安藤榮作(あんどう・えいさく)
彫刻家。東京都生まれ。東京藝術大学彫刻科卒業。原木や廃材を手斧で打つ繊細かつ力強い作風で活躍。1989年から福島県いわき市で制作とサーフィンに打ち込み、2011年の東日本大震災による津波で自宅と作品を失う。現在は奈良県にアトリエを構える。著書に絵本『あくしゅだ』(クレヨンハウス )など。

木の言うことに耳を傾け シンクロする

──AA

木彫は、使う樹種や部位によって表現が変わるのが面白いところだと思いますが、安藤さんは制作に入るとき、ある程度完成形を計画しているのですか?

安藤

そのときどきで違います。木の形からインスピレーションを得て彫っていくこともあるし、彫りたいイメージがなんとなくあって、それを彫ることができる木を探すこともあります。ただ、いずれにしても途中からは、その材と自分との対話になっていきます。これが一番だと思っていたものが、彫り始めると違うと感じたり、木のほうが「こうしたほうがいいんじゃない?」と言ってくるように感じたり。木彫刻家のなかには、最後まで自分のプランを押し通す人もいるけれど、ぼくは「そうかもしれない」と変化させていくほうですね。 

だから制作の後半になると、木の言うことを聞いているような感じになります。そこに至るまでの過程で、もっとここを絞り込もうとか、もっとふくよかにしたいと思って、一生懸命時間をかけてつくった部分も、「ここはもういらないんじゃない?」と木から言われて、仕方なく削り落としたり……。でもそうすると、明らかによくなるんですよ。 

材木屋で調達するものと自然木とでもまったく違います。クヌギやナラなどの広葉樹は、本当に暴れた形をしているし、彫り始めると、ウロから何かが出てきたりすることも多い。斧の刃がやけに欠けるなと思ったら、散弾銃の玉がびっちり入っていたこともあります。おそらく山鳥か何かを撃った猟師のものでしょう。石が出てくることもあります。

──AA

弾や石を埋め込んだまま、木が成長していった……木が生きた時間がそこに重なっているのですね。節があったり、変色している木なども、素材としてはきらわれるかもしれませんが、それをきっかけにして新しい形に導かれることもありますね。

安藤

そういう素材のほうが、逆にイメージが湧いてきますね。明確なイメージがないときでも、彫りながら感じるものがあり、木の状態とどこかでシンクロして歩み寄るような感覚があります。だから、自分の思い通りにならないことが起きるのを楽しんでいるところがありますね。その体験を取り込むと、自分がここが頂点だと思っていたところを超えて、ジャンプできるような感覚を得られます。

──AA

それは、どこかで自分のコントロールを超えて、向こう側に委ねるような感覚なのでしょうか? 安藤さんは、木を手斧で彫るとき、左右に体を揺らしながらリズムに乗り、動きによって木とシンクロしているようにもお見受けします。一方で、長年サーフィンも続けていらっしゃいますよね。波乗りの感覚に近いものもありますか?

安藤

「委ねる」ということとは少し違う気がしますね。例えば陶芸家は、作品をつくるときに火を使います。それは火という自然の力に作品を委ねることだ思いますが、ぼくの場合は、それとはちょっと違うかもしれません。ただ、意識で押さえ込まないという意味では、「自分にも委ねてあげる」ということはあるかもれない。 

波乗りの感覚は大いにあります。サーフィンをするとき、同じ波は二度と来ないので、臨機応変な状態でいないと乗ることができません。転ばないようにとぐっと踏ん張っていたら、ボードから落ちてしまいます。つねにくにゃくにゃしている感じですね。木もそれぞれ違って同じ状態のものはないので、彫りながら共鳴したり、木から受け取る波動、周波数のようなものに乗る感覚があります。力で彫ろうとすると断絶が生まれ、素材とも道具とも仲よくできません。自分を取り巻く環境とも、何かうまくフィットしなくなってしまいます。

──AA

自分でコントロールできると思うことも、こうしようと肩に力を入れることも、一度やめてみるということですか。木と対峙する自分のありようを、自分自身でほぐしていくような感じでしょうか。彫るときは、つねに力を抜いているのですか?

