●REBORNプロジェクト、坂本展会場の様子

 前回は一昨年の令和2年7月豪雨災害で被災した水損ネガのレスキュー作業から始まったREBORNプロジェクトについての概要についてお話ししました。また、今年、坂本現地での展示が開催でき、その会場がすごく楽しかったので、その場の空気も知ってもらえたらなと思って会場を歩きながら案内させていただきました。
 今回の展示は、ただ展示するだけではなく、来場された皆さんからの聞き取りも行いました。そしてその聞き取りからわかったことをもとに、実際に撮影された場所に行って、今と撮影時の違いを調べたり、人を訪ねたりするというフィールドワークの要素もありました。
今回はREBORNプロジェクト、坂本展のその後、この1カ月間のことを報告したいと思います。
 REBORNプロジェクト坂本展は1月の2~4週目の週末に、坂本町の道の駅の駐車場にできた復興商店街の空きスペースを利用して開催しました。ちょうどこの時期、コロナが徐々に増えてきたタイミングではあったのですが、地元の方々の口コミなどで情報が広がっていきました。メディアの協力もあって。坂本町には町のことだけを放送するケーブルテレビ局があって、そこで放映されたことによって300人ぐらいの方々にご来場いただけました。
 復興商店街とか復興といっても、今の坂本町は、まだまだ復興とはほど遠く、今は人がいなくなっている状態で、町の風景もどんどん変わっている現実があります。今回の展示は楽しく、人のつながりが増えたのですが、一方でそのときだけ盛り上がるイベントではなくて、ずっと誰かが寄って語れるような継続した場所が必要なのではないかと会場にいて思うようになりました。今回のことをきっかけに、私はつながりができた人や場所を広げて何かしら継続していきたいと思っています。
 これが会場の雰囲気です。

 坂本出身で近くの都市部に移り住まれた方が来場者に多かったのですが、会場でたまたま会った人同士が実は遠い知り合いだったり、親戚同士で久しぶりにばったり出会ったりという場面もありました。そんなところから話が盛り上がっていって。見ているこちらまでほほ笑ましいというか、全然知らない人たちなのに「なるほど」と言って話に混ざっていきたくなるような雰囲気があって、とても楽しめました。

 この右下の写真は、最終日に撤収をお手伝いしてくださった方たちとの集合写真です。レスキュー作業自体も、展示も私一人ではできなかったのでSNSで加勢を呼び掛けて留守番、設営、撤収など、みんなに手伝っていただきました。
 打ち上げがまだできていない状態なので、春以降、様子を見て計画していきたいと思います。打ち上げとは言っていますが、来る者は拒まず去る者も追わず、交流会的な感じでできればと思うので、展示に関わらなかった人たちでも、興味を持ってくれた人にどんどん関わっていただきたいなと思います。位置関係上、難しいとは思うんですけど、ぜひ参加希望の方は遊びに来てください。

●来場者からの聞き取りをして
 これが展示中にした聞き取りです。付箋に書いて貼っています。[fig.②]当初は来場者に書いていただこうと思ったのですが、おじいちゃん、おばあちゃんに書いてくださいというのは難しい気もして。おじいちゃん、おばあちゃんたちは、手が弱っていたりして字が書きづらかったりすると思うんですね。以前、水俣病のことをほかの山間部で聞いていたときに、申請を拒む理由の中に、実は本人たちは字の読み書きができなかったり難しかったりしたので、対応ができなかったという話がありました。
 今はほとんどの方が読み書きができると思うので、そこに実感がある方は少ないのかなと思うんですが、戦中・戦後は学校に行くことすら貴重な時代で生きた人たちは勉強どころではなくて、日々、生きることだけで必死だったと思います。これは坂本集落や黒岩地区に限ったことではなくて、私が個人的に取り組みたいと思っている被差別部落の問題でも識字運動がありました。それから数年前にカンボジアに行った時、「今どきGoogle翻訳があるから大丈夫なんじゃない?」なんてみんなに言われたことがあって、撮影の交渉をするときに実際にGoogle翻訳を使って話したんですけど、私と同年代でも識字率はさほど高くないのかなということがあって。近くに識字運動をした人もいて、そのことを個人的に今後は調べていきたいなと思っているところです。
 そんなことで話を聞いたメンバーが、付箋に書いて貼っていくことにしました。人、場所、そのときの情景など聞いたことを、どんどん書いていきました。いろいろな情報が集まり、その後1カ月の間で分かったこともあるので、そのことについて今日はお話ししていきたいと思います。

●坂本町の地理感覚

 まずはこれが簡単な坂本の地図です。町といってもかなり広いです。ドネーションブックは川の暮らしに焦点を当てたものなので球磨川近辺のことを取り上げていますが、球磨川に注ぐ支流がいくつもあるし山も深く、一言で坂本町といっても地域の様子は結構違います。水俣に引っ越してきたときにすごく驚いたことがあって。私の住んでいるところは水俣市の最南端で市街地まで5kmぐらいの場所にあります。私からしたら車で5分ぐらいで着くようなすぐそこなんですけど、地元の人と話すと、山を越えた場所のことを話しているんじゃないかと思うