もくじ
- » ページ1
- ●熊本で生まれ育って
●バイトをしながら写真を撮りつづける
●多摩で制作することにした理由
●多摩でのリサーチを始めて
●今後の制作について
●自分の体験から - » ページ2
- 参加者との意見交換
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●熊本で生まれ育って
今日は主に、このワークショップの期間中に、多摩地域でやろうとしていることについてお話できたらと思っています。
その前に少し、今の私のライフスタイル、水俣でのことなどについてもお話したいなと思っています。結果として撮影に関係していることなので。
私は、熊本市内で生まれ育ち、6年前に水俣へ移住しました。どちらも熊本県内で、ずっと熊本から出ることはなく、九州の田舎町で育ってきました。なので、今回のワークショップのことを聞いたときに、「多摩」と言われてもどんな町なのか想像もつきませんでした。ニュータウンとか、スタジオジブリの映画『平成狸合戦ぽんぽこ』の舞台と聞いて、ああ、と思うくらいで。
今回、ワークショップ期間中に制作をするにあたり、コロナ禍のこともあり、どこでやるか、熊本か、多摩か、とても考えました。正直なところ、ずっと熊本に住んでいて、ほかの土地のことはまったく知らない。水俣へ移住したのも、当初、水俣病のこととかはまったく知らずに、住んでみたら肌感覚でわかるだろうと思って、勢いで飛び込んで住んでしまったところがあります。実際に住んでみて、水俣病問題で患者さんとか団体とか、ほかの地の人とか、いろいろな思いがすごくあって。小さな町だけれども、その中で複雑に入り混じる現実に直面していて、覚悟はしてきたつもりではあったけど、現実には本当に甘くないというか、大変なところに飛び込んでしまったなと思うところもあって。でも、来たからには、黒岩でのプロジェクトを一つの作品として形にしたいという思いだけで頑張ってきたところがあります。
●バイトをしながら写真を撮りつづける
黒岩での写真は、『あめつちのことづて』として一つにまとめたものの、まだ何かが欠けているようなというか、まだ自分には何か足りていないようなというか、まだすごく悩んでいる部分はあって。
自分の中できちんと仕事として写真を撮っているし、写真家ということでお呼びいただいたりしているけれども、実際のところ、写真で食っていけるなんてことは今でもなくて。今年は本当にありがたいことにこうしたワークショップの機会を頂いたりしているのですが、それは10年やってきてやっとのことというか、初めてのことです。一番は撮りつづけることが大事かと思うのですが、それをつづけるために、今もアルバイトを三つ掛けもちしています。必要な撮影の時間以外はたいていバイトをしていて、それ以外に夜中の時間などを使って、写真の現像やプリントをしています。その中でつまずきがあると、勉強できそうなテーマのワークショップを見つけて参加して、またこっちへ戻って生活をして、撮りに行くという生活をずっと繰り返しています。
●バイトや生活の中で、感触を得る
ただ、ものは考えようだと思っているところがあって。バイト暮らしはなかなか大変だなとは思うけど、考え方を反転すると、得られるものはすごくあったなと思います。後々に作品に生かせることはものすごくある。例えば今はコンビニのバイトと、介助の夜勤の仕事を週に1回しています。あともう一つ、養鶏の仕事をしているんですね。
コンビニにいると、なんだかんだコンビニ程度などと言われるぐらいの階級社会というところがあるので、結構人からばかにされるような仕事だったりもするのですが、私たちの生活には欠かせない仕事でもあって。漁業とか農業とかにも少し通じるところがある。漁業とか農業とかは、長年培った勘や感触がすごく大事だったりもするのだけど、社会では受験や勉強、賢さとか利口さが大事だったりする。その矛盾を感じたりとか。
介助の仕事をしていると、そこではみんなやはり患者さんとか障害者として扱うけれど、相手の意思が確認されないままに、なんでもこうやってフォローしないとと思ってすると、すごく矛盾が見えてくる。そのずれを肌で考えたりする。