安藤

 力が入ってると、(手斧を持ち、楠を打ち始める)……ほら、動きが止まってしまうんです。これでは循環が起きません。体の動きとしての循環や、木や空間との循環がなくなってしまいます。循環というのは、(手斧を持ち、楠を打ち始める)……このように、ずっと一定のリズムの中にあることです。そのためには手首をやわらかくしないといけません。また、ずっと同じ方向で打っていると体が固まってくるので、反対側を伸ばしたりと、やりながらストレッチをしているような感じです。体も熱くなってきます。 

そんなふうにして、自分と木と斧、外側にあるエネルギーも含めた循環の中に入っていくような感覚になると、すごく楽しい状態になります。そうなりたくて彫っているような気もしますね。その結果として「こんなものができました」みたいな。循環を感じていたいということのほうが、主なのかもしれません。

──AA

自分を投げて企てると書く「投企(とうき)」という言葉がありますが、まさにそういう状態なのかもしれませんね。安藤さんが斧で彫刻している瞬間というのは、自分がいまここに、このように存在しているという実感だけではなく、自分とは違う大きな流れの中にあると感じている時間なのかなと。 

そのような大きな世界に身を投じながら、自分が生きていると実感できることが、造形することのひとつの可能性ではないかと思います。子どもたちにもそんな体験があれば、例えば人間関係の中で孤立し、寂しいと思うようなときでも、世界は信頼するに足るものだと思えるのではないでしょうか。

  • 元印刷所の工場を利用したアトリエにこれまでの作品が所狭しと置かれている。樹種や生息環境の違い、また時間の経過によって色や醸し出される風合いもさまざま。経年によって割れが生じたもも。2体とも安藤榮作「歩き続ける人」ヒノキ(オイルステイン)2023年(左)、サクラ2022年(右) 撮影:HATO文化編集部

安藤

それこそが、人類がアートをやり 続けている核かもしれないですね。たしかに制作していると、孤独感はなくなってくる気がします。ぼくは長野の山中に30日間くらい滞在し、ずっとひとりで彫っていたこともありますが、そのとき何の孤独感も感じなかったばかりか、むしろものすごく豊かな世界とつながっているように感じていました。

「できない」ことからしか 生まれないもの

──AA

今の子どもたちは、触っちゃダメ、やっちゃダメと制限される場面が多いように思いますが、それに慣れてしまうとその先に進めず、与えられたものの中で満足してしまう。自分が何かを生み出せると思っている子は少ない気がします。 

逆に安藤さんがなぜ今のようになられたのか。そこにヒントがあるのかな。安藤さんは、幼い頃から粘土遊びが好きだったそうですね。ポケットの中で粘土をこねながら、動物などの形をつくっていたとか。

安藤

粘土は、手を動かすだけで何かを生み出せます。粘土がひとつあれば何でもできるということが、手品みたいでうれしかったのかな。猫をつくったとしても、世界にただひとつのものだし、それを生み出せるってすごいなと思ったんですよね。平面でないことも大きくて、ぼくらがいるこの3次元の世界に、ぼくらと同じように存在できるものがつくり出せてしまうということが、よろこびだったんだと思います。 

昔の油粘土はすぐ硬くなったので、やわらかくしようとストーブにのせたものを、うっかり握ってひどい火傷をしたことも。だからといって、親は粘土をやめさせたりはしませんでしたね。

──AA

生み出せるよろこびというのは、とても大きいものですね。猫が1匹つくれたら、ネズミを捕るかもしれない、きょうだいがいるかもしれないと、どんどんイマジネーションもふくらんでいくし、自分との関係も深まっていく。もしつぶれてしまっても、また次のものを生み出すこともできますしね。

安藤

たしかに粘土だと、大事につくったものでも、次に何かをつくるときにはぐしゃっと塊に戻すことになります。そういう潔さは、そこで学んだかもしれません。木との関わりもそうですが、ものが一定でないということも学んでいたのかもしれませんね。

  • 安藤榮作「コズミックフェイス」クス2021年(中央左) 安藤榮作「ユイ」クス2019年(中央)

──AA

今、子どもたちの身のまわりにあるものが、プラスチック製だったり、製品として出来上がったものばかりになっています。それでは壊れたら捨てるのが当たり前になってしまいますし、ものを生み出すプロセスに関わることもありません。修繕もしませんしね。ものに命を見ることも、あまりないですよね。

