曽我英子(そが・えいこ)
東京都生まれ。イギリス在住。ロンドン芸術大学チェルシーカレッジ、ロンドン大学スレードスクール大学院で修士修了、オックスフォード大学ラスキンスクールオブアートにて博士課程を修了。2016年より北海道でフィールドワークを行い、アイヌのものづくりや食を、そこに生きる人々との交流を通して学び、映像や写真、インスタレーション作品として発表。現在、子育てと並行して、アーティストの視点から、どの様に地球環境と共に社会環境の事を考えることが可能であるかを探求しながら活動を続ける。
研究対象として見るのではなく 友達になることから始まる
──AA
曽我さんがアイヌの人たちやその暮らしに関心を持ったきっかけは、安藤ウメ子*さんのウポポ(輪唱)の音楽だったそうですね。
*北海道帯広地方1960年に仲間とともにウポポ保存会を結成し、伝統的な歌や踊りの保存活動に努める。ウポポ(歌)とムックリ(口琴)の名手として知られる。2004年没。
曽我
大学生のときに、友人から安藤ウメ子さんのCDをもらい、ずっと聞いていました。音楽の趣味が変わっても、ウメ子さんのCDだけはずっと好きでした。
ロンドン大学の大学院を卒業したときに、担当教員から「アイヌの音楽を聞いているならアイヌ文化や歴史をちゃんと知らなくてはいけない」と言われました。そのときまで、私はなぜこの音楽が心地がいいのか、なぜアイヌ語で内容もわからないのに魅了されているのかというところまでは考えていなかったので、彼の言葉に触発されて3ヶ月間北海道を旅しました。
──AA
大学卒業の際に賞を受賞して、その賞金で旅をされたのですよね。
曽我
はい。3000ポンドを興味のあることに自由に使っていいという賞だったので、北海道に行きたいとプレゼンテーションをし、行かせてもらえました。
──AA
賞の対価としての作品やなんらかの成果が求められているのではなく、自由に使っていいとはすごいことですね。
曽我
そうですね。最後に作品をつくるという制約もなかったので、興味のままに探求し、自然とつくりたい気持ちも湧いてきました。もし最初から作品をつくることが決まっていたら、緊張してしまい、いろいろなものの見方が不自然になったかもしれません。
──AA
3ヶ月間、どのような旅をされたのでしょうか。
曽我
最初は美術館や博物館、図書館を巡り、自分なりに勉強しているうちに友達ができて、アイヌの方を紹介してもらったり、アイヌの女性バンド、マレウレウのライブに行き、メンバーのマユンキキさんと交流を持つようになりました。
ただ、踏み込んでいけばいくほど、「あなたは和人なのに何でアイヌのことに興味があるの」と質問をされました。和人と呼ばれるのが初めてだったので驚きました。「どういう意味を込めて聞かれたのだろう?」ということが、日本とアイヌの歴史を辿るきっかけとなりました。他にも「なぜだろう」と思うことがすごく多かったですね。知らないことがたくさんあるのだと気付かされて、もっと知りたくなるということが未だに続いています。
──AA
曽我さんは10代の頃からイギリスで生活されていて、アイヌの文化に触れる機会もなかったと思いますが、初めての文化に触れるときに、友達という関係づくりから始められるところが面白いですね。
曽我
友達になることがすごく大切ですね。フィールドワークでも研究対象として見ることはありません。人や自然、生き物、場所や建物でもそうですが、目の前にあるものを大切にしたいし、仲の良い人のことだから、一緒になって真剣に喜んだり、心配したりもできます。
音楽や匂いに導かれ、 体験が発酵するのを待ち、 自然な関係性が生まれていく
──AA
その旅で制作されたのが、『秋鮭』という映像作品ですね。
曽我
ええ、でもできるまでに、2年かかりました。最初の旅が2015年で、二風谷という町で鮭の着物に出会い、その製作者の萱野れい子さんにお話を聞き、さらに民宿を経営されていた貝澤かつえさんに出会い、アイヌ刺繍を教えてもらう約束をしました。翌年、再び訪れて、3ヶ月ぐらい泊まりながらアイヌの着物づくりを教わりました。映像は、その後2017年に制作したものです。
──AA
『秋鮭』を拝見し、とても面白かったです。鮭を捌く様子を定点で撮影されていますが、内蔵や鱗のような通常映像では汚れとして省かれてしまうようなものが全部写り込んでいましたね。映像は匂いを伝えられないと思いますが、ハエが飛んでくることで、匂いがあるのだとわかりましたし、感覚的な捉え方がすごく面白かったです。
曽我
ありがとうございます。私の作品は、音楽や匂いがきっかけになることが多いんですね。鮭に興味を持ち始めたのも、二風谷を旅していたときに、突然すごい鮭臭がしたからなんです。この鮭の匂いはどこから来るのかと思い、匂いのする方を探っていくと、川にたどり着きました。そこで、産卵をして死んでしまった鮭と最後の生命力を振り絞ってゆっくり泳いでいる鮭と、生と死の両方をみるような風景に出くわして。それから鮭に呪われた(取り憑かれた)ようになりました。鮭がどうやって一生を過ごすのか。どうやって私達の食卓に並んでるのか。どうして鮭はアイヌの人たちの大切な食料だったのに、今は鮭*1を川で獲れない状況にあるのか。社会状況や政治的なことに興味を持つようになったきっかけが、鮭の匂いでした。
曽我英子『秋鮭』2017年 デジタル映像 18分54秒
──AA
私も鮭が遡上する川を訪れたことがありますが、すごい匂いですよね。おそらく死骸が分解していく匂いだと思いますが、おっしゃる通り生と死が隣合わせにあると感じました。
ところで、作品が出来上がるまでに何度も現地に足を運び、時間をかけたのはなぜなのですか?
曽我
そうですね。やっぱり出会った方との関係を大切にしたいという気持ちがあって、例えば私がカメラを持って、相手の顔にレンズを向けても気にしないぐらいの関係になりたいし、ならないと作品にするのは失礼かなという気持ちがいつもあります。そうすると、時間がかかってしまうんですね。
──AA
秋鮭の場合は、映像として見ると、台の上に鮭があるだけですが、鮭皮のブーツのつくり方を習得する時間が傍らにあるわけですよね。
曽我
そうですね。鮭の靴づくりを習うにも、当たり前ですが最初はよそ者なのでそんな簡単に教えてくれません。どうして教えてもらえないのかをちゃんと知ることが、私の中ではとても大切な体験でした。
──AA
なぜ教えてもらえないのかを、どのように理解されて、作品をつくられていったのですか。
曽我
例えば二風谷にいると、国内外から研究者の方が来るんですよね。よくアイヌの皆さんがおっしゃっていたのが、「外から来てくれるのは嬉しいけど、ここで教えたことがその後どうなったのかを見る機会は、ほぼない」と。そういう声を聞くと、簡単に教えたくないのは、歴史上の理由だけではなく今も続いているからこそ、教えたくないのだなと理解できました。
ですから、私も交流を続けながら作品にすべきかどうかを考えました。そうこうしているうちに、やっぱりこれは大切なことで、どうしても他の人と共有したいという思いが芽生えてきたので、イギリスに戻ってから、記憶を辿りながらつくりました。ワンテイクで撮影したので、やり直しがきかず、だんだんつくっていくうちに、当時履いていたコンバースの靴のようになってしまいましたが。
──AA
制作をするときは、テーマが芽生えてくるまで待つということを意識されてるのでしょうか。
曽我
そうですね。時間が経ってから何度も思い出せるようになる頃が、身に付いたときだと思っています。経験したことも人に聞いたお話も自分の身体の一部になったときに制作できるのだと。それは、食べ物が発酵するような感じに似ていると思います。
──AA
知覚の過程を発酵に例えるのが面白いですね。そのように身体化することで、例えばアイヌの人との関わり方で変化はありましたか。
曽我
いろんなものが身に付いてくると、「この人だったらまあ、いいか」と思ってもらえる雰囲気になってきました。「これ撮っていいですか」と聞くと、「もう訊かなくていいから撮っていいよ」と。そのぐらいになってくると、私も落ち着いて制作について考えることができるようになりました。