それから、ドキュメンタリーは特に、アジアの過酷な労働が話題に上がりやすいと思います。今年初めて養鶏のバイトをしてみて、今年一番の衝撃だったのですが、養鶏場で鶏舎の掃除をしたりだとか、鶏をわしづかみにして入れる作業─卵用の鶏なので、2年に1回入れ替える仕事があるのですが、その入れ替えの作業(鶏を入れる作業)をしていて。自分が労働してみると、写真で見るように美しくてのんきなものではないよと、心の中で突っ込みたくなってしまう。
自分が撮っているほうなので、撮っている側がどう撮りたいかという意思の部分と、逆に撮られるとしたら、撮らないでくれよと思ってしまうような複雑さがあるのですが。
本当に考えようで、生活はそういうものを感触として得られる場になっています。もちろん写真で食っていけたらなという願望はあったりもする。でも、写真が撮れるならなんでもいいやとも思わないので。お金になるものは人が欲するものだったりするし、それに合わせるというよりは、私がそれに対してどう思ったとかが大事だと思っています。
●一番大事なのは、信頼関係を築いていく中で撮っていくこと
ドキュメンタリー写真は、一番お金にならないというか、仕事をしていて自負していて。それを覚悟した上でやっていかないといけない。撮影をつづけられるなら、バイトでもなんでもいいかなと思っているところがあるので、こういう仕事がつづけられるなら、生活するのも撮影するのも自分自身との闘いだったりもするので、自分のやり方としては、結果的には合っているのかなと思ったりもします。
話が少しそれるのですが、スーザン・ソンタグという写真論などの本を書いている人の言葉で、「介入する人間は記録はできない、記録する人間は介入することができない」というような言葉があって、すごく私は納得することがあって。対象の人たちと近くなり過ぎないように意識するけど、遠くてもいけないので、やはりカメラを意識しないぐらいまでの距離は近くする。距離の遠近にあまり深くこだわってもと思うのですが、一番大事なのは、信頼関係を築いていく中で撮っていくことだと思います。
その距離感を行ったり来たりしながら、結局はそこの生活に介入していくので、記録というよりは、彼らの暮らしを一緒にどう過ごして、そこに対して私がどう思ったかを写真でつづってていくような感覚でやっています。
それとは対照に、理論的で客観的にという作品の撮り方をする人もいるし、そういう方法ももちろんあるし、それは本当に人それぞれで、これはあくまで私の考え方です。私の考え方として、誰かが撮ったり表現したりする行動には、必ずその人の主観が混じるものだと思っています。ここで本題に戻って。
●多摩で制作することにした理由
あまりにも黒岩を撮影することだけに集中し過ぎたので、次に水俣で取り組みたいことは、自分の中でもいろいろ出てくるんだけれど、考え方とかイメージが固着している、ちょっとマンネリ化しているというか。距離を近づけたい、住んでいる人の感覚でと言って住んでいると、逆に近すぎて見えなくなるところもある。新鮮な空気を入れたいなと思ったのもあったし、今回こういう機会を頂けたのであれば、時間に限りがあって、実験的な場でもあると思うのですが、いろいろ試してみるという意味で、外を見て、また水俣へ戻って見ると、何か違った見え方もするのではないかなということがあって、多摩でテーマを見つけて取り組んでみたいなと思いました。
とはいえ、多摩でも人と人のつながりや土地に関わることは、2022年3月までのワークショップだから3月になったら終わりますということではなくて、何かしら、どんな形にせよ、自分の思わないところでつながっていったりする。だから、それを考えた上で、多摩でテーマを見つけるにしても、今自分の取り組んでいる仕事の延長というか、学びになるようなテーマを模索してみました。
●現地を歩いて、そこの人と話して歩いてみる
まわりにも、多摩に住んでいましたという人が結構いて。国立出身でずっと住んでいたという人にも会ったのですが、どんなところなんですかと言うと、「多摩は広いからね」とだいたい一言目に言われます。そうだろうなと思いつつ、唐突な質問をしたことに申し訳ないなと思いつつ。
