる、ということなのかな、と考えます。
 それは、今、その人の現在には実現できていない希望でもあります。例えば、そうちゃんにとってそれは健常者になることだったり、消しゴムさんという方にとっては、まっすぐに生きる前田慶次郎という武将になることだったりする。ちなみにこの消しゴムさんは、自分の過去を消したいから消しゴムと名乗っているのですが、そういう希望がある。
 その一方で、「なりたい自分になる」ことが、普段は出せない欲望や欲求を解放することだった人もいます。ゆうちゃんはご両親もいて、ずっと真面目に生きてきたけれど、そのご両親も亡くなって、そろそろ一度パーっと弾けてもいいよね、と、普段は女性装の欲求があるわけではないけれども、あの場所でドラァグクィーンをパフォーマンスしました。七〇歳くらいのかずおちゃんは、普段からハデな格好のジェンダーレス男子ですが、以前は「おかま」と言われて嫌だったけれど、今はかわいい格好をして、「おかまみたいに見えますやろ?」なんて言いながら、男でも女でも、人間でもない、「かずおちゃん」というジャンルになりたい、と言う。カマボールはそれを発散させる機会ともなりました。
 語られなかったライフストーリーを演じたい長谷さん、嵐寛寿郎扮する明治天皇になって、輝いていた過去の記憶を形にしたたけちゃんもいます。これは、映画「明治天皇と日露大戦争」(渡辺邦男監督作品、一九五七年)に登場する明治天皇で、幼い時に父親と観に行った映画だそうです。たけちゃんはその映画のことをいつもいろんな人に話しているのですが、それは一緒に行ったお父さんのことをすごく誇りに思っていた過去の記憶を表しているのだと思います。
 皆さん厳しい状況や苦難を経験されてきた方たちなので、単なる自己表現や派手な仮装というのではなく、そうした「なりたい自分」の根底には、それぞれの人生をそれぞれのかたちで生き延びることを支えてきたエネルギーがあると感じました。カマボールは、出演者の「こうなりたい」とか、「こうありたい」という生きる願いや希望をみんなで一緒に形にして、その「なりたい自分」を、彼らと日常的に関わってきた人たち、見守ってきた人たちの前でパフォーマンスすることで、イベントのその場所、その時だけでも、その人の願いが実現したことを祝福するという、ケアでありエンパワメントでもあるような、そういうイベントだったのかなと思います。
 その「なりたい自分」表現には、個人の表現という以上に、釜ヶ崎コミュニティーの独特なつながりや、その中で人の願いや生き延び方が承認されていくことの意味が色濃く反映されていると思います。ですから今後カマボールというイベントではなくても、これを実践したことは、紙芝居劇むすびやHIVカフェなど、その後の日常的な活動へとつながっていくのではないかと、今はそう思っています。
 カマボールを主催した私個人としては、周縁化された状況にある人に必要なのは、金銭的な支援だけではない、と感じています。路上生活者に、生活保護で住む場所と最低限のお金が支給されたからといって、それだけで生きていけるわけではない。もちろん支援は大事ですが、それだけでは幸せとは言えない、と、強く思います。カマボールにはセクシャルマイノリティーやHIV陽性者も出演してくれたのですが、そうしたカテゴリーやありがちなストーリーではなく、彼女ら彼ら一人ひとりのなりたい願いや、その人の生きる力といったものを見ていくことが、私がこれから大切にしたいと思うことです。
 この企画を進める過程では、一九八〇年代の労働者の雑誌を集めたり、ガイドを依頼して街歩きをしたのですが、釜ヶ崎は日雇い労働者の街であるばかりではなく、そこには「おかまさん」と呼ばれた男娼もいたり、非常に多様なセクシャルマイノリティーが暮らしてきた、懐の深い街だったことがわかってきました。そうした地域の姿をわかりやすいストーリーに回収しないで、時に気まぐれや変化も認めつつ、それぞれの方の想いが揺れることも尊重しながら、生かしていくことが大事なのかな、と、思います。
 カマボールを開催したからといって何かが終わるわけでもなく、むしろイベントが終わったあとが大切なんだと思いながら、私は今も、ココルームを始め、HIVカフェや紙芝居劇むすびや、いろいろな人のところに顔を出しながら日常を過ごしていますし、これからもそれを続けていきたいと思っています。
 
事務局│ありがとうございます。コミュニティーの外から何かを持ち込むのではなく、コミュニティーの中で何かを一緒につくっていくというお話は、先ほどの参加者の方からいただいた、当事者の自発性と、それに関わっていく人たちとの関係性についての問いへの、アンサーの一つになっていくのではないかと感じました。

参加者4│「なりたい自分」というキーワードが出てきますが、高齢になると、なれなかった自分を過去のこととしてとらえる人も多いと思います。けれどカマボールでは、その過去の「なれなかった自分」が、未来の「なりたい自分」として、時間軸が過去から未来へぐるっと回って、それがランウェイでは「今の自分」になっているところがおもしろいと思う。この経験を経たことによって出演者の皆さんに変化があるのかどうか、これからも継続して知りたいと思います。

松本│真っ直ぐに生きたいと前田慶次郎になった消しゴムさんは、カマボール以来自分のことを慶次郎と名乗ることにして、「慶次郎コーヒー」という屋台をやりたいと言い始めました。自分は釜ヶ崎に来て救われたけれど、釜ヶ崎のような状況にある人は全国にいるだろうから、釜ヶ崎をもってコーヒー屋台を引っ張っていくんや、と、もう一花咲かせたいというか、そういう野望につながったりはしているようです。もっといろんな変化もあると思います。

事務局│最後のスライドに、今、松本さんが考えていることとして「なんで釜ヶ崎にいるのか」と書かれていますが、松本さんはなぜ釜ヶ崎にいらっしゃるのですか?

松本│「なんで釜ヶ崎にいるのか」は、いつも考えています。とくに困窮者支援をしたいというポリシーがあるわけではないのですが、「何か」にひかれて、もう六年くらい関わっている。そこにはいろいろな出会いもありましたし、仕事のうえでは、東京から来た一五歳の家出少女との出会いも大きかった。DVやネグレクトから逃げてきた子で、私が担当して、夜中に呼び出されたり、児童相談所へ迎えに行ったりしながら、私はこれまで一生懸命勉強してきた言葉で話すのですが、それがぜんぶ上滑りするような感じで、ぜんぜん届かないんですね。本当に、私は何を言っているんだろう、と思った。私が生きたことのない現実を生きている子に対して、自分のできなさを思い知らされた感じでした。
 ここ釜ヶ崎では、そういう環境があることを知ってもいたし、これまで多様性とか、共生とか、ケアの勉強もしてきたので、自分は偏見をもっていないと思っていても、やはり身についてしまっていることがすごく露わになって、ボロボロ落ちていくような感覚に陥ります。お風呂に入っていない利用者さんが来れば、やっぱり臭いと思うし、お風呂に入ってきてほしいとか、いろいろ思うことはあります。

事務局│松本さん、今日はありがとうございました。とても生き生きとして生々しくて、楽しいお話でした。