仮説ではなく、愛着をもって 対象に近づいていく
──AA
様似町に住む熊谷カネさんとの山菜採りの映像もそのようにつくられたものなのでしょうか。山菜採りの作品には、人と森との関係がシームレスに表現されていると感じました。森と私という二項対立的な関係性ではなく、森の中に私がいるというような。あのような映像に至る曽我さんの道筋が気になってしまいましたが、カネさんとはどういう形で出会われたんですか。
曽我
ちょうど博士課程が始まった頃、アイヌの女性の話を聞きたくて北海道を旅していたときにカネさんというすごく素敵な人がいるからと紹介していただき、翌年カネさんの住んでいる様似町を訪ねました。また匂いの話になりますが、様似は日高昆布の町なので海岸は昆布だらけで、昆布臭がすごくて、「なんだ、これは」となりました。
カネさんにお会いしたら、本当に素敵な方でした。出会ってすぐにそう思うのは図々しいかもしれませんが、将来こんなおばあちゃんになりたいと思いましたし、2、3日過ごしているうちに、何か一緒につくりましょうという話になりました。 カネさんは随分長くアイヌ語や伝統的な着物づくりの活動をされてきた方ですが、そのときに聞いたのは、亡くなったお母さんのアイヌ料理を形に残したいというお話でした。私は、自分が役にたてるならと言って、翌年の2020年から21年にかけて9ヶ月滞在して、四季折々のアイヌ料理を学びました。本来はこの期間に映像の撮影をする予定だったのですが、コロナの流行時期と重なり、仲間を町に呼べなかったので、写真集を制作しました。その後、2023年にまた短期間訪れて、そのときにやっと映像を撮影しました。一緒に山菜を採り、料理をするまでの様子を撮影しましたね。そのときちょうど私が妊娠していたので、おなかの赤ちゃんに初めての山菜を食べさせようという流れもありました。
アイヌ民具も収蔵するピットリバーズ博物館(オックスフォード大学内)で 2021年に行われた『秋鮭』のインスタレーション。
──AA
映像には妊娠中のおなかが挿入されていましたね。カネさんとの交流を通して、さまざまなことを感じられたと思いますが、もっとも表現したかったことは何ですか?
曽我
カネさんからは、自然の声をちゃんと聞いて行動するということをとても学んだと思います。山菜の知識も栄養も、全部自然と深く結びついて循環していると。そういう感覚を表したいと思いました。また、私とカネさんがアイデンティティーやバックグラウンドを超えて、知識も自然の恵みも自然な形で共有ができ、おなかのあかちゃんにもシェアできたことを記憶しておきたかったんですね。遥か昔の記憶として息子のどこかに残るといいなと。
──AA
お話を聞きながら、知覚の回路ということを考えていました。曽我さんが博士過程でやってきたことは、仮説から入るような研究者のセオリーに即したことではなく、人と相対したり、匂いにリアルに導かれるような、自分の身体全体で感じ取ることですよね。また、作品ができるまでに距離や時間を置き、もう一度訪れてみるといったように、その道筋はリニア(直線的)ではありません。だからなのか、その時々の気づきがすごく生き生きした感覚として伝わってくるように思うんです。
曽我
おっしゃるように私の制作の道筋はリニアではなくて、つねにぐるぐるしています。ですから、研究を申請するためのアプリケーションを出すときが一番難しい。それこそ仮説を立てて、どういう方法で研究するのか、書かなければいけないのですが、仮説もないし、方法もわからないことが多いです。
そもそもフィールドワークは、誰に出会うか、季節や天気によっても変わるので、仮説を立てたとしても、その通りにできないですし、逆になぜ仮説や方法論を最初に設定することが当たり前になったのかと思いますね。
──AA
曽我さんの対象への近づき方は、愛着を持つという感覚が近く、それによって、おのずと導かれていく。それは、作品という目的ありきの制作とはちょっと違うように思いますね。
曽我英子『熊谷カネさんとポンコンブと下ごしらえ』2021年 料理記録映像
曽我