その中でも気になったのが、多摩ニュータウンの団地群とかで育った人で、「自分は地方のように文化がないということがマンネリだった」とか、「そういうところに住んでみたいというあこがれがあった」という言葉を聞いて、それがすごく腑に落ちた部分があって。文化がないことはないと思うのですが、私は表層をめくったその地域の文化までは知らないところがあるので。
それは熊本も同じで。私は高校2年のときに一人で熊本市から鹿児島までバイクで旅行したことがあって、そのときに水俣を確実に通っているのですが、ただの田舎だと思って立ち止まることなく通りすぎたので、そこの土地に何も思うことはなかったんです。
今は逆に、通り過ぎたその場所が水俣だと知ってそこに住んで、もっと知りたいと思って掘り下げていっている。表層で見えるものと、そこの土地のもつ真相は違うので、掘り下げれば何かしらあるんだろうなと思い、いろいろ調べ始めました。
多摩地域とか多摩ニュータウンについて、自分が引っかかるものは何か、考えながら調べていく。ただ、あくまで資料は資料でしかなくて。水俣もそうですが、やはり水俣もたくさん資料があるんですよね。論文、本、写真もそうだけど、とにかくかなりいっぱいある。でも、資料だと、自分の知らない土地はいまいち自分の感覚のようにして知れないものがあって、私が一番大事にしているのは、やはり現地を歩いて、そこの人と話してみる感触の部分です。
●地の人間のもっている言葉ほど強いものはない
ただ、ふらふらっと歩いて、町で会った人と話すと、そんなにうまく話せる人なんてまずいないんですよね。年配の方とかだと、黒岩での聴き取りもそうですが、ぜんぶ記憶が残っていることもないので、記憶がちぐはぐな部分があったり、そこには嘘ではないけれど、現実にあったことと、そうではない部分が混ざっていたりもする。でも、きれいにまとまった強い言葉より、不器用だったり、たどたどしかったりしても、地の人間のもっている言葉ほど強いものはないなというのがすごく実感としてあります。
水俣病の場合だと、中心になって闘争運動をした人とか、水俣病センター相思社のようにいまだ相談を受けたりしている人もたくさんおられて。その一方で、地元をふらふら歩いてたまに話しかけてみると、それに陰口を言ったり、患者さんとか運動を批判する人も多くて。でも、そういう人たちも手帳をもっていたり、漁師家族だったりとかする。
否定の裏側って、実はものすごくいろいろな考える要素があると思っています。だから『あめつちのことづて』のような水俣病を全面的に訴えるのではなく、暮らしという誰もがもっている中から、それぞれが考える空白をもてるようなところにつながっていく。今から多摩で撮影したいことについて紹介した後で、また実体験とかも少しお話したいと思います。
●多摩でのリサーチを始めて
私自身、まだ悩みながら進んでいるところなので、この先どうなるかわからないですが、3カ月間取り組みながら考えてきたことをここで共有したいと思います。
9月に実質1日半ぐらい、10月後半から10日ぐらい、多摩に滞在しました。これが1回目のときに行ったものです。
行程はこんな感じでした。
9月16日:国立療養所多摩全生園を見学。
9月17日:レンタルバイクで、多摩地域で下調べをしていて気になった場所を訪問。多摩センターの一番古い団地で、昭和46年(1971年)に入居が始まった永山団地やその近くの諏訪団地と、最初に資料を頂いた中でちょっと気になっていた団地の商店街を回る。
永山団地の入居開始から半世紀ぐらいたち、ニュータウンの全人口の16%が高齢者だったり、老朽化だったり、空き家などの様々な問題があるという話は聞いていました。
確かに老朽化だったり、高齢者の方が増えてきたのだろうなというような、ふれあいセンターというかコミュニティスペースのような存在は目に留まったのですが、正直どこも都会だなと思いながら私はここを眺めていて。大阪にいた曾祖母が同じような集合住宅にいて、よく遊びに行っていたので、懐かしいなと思うくらいで、違和感といった引っかかりをもつ点は、見つけられませんでした。
事前に調べていた中で引っかかったのが、このニュータウン開発運動反対をしていた19住区というところの存在でした。昭和39年に八王子市に合併する前は由木村という場所だったそうです。どうも開発反対運動をしていて、今も里山の姿を残している場所があるらしくて。この由木村は、明治20年代から始まった、多摩地域の酪農発祥の地でもあり、養蚕も盛んな地域だったみたいです。