安藤

人間が「情報の通り道」になってしまいましたよね。何かを得ているようでいて、実はただのデータのケーブルになってしまっている。企業や為政者からしたら都合がいいことかもしれませんが……。 

木を彫っていると、直接素材と関わるので、誰かが生み出したシステムに組み込まれることにはなりません。木には大地の情報が詰まっていて、ぼくはそこから直接情報を得ることができるわけです。誰も介在しない時間というのは、これからの社会で生きていくうえで、ますます必要になってくるかもしれないですね。木を彫ることひとつとっても、硬いとか、いい匂いがするとか、本来は人によってキャッチする情報も微妙に違うはずです。でもデータになってしまうと、みんなが均一な情報を得るということが起きる。しかもその情報は、誰かの意図が入ったものです。 

学校教育のキット教材にも、それをつくった人の意図が入っていると思います。本当はこういった木材を教室に持っていって、子どもたちに順々に斧で叩かせて、「ギザギザにしちゃおうぜ!」みたいなことでいいんですよね。

──AA

本当にそう思います。例えば道具の重さを感じること、使うときはお腹に力を入れていないと振りまわされて、けがをしてしまうことなど、一見他愛ないことが、今とても大切だと思います。自然とのつながりが世代ごとにどんどん失われ、AIに任せることも増えているなかで、図画工作は、素材と触れ合える貴重な機会ですね。

安藤

先日、ダンスアーティストの新井英夫さんと美術家の中津川浩章さんと3人で、パフォーマンストークをしたとき、新井さんが話してくれたことが印象的でした。新井さんは、2022年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、体が不自由になっているのですが、今、AIを使ったさまざまなサポートができつつある中で、障害者が描いたぐにゃぐにゃした線を修正してくれるものがあると。揺らぎを調整して、きれいな線にしてくれるんだそうです。 

でも新井さんは、ALSになって今いちばん大切だと思うのは、「できなくなっていくなかでしか、出せないものがあること」だと言っていました。それなのに、できたように修正しないでもらいたいと。今の世の中はどんどんそちらのほうに行ってしまっていますが、これから大事なのは、「できないことでしかできないこと」ではないかと 。

──AA

そういった「修正」がなされていくと、これが正しいことであり、その正しいことができないとダメだという認識がまかり通ってしまいます。本当はそうではなくて、障害があると言われる人の中には、私たちが持ち得ないたくさんの豊かなものがあります。障害や「できない」ということ自体が排除されていくような流れに対して、造形することや身体表現の追求が別の可能性を持つことは深く考えていきたいことでもあります。

安藤

ぼくは小学校でワークショップをすることもあります。学校に木の塊を持っていって、教卓の上で叩いて見せるんです。「いつもどういうふうに彫刻をつくっているか、ちょっと見せるね」と言って斧でガンガン彫り出すと、とたんに教室が凍りつくんですよ。チップが飛び散るのもおかまいなしにどんどん彫っていく。そうすると、子どもたちは静かなんだけれど、なんだかうれしそうな顔をするんです。 

それからクラスを見渡して、少し孤立していそうな子を呼んで、「ちょっとこれで叩いてごらん」とやってもらいます。思い切り、でもちゃんと握っていないと斧がすっ飛んでいくから気をつけてねと伝えます。もし飛んでいったら、みんながちゃんと受け止めてね、と冗談も言う(笑)。すると、その子がだんだん強く打ち込むようになって、教室のみんなの顔も変わるんです。斧で木を叩くだけで、一瞬にして。 

中学校や高校も含め、いろいろなところでやりましたが、どこでもだいたい同じ現象が起きます。その後みんなで小下駄を彫ったりするのですが、子どもたちは本当に一生懸命やります。周囲に自然環境がある学校なら、木材を森から持ってきて、また森に返したり、海に流したりといったこともします。クラスの中には、みんなそれぞれイヤなやつも苦手なやつもいるわけですが、最後に加工した小枝をひもでつなげて輪にして、みんなで回したりもします。 