そうかもしれません。「私はこれを目的として研究しています」となると、仮説が正しいと立証するような研究方法になってしまったり、あるものも見えなくなる恐れがあります。それはどこか不自然で、自分にとってあまり面白いことではありません。反対に、自分が愛着をもち、面白いと思ったことは、自然と共有したいと思うようになります。私の場合、作品はその延長にあるものなんですよね。
アーティストは偏見や常識を 超えていける存在
──AA
曽我さんがアイヌの方たちとの交流を通してテーマとして見出したことは、自然と人間との関係性と言えるでしょうか。
曽我
そうですね。アイヌにおける自然と人間の関係性は、さらに言えば、人間が人間以外の存在と平等であることだと思います。カネさんは、常に人以外の生き物と対話をします。生き物だけでなく、物やさらには名前自体にも語りかけます。料理しているときはなおさらで、カネさんが話しかけてくるから「何ですか?」と聞いたら「曽我ちゃんじゃないよ」と笑ってましたが、話している相手は鮭を切っていた包丁でした。またある日、カネさんと私で、あるシェフの苗字を思い出せずにいたところ、カネさんがその人の名前が載った資料を探しはじめました。すると資料も出てこないので、カネさんは、「〇〇さん、出てきたくないの?」と言いながら部屋の中を探し歩いていました。こう言うと、カネさんが一風変わった人の様に聞こえるかもしれませんが、その場にいるといたって普通で気持ちが和みました。
日々カネさんと過ごしていると、一見ささいな声がけや対話が、人間以外の存在を意識し、それらと丁寧につき合うことにつながっているように見受けられ、とても大切に思えました。
──AA
カネさんとの交流を経て、今はどんなことに関心を持っているのでしょうか。
曽我
カネさんと活動したことによって、今は土の大切さを感じています。土=健康というのでしょうか。土が健康じゃないと健康な野菜も育たないし、人が住む環境も健やかにならないと感じていて。そんな矢先に妊娠をしたんですね。すると、産婦人科でもらったパンフレットに、妊娠をしたら土を食べたくなる人がいるけど、食べないようにということが書いてあり、「え!?」と思いました。
なぜそんなことが書いてあるのかと思って調べると、例えばインドネシアなどでは、今でも妊婦さんが妊娠時に必要な栄養をとるためにビタミン剤的な感じで土を口にする文化が残っているみたいで、アフリカやアジアでも土を食べる風習や地域があることがわかりました。昔はそういう文化に対して、「土を食べるなんて動物的で汚いからやめよう」という西洋医学の偏見があり、それと同時に土が汚染されてきて、土食は危険だという認識になったようなんです。
でも、それなら、汚染が許される社会でなく土を健康に戻すほうが大切だと思いました。今ちょうど息子が口に何でも入れる時期だということも大きいのですが、子どもが土を口に入れて食べてもいいような公園や遊び場、植物があるような自然な場所をつくりたいと思い、新しいプロジェクトとして、健康な土とは何かを考えたり、子どもも遊べる場をつくる実験をしようかと考えています。
曽我英子 『山菜探し』 2021年 Cプリント 曽我英子 『ハックリの根』 2021年 Cプリント
──AA
面白いですね。今のお話も先ほどの森と人の関係と似ていて、その土地の山菜を食べて、私たちの身体ができているのだとしたら、土を食べるのも自然なことかもしれませんよね。でも、人間は土を食べたりはしないものだというふうに思ってしまったら、その意識が更新されることなく、みんなもそうだねというふうになってしまいます。そういった偏見に対して、アーティストならアクションを起こしていけるのだとも思います。
曽我
アートの良さは、セオリーに従わなくてもよいところですね。なるほどと思うような参考になるセオリーがある中で、さまざまな事柄に疑問を持ちながら変化球をなげてくるアーティストは、変わった人に思われることもありますが、アーティストだからこそ違う考え、視点を持っているのだし、それを楽しんでもらいたいとも思います。