それで、9月の1回目の上京の際はここにも向かいました。また、府中市立図書館とかで関連書籍を調べました。これが実際に行ったときの写真です。バイクに乗りながら記録のように撮っているので、写真はすごく雑なんですけど、ニュータウンのビル群を抜けてすぐのところにある堀之内交差点から入っていく。[fig.②]
この大通りを一本小道に入った瞬間、民家や農地の景色にぱっと切り替わるようなところがありました。[fig.③]
その景色というか、その極端な違いに少し引っかかる部分があって。たぶん、こんなところはほかにもニュータウンの縁のところにはあるかもしれないし、ここから先に行くと、たぶん農地とか山間地も増えてくると思うので、その周辺に住んでいる人からすると珍しいものではないのかもしれません。
さらにその辺をバイクでうろうろしていると、小高い丘というか、里山の裏側ぐらいですが、次は戸建ての分譲地が広がる。ここは多摩ニュータウンの東山分譲地というところです。先ほどのビル群とは違い、ニュータウン開発の面影が形を変えてここまで進んでいるんだなという印象をもちました。[fig.④]
さらにうろうろしていると、大学の密集地でもあるので、学校のキャンパスがあったり、また違った形でちょっと古い住宅地が広がっていたり。当たり前だとは思うのですが、堀之内にもいろいろ場所はあるんだなということはなんとなく感覚でわかってきた。
うろうろしているうちに、おそらく19住区の中でも、運動で残った土地はこの辺かなという目測が付いてきて、ここはたぶん堀之内の寺沢地区という部分だろうということもわかってきました。寺沢は字なので、地図上になかなか出てこないので、寺沢はどこからどこまででということまではまだ確認していません。
これは私個人のやり方ですが、知らない土地は方向感覚がまったくないんですよね。だから、ひととおり歩いたり、バイクに乗ってうろうろ移動しながら、気になったらここ、ここと撮っていく。iPhoneで撮っていると、それがGPSになって地図としても残るので、ここで撮った、ここで撮ったという地点が残っていくので、後から地図で調べたりもできるし、どういうふうに進んでいって、この辺でこういうことを思ったのかなということも残せたりする。
●地域に1軒だけ残る酪農家
事前に調べたときに、酪農家の方々が立ち上がって土地を残す運動をしていたという内容があって。道をうろうろしていると、牛はいないけれどたぶん牛舎だろうなという家があったんですね。たまたまおばあちゃんが外に座っていたので、その人に話を聞いてみました。「これこれこういう理由で興味をもって九州から来たんですよ」などと話していると、今もこの地域で1軒だけ酪農をしている家があってね、あそこからこう曲がってそこの家だよと教えてくれるのですが、9月に上京した時点では、ここまでがわかったところでした。なんとなくそのときに、この1軒だけ残る酪農家がもしあるのであれば、そこを撮れないかなという模索を始めたところです。
二度目の上京の際は、最初の2日間は資料集めとか、それを読み込むことをしました。また、酪農家に直接会ってみたいと思っていたので、もう一回、堀之内に行って周辺を歩き、会った人に話を聞きながら、この農場の前をうろうろしながら、人がいそうなとき、なおかつ話しかけられそうなタイミングを見て、直接ごめんくださいということで訪ねてみました。
この家のすぐ後ろは、平山通りという大通りがあって、その通りに面した農場です。萩生田ファームというのですが、ニュータウン開発反対運動をしていた当時4軒の酪農家があって、そのうちの1軒で、今酪農されている方のお父さんが熱心に運動に取り組んでいたそうです。通りの向かいには養鶏場もあったみたいですが、今はやめていて、酪農自体もほかの方々はやめているので、この地区ではこの1軒だけになっている状況でした。
そのときお話を聞かせてくれたのは、今32頭いてねとか、来月出産予定の牛が1頭、北海道から帰ってくるから、うちは今33頭いて、どのくらい牛乳が取れてとか、昼の12時前後と夜の10時前後に搾乳しているそうで、その前の時間ということもあったので少し話をしてくれました。「搾乳が始まると、それどころではないから話せなかったよ」とおっしゃっていました。