そんなことをした後で、震災のときの話を当時の画像を見せながらすると、みんな顔つきが変わります。とくにツッパっている子たちほど変わりますね。新潟の高校でやったとき、ぼくが3回ぐらい木を打ったところで、たまたま斧の先がボコッて取れたんですよ。「あ、取れたわ」と言って振り返ってみたら、さっきまでかったるそうに見ていたツッパリの子たち全員が、はるか向こうの壁際に張りついていて、笑ってしまいました。それでもう、すぐに打ち解けましたね。

  • ア ト リ エ の 床 で 作 品 に な る の を 待 つ 楠 。 水 分 を 多 く 含 む 楠 は 、 切 り立ては大変重く、乾燥が進むと、軽くなる。試しに手斧で打た せてもらったら、ツンとした樟脳の香りが広がった。

──AA

斧のような原始時代から変わらない道具は、手の形や体の自然な動きのうえでも、使いやすい形であるはずですよね。こういう道具を使わないでいると、そのうち人間の体のほうが変わってきてしまうかもしれませんが……。

安藤

最古の道具のひとつですから、ずっと人類が使ってきたDNAが残っているのかもしれませんね。使うと、全身の細胞がワーッと活性化する気がします。子どもたちはもちろんですが、先生たちにも木を叩いてみてもらいたいですね。

ドローイングはイメージの確認

──AA

安藤さんはドローイングもされますね。彫ることと描くことの間にはどのような関係性があるのでしょう。フィードバックし合うものもあるのですか?

安藤

ドローイングは、自分の感じている世界を確認するような行為だと思います。平面だから、そのものが空間の中でどう存在するかは関係なく描けますよね。例えば全部を点で描いてもいい。そういう意味では、自分のビジョンやイメージを確認する行為であり、表現というよりは、自分の中をよりはっきりさせる、チャンネルを整える行為かもしれません。 

一方で、彫るほうは、世界の循環の中に自分が入っていく、そのよろこびを体感する行為ですね。

──AA

矢内原伊作がジャコメッティのモデルをしたときの文章に、矢内原さんが辛い姿勢を我慢して座っていると、ジャコメッティが、今日はすごくいい仕事ができたと言うので、やっとこれで終われると思ってキャンバスだったかスケッチブックだったかを見にいくと、全部消されていたというくだりがあったと思います。私はこのことが書かれた本が大好きですが、おそらくジャコメッティは、矢内原さんを理解する、あるいは獲得するための作業としてスケッチをして、矢内原さんの精神とか肉体を描いた。「作品」として仕上げるのではなく、何かを理解する、ある世界を獲得するために手を動かすことがあるのかもしれないですね。

安藤

絵を描く目的が違うんですよね。彫刻もそういうところがあります。ずっと木や自分とやりとりを続けているうちに、ジャコメッティの絵のように、体のある部分がとんでもない長さに見えたりしてくることもありますから。

──AA

何かをつくるうえでは、「人間とはこういう形である」という前提に基づくより、「自分にはこう見える」ということのほうが大事だと思います。抽象・具象という言い方にも疑問があって、ねじ曲がっていようが何だろうが、自分にはこう見えるのであれば、それは具象ですよね。

安藤

抽象も具象もない、ということですよね。

割れても「いいじゃん!」

安藤

先ほどの「できないことでしかできないこと」のようなものは木にもあるんですよ。植林で育つ木はみんなだいたい同じで、ある意味、工作キットに近い自然物です。しかし、自然の中で育った木は、その木でしかできないことがあります。 

そういう木を彫っていると、完成に近づくにつれて乾燥のスピードが速くなりますから、次の日に割れていたりすることもあります。そのとき、それを切って合わせて元に戻すのか、それとも割れたものを受け入れるのかで仕事が変わってきます。 でもやっぱり、割れたものを受け入れながら、よりよくしていくのが面白いんですよね。それが世界だと思うんです。学生にも、「先生、割れてしまいました」と言われたら、「いいじゃん!」と言う。かならずよくなりますから。

──AA

そこからいくらでも違う道が開けていくのですね。木のほうにも、割れなければいけない道理があるということですよね。

安藤

木というのは、その木がどういうふうに生きてきたかの塊ですからね。 ぼくの作品で、もともと背中が少し割れていたものがありました。それを求めてくださった方が、気づいていなかったのか、その後割れが広がったのかわからないのですが、見ていて苦しくなるので、割れていないものと交換してもらいたいと言ってこられたのです。 