そうこうしていると、萩生田ファームの方からも、この周辺の市民農園の人たちからも、下調べしたときにも名前が出てくる人物がいました。それで、直接お訪ねしてみることにしました。
●鈴木亨さんのこと
その人がこの方です。鈴木亨さん。67歳。これは、私が最初に行ったときに鈴木さんが撮った写真ですね。[fig.⑥]
これは、ウェブサイト「好齢ビジネス人」(*注)の〈おっさん牧場の鈴木亨さん「情報発信することが大事。継続的な発信で良い出会いに巡り会える」〉という記事から、引用させていただいた、鈴木さんのプロフィールです。
“鈴木亨(すずき・とおる)さん─八王子市在住。堀之内地域では“牧場のおっさん”というニックネームで呼ばれる。都内に残る酪農地域「おっさん牧場」で牛と生活しながら多摩ニュータウンに反対し、地権者が自然保護活動をしていることで注目を集める。八王子市の違法残土への取り組みや東京都で初の民地での里山保全地域に指定されるなどの自然保護の動きに貢献。5年前、病気をきっかけに牛との生活を断念し、「社会福祉法人由木かたくりの会」を設立、多摩の若手農家が中心の株式会社フィオ(FIO)へ土地を提供、「一般社団法人八王子協同エネルギー」の市民発電所第一号機として30kwのソーラーパネルを牧場内に設置するなど土地をオープンにすることで人が集まる場をつくっている。”
水俣でも同じように、メディアによく出てきている人がたくさんいて。それはそれでメディアの人が十分伝えていると思うので、そこには出てこないようなものを探るのが私の仕事でもあり、その中で引っかかった部分をあぶりだしていくようなことをしているのだろうと自分自身で思っています。
そういう表に出てこない人を取材したいという思いが普段からあるので、メディアで多く紹介されていて、個人でも活発に発信している方だったので、私が取材するとしてどんな意味があるのかな、またどんなふうに視点を見つけられるのかなということも思いながら話していました。
会った日も、鈴木さんが2~3時間ぐらい、ずっといろいろ話してくださって。その翌日もアートフル・アクションの方たちが来られるということだったので、同席させてもらってお話をいろいろ聞いていました。これがそのときの写真です。
滞在中、Zoomでも話してもいいよと言ってくれて、3~4日間、早朝6時半ぐらいからZoomをして。いろいろ話を教えてくれました。酪農家が社会福祉法人を立ち上げるなんて、最初は無理だろうといろいろな人にばかにされたという話だったり、でもニュータウンにはその当時、福祉施設などなかったから、自分でつくるしかないと思ったんだよと言って、活動をかなり活発にされてきたことをここでも熱心に細かく教えてくれました。
鈴木さんのお父さん、鈴木昇さんが多摩ニュータウン開発反対運動の中心になった方で。亨さんはそのとき、父親が運動で忙しくていなかったこともあり、大学を2年で辞めて、お母さんと二人で必死に酪農をして家を守る仕事をしていたようです。昇さんは昇さんで、酪農と土地を守るための運動をして、亨さんはそれを見て、まちづくりとか、次はどうするべきかということを考えて、里山保全運動に進んでいく。その延長で、障害者自立支援施設などを運営する社会福祉法人由木かたくりの会を設立していくんですね。
鈴木さんは普段、要介護5で寝たきりの奥さまの介護をしながら、自分はがんと闘って、娘さん夫婦とお孫さんと一緒に暮らしています。私はまだ資料を見たり、数回お話しした程度なので、多岐にわたりすぎている濃い活動を詳しく紹介することはまだかないません。
ただなんとなく、最初に会ったときに、奥さんの車いすにもたれかかるような感じで、優しそうに話す亨さんの表情にすごいひかれるものがあって。
新規就農者の受け入れもしているのですが、その若手の人たちからすごく信頼されていて、人間性というか、そういうものがにじみ出てきているような気がして。この二人の暮らしから、またはこの鈴木さんという人の視点の中から、守ろうとした土地への思いや、福祉という面でも何かもっと広げられるのではないかなということを漠然と思っています。
●今後の制作について
12月も予定通り上京できれば、お二人の生活に密着しながら撮影をしていきたいと考えています。まだまだ模索は必要だし、反対運動があるからには対極に推進した人たちの考えもあって。今、過疎化、高齢化するニュータウンで活動する若手の方たちが、どういう考えをもっているかも聞いてみたいです。堀之内の寺沢は、ニュータウン建設から土地を守ったけれど、次は相続税の問題もあったりして、そういう仕組みも知る必要があると思っています。空き家だらけになったニュータウンの団地群は、この後どうなるのか。
黒岩のような山間部の集落は、すぐ近くで金山が盛んだった集落でもそうなんですが、人がいなくなって山に返っていった場所もある。水俣は、全盛期の5万人いたときからすると、今は人口が半分以上いなくなっています。その先はどうなっていくのかなと気になりつつ、いろいろ調べることもつづけていきたいと思っています。
●運動の背景がありながら土地に根ざす暮らしがある、その姿を撮りたい理由
自分自身、まだ発展途上な部分があって。進み方すら手探りで進んでいるような状態で。ただ、黒岩も単に山間集落の暮らしを撮るというだけではなくて、そこに水俣病という事実があったから撮っているわけで。堀之内の寺沢という地域を撮りたいと思ったのは、理由は同じですけど、そういう運動の背景がありながら土地に根ざす暮らしがあって、今回はその一組の夫婦から、そういう姿があぶりだせないかなと思ったのです。そういうふうに撮るには理由があって。私は運動体のような主張があまり得意ではないというか、言葉が強いというか強制されているような感じがどうしてもしてしまう。だから、ウッと距離を置いてしまいがちになるのですが。それと同じ理由で、ドキュメンタリー写真や映画とかにありがちな、正義感とか糾弾する主張をするような写真もあまり得意ではないんです。
その理由は、被差別部落の解放運動をしていた祖父がいるんです。祖父のことは大好きでしたが、私たち家族には仕事の話をすることはまずなかったので、どういうことをしていたのかということまでは知らなかった。でも、今、必要を感じて、そのことも調べています。祖父は祖父で差別を受けてきた人でもあったし、母親の就職差別とかが発端になって活動に関わっていった人なので、その活動を否定するようなことをしたくはないし、できないと思っているんですね。
●自分の体験から
15歳から地元の飲食店でアルバイトをしたのですが、そこでの実体験がすごくトラウマになっているところがあって。地元なので、近所の人がいたりするんです。その中で、運動をしている祖父がいることが話されていることがあって。何か話しているなぐらいに思っていたのだけれど、その後から職場の雰囲気が変わることがあったんです。社会問題の渦中にいる人はだいたいそうなのですが、腫れもの扱いをされてしまう。ちょっと触れにくいようなところがあったりすると思うんですよね。たとえ自分にそんな意識がなかったとしても、どこまで触れていいのかわからないし、少し距離を置いてしまうようなところは、私自身もあるし、皆さんもそういうところがあるのかなと思ったりはするけれども、でも私自身がそのときに初めて腫れもののようになったことがあって、世間ってこんなに大変なんだなと思ったんですね。そんなことがわかったことで、腫れものになってしまったことで、あいさつもしてくれなくなってしまうんだなと、まわりの雰囲気がこんなに変わるんだなとすごく身に染みたことがあったんです。
さらに気になったのは、学習会とかにも参加していたので、もちろんその人たちの話を聞いたりもするんだけれど、その渦中にいる人たちって、問題を糾弾するけれども、ほかの問題になると同じような差別的な発言をしていたりする。例えば、水俣病のことはしっかり発言するけれども、部落の問題になったりすると、同じように考えられなかったりする。それは祖父に限らず、いろいろな場所でも思うことがあるし、自分も気づいていないだけで、ほかのことに関しては気が回らないで、同じような発言をしていることもあるかもしれないと思うんですよね。
●自分自身の中にある差別心を問い改める