ギャラリーの方は、木彫はそういうものだし、とくに安藤さんの仕事はそうで、皆さん割れも楽しんでいますよと言ってくれたのですが、その方にとっては認められるものではなかった。結局交換することにしたのですが、割れた作品を戻してもらったら、またそこからすごくいいものをつくろうと思っています。「製品」として認識してしまうと、その基準にあてはまらないものは「不良品」になってしまうのかもしれませんが、とくに自然素材を使ったものはどんどん変化していきます。石だとしても、彫り出されたときは、人間で言うと表皮がはがされたような状態ですが、空気や光に触れることで、また新しい皮膚ができるような感じがあり、10年家に置いておけば、様子が変わってきます。 

すべてのものが変化して、粒子に還っていこうとしているのがこの世界ですよね。木はもともとバクテリアの塊で、土からやってきたから、土に還りたがります。ここにある木だって、ちょっと外に置いて雨風に当てていたら、どんどん土に近づいていきます。プラスチックも劣化してボロボロになりますが、本来の姿に戻ろうとする木のあり方と、自然に還ることのないプラスチックが経年劣化していくのとは、かなり違いますよね。

──AA

時間を経ることで変化し、その存在の意味が深まっていくということは、生きていくうえでも大きな励ましになりますよね。

安藤

日本は敗戦と戦後の高度経済成長を経て、確かなのは物質的なものであり、理屈が通らないものは信じる価値がないとしてきたけれど、ここへ来て、ものが分解していくこと、循環していくことなど、目に見えないものの価値に気づき始めた人がいるのだと思います。とくに子どもたちは、本来は自然に近い存在だから、少しそこへの回路を開いてあげれば、すぐに感覚を取り戻せるんじゃないかと思いますね。 

ぼく自身、最近、いわゆるアートの世界にいることや、作家という存在であることがしっくりこないというか、作品をつくって発表するというひとつの型にはまることが、苦しくなっているんです。自分はもう、その外側にいるんじゃないか、と。 

いわゆる「作品」ではなくて、木を彫る行為そのものや、結果としてできたものが、自分や誰かのヒーリングになるなど、つながっていくことに重きを置きたい。もっと大きな意味でのアーティストのあり方を、自分自身で実践していくことになるのかなと思っています。

──AA

木と、それを彫る自分だけではなくて、その外側も含めた全部が、安藤さんの作品世界ですね。

作品を「触る」ことの可能性

安藤

最近、奈良で開催したぼくの展覧会では、作品を触っていいことにしました。床にいっぱい並べた作品に、来た人が座って、触るんです。ぼくにとっては、だんだんそういう展示が当たり前になってきているんですが、来た人たちからは、「彫刻を自由に触れる展覧会なんてないですよ」と言われて、そういえばそうだなと。 

こういうものを自由に触ることで、その彫刻が見て楽しむだけの鑑賞物ではなく、触れ合うものになり、そのことによって触れた人にも何かが起きるんじゃないかと思うんです。見た目と触った感じはぜんぜん違うと言われますね。「こんなにやわらかいんだ」と。 もちろん、落としたりして壊れてしまうのは困るのですが、特別なものであるという位置づけを手放したかったのかもしれません。作品を買ってくれた後、桐箱に入れて大事にしまい込んでくださる方もいますが、それだともう外に出てこなくなってしまいます。

──AA

作品はしまっておいても仕方ないですよね。それがその場で呼吸して、自分たちの生活や体の一部になっていくほうが、お互いに幸せだと思います。ほかの人と出会い、触れられたり抱かれたりすることでどんどん変わっていく。そういうありようも含めて、作品なのかもしれません。 

本当は人間って、ものや人が放つオーラのようなものをセンシングする能力に長けていると思います。でもその感覚をどんどん封じられて、ラップで包まれたようにして生きているけれど、安藤さんの作品展ではそれが解放される。「手は第3の脳」と言われたりもしますし、「触る」という行為は体感の中でもすごく大事だと思います。触ることで、つくった人の感覚に近づくこともできますよね。美術館でも、この線から入っちゃいけないなど、今まで制限されてきたからこそ、芸術作品を「触る」ことの可能性は大いに考える余地がありそうですね。

安藤

人は本来そうやって体感し、情報を得ていたはずですよね。にもかかわらず、言葉やデータとしての情報をキャッチすることで、世界を理解しようとしているのが現代です。 江戸時代の遊行僧だった円空や木喰が、子どもたちが遊ぶためにつくった仏像があります。子どもたちがそれに乗って斜面を滑り下りたり、川遊びをするときは浮かべてつかまったり、しまいには川から上がって寒いからと火をつけたらしく、燃えた跡さえあるのですが、そのありようがすごくいい。そのくらい手放されているものって、本当にいいですよね。

──AA

そういうものを美しいと思いたいですね。

  • 広葉樹に特徴的なウロ。成長の途中で枝が折れたり、キツツキなどが穴を開けることで、樹皮がはがれ中が腐ることで空洞ができる。そのような樹木の歴史が作品に深みを持たせていく。

安藤

そういった美しさを感じているから、自分の作品に対しても「自由に持ってみてください」という気持ちになっているのかもしれません。 つくったものが増えてきたなかで、年齢を重ねて死期が近づくことも意識すると、あまり残しても難だなと思うわけです。4トントラックに全部積んで、どこかのキャンプ場に持っていき、お焚き上げをしてスピリットを天に返そうかなと思ったり。震災のときに作品がすべて流された経験も関係しているかもしれませんが、執着がないのでしょうね。 

それに、この世を去るときに自分が持っていけるのは、彫ったときの衝撃や、木と一体になったときのよろこび、そういった感覚だけだと思うんですね。いくらつくっても、作家に残る財産はそれだけです。つくったものだっていつかはなくなるし、人類が生きてる間、これは残しておこうよと思われるものは必然的に残るとしても、それも必要とされている間だけのこと。自分にとって制作という行為は、そのくらいのスパンというか、大きい時空の中での位置づけになっているかもしれません。 

こういうことを子どもたちにも伝えていけるかというと、難しいですよね。ただ木を彫って、工作的な何かをつくりましょうというようなワークショップは、ぼくにはもうできなくなってしまいました。

──AA

でも、学年が低い子どもたちほど、安藤さんが伝えたいことを直感できるような気がします。学年が上がると、いろいろなことが細分化されているので難しいかもしれませんが、それも元は大人の責任です。子どもたちが最初は全体として捉えていたことを、大人が切り刻んでセパレートしていってしまう。それもある程度は必要なのかもしれませんが、本当は全体であるということを、つねに大人が尊ばないと、切り刻まれて霧散してしまいます。 

子どもたちに対しても、あなたは全体であり、そのままでいいんだよと伝えることは大事なメッセージだと思います。そのとき、自分でつくったこと自体を大事にしてくださいと伝えると同時に、作品もまたその人自体だと思うので、やはり尊ばないといけないと思います。それは成績をつけたり評価することではなくて、つくったこと自体をその人として、大事にする形であってほしいですね。

安藤

それと同時に今気になることとして、あるときから日本でも、やけに「オリジナル」ということが言われるようになりましたよね。あれが、つくることを縛ってしまうというか、逆に何も出てこなくさせているような気がします。ぼくもそれを言われると、すごく苦しくなるんですよ。

  • 握り拳のような造形。指のような形をつくるつもりがなくても、樹木との応答を重ねていく中でこのような形が出来上がってくるという。 安藤榮作「宇宙の果実」クス2024年 会場:gallery neo_ /Sunshu
  • 東日本大震災で津波による流出をまぬがれた数少ない作品。原発事故が起こり、住んで いたいわき市から突然離れざるを得なくなった安藤さんは、以来自分の中で、二つの時 計がまわっているという。あの日で止まった時計と今の時計と。 安藤榮作「思う人」エンジュ1997年(部分) 会場:gallery neo_ /Sunshu

──AA

オリジナルなんて、そもそもあり得ないですよね。あらゆるものを見て生きてきているわけだから、自分がゼロから生み出したものなどないでしょう。独創性と言っても、あらゆるものの総体として出てきたものです。

安藤

そんななかで、オリジナルとアイデンティティが結びついてしまうと、ものすごく苦しくなってしまう。本来は考える必要がないことではないかと思うんです。

──AA

つくることを、安藤さんがおっしゃったような大きな時空で考えられたら、そういったものからも自由になれますね。