差別って、正直なくなることがないと思っていて。でも、せめてそれを減らすことは、少し考えられる。それを減らすためにできることは、自分自身の中にある差別心を問いあらためていくことでしかないような気がしているんです。腫れものとして触れづらいかもしれない。でもそうやって避けていく中にも、実は差別は隠れていたりする。距離を置こうとしている人ほど、ぜひ触れてほしいなと思う。その、運動とか活動を糾弾している人たちの活動があって、今、生かされている私たちの事実もある。だから、行動とか言動を否定するのではなく、それぞれに声の出し方を模索していく必要があると思っています。私が水俣でも引っかかるのは、水俣病を取り巻いた差別の部分だったりする。ただ、やはりその問題を全面に出していくと、昔の自分のようにひいてしまう人は必ずいると思うんです。
正義感とか水俣病運動とか差別というキーワードを全面に出さずに、みんながもっている日常とか、形は違っていても、必ずそれぞれがもっている暮らしがあると思います。だから、その普遍性の部分からアプローチしていったら、腫れものとして寄ってこなかった人でも触れやすく、触れてみて考えられるのではないかなと思って、そういう実体験が、今の撮影の仕方につながっていっています。
参加者との意見交換
瀧本│ありがとうございました。私なりに引っかかった言葉があって。否定の裏側が肯定というか表側、否定の裏側に本当の表側があるみたいなこととか。あと、水俣のほうで批判している方が被害者手帳をもっていらっしゃる方であったとか。人が否定をしたりすることの本当の裏側には、まったく逆のものが隠れていたりするんだなということがあちこちにあったように思いました。
参加者1│一つの土地に向かわれる姿勢が、自分にはまねできないぐらい深いなと思いました。また、ある差別に対して抗する運動をしている人が、ほかの点ではいつの間にか、たぶんご自身が気づかないあいだに差別者としてふるまってしまっていることがあるというのは、確かにあるなと思っていて。それは自分の身を顧みもするし、ほかの人の言動でもたまにそういうことはある。
一番衝撃だったのが、正直なところ、差別はなくならないのではないかという、ある意味リアリストな発言をされていたかと思うのですが。こんなに深く黒岩についてもコミットされている方が言うというのは、重すぎて。すみません、あまりうまく言葉が出てこないのですが、そういうところがあります。
参加者2│私も、差別をする、反対運動だとか、何か自分がされていること以外では、ふるまいが変わってくるというところがすごく印象に残って。自分もやはり、そういう部分があるんだろうなというのを振り返って考えたりしました。
参加者3│結構世の中、知らないことって多いなと思います。例えば水俣病も知らなかったし。以前、上野駅で、路上生活で、紙に「何も食べていません」とか、そういうのを挙げている若者がいたりとか。私は新宿のほうなので、都庁の近所の高架下は若い路上生活者も多かったりします。
私があるところへ行っていると、薬害で体が奇形の人とかもいるんですが、結構知らないことが多いし、知らないと、どう接していいかわからない。例えば、手が奇形だけれど器用に自販機から取ったりするときに、「器用ですね」とか言おうと思うんですけど、やはりちょっと、知らないから変に腫れものに触るようになってしまったりとかもする。あと、今だったら海外からの、不法滞在の人の拘束の問題であったり。
本当に世の中はいろいろ問題もあるし、知らないことがいっぱいあるのだけれど、差別もなくならないじゃないけれど、そういうこともなくならないというか、そういうことが常に生まれては消え、生まれては消えしていくので、その中で自分はどう関わっていくのかというのはもう、生きている限り仕方ないんだなという諦めというか覚悟というか、そういうのは必要だなと思っています。
瀧本│豊田さんのご説明はいろいろな意味が含まれていて。差別の問題もありますし、本当にものすごく気を使って、背景とかもいろいろ気にしながら取材を少しずつ進めているというか、染み込んでいかれているような、そんな感じさえしました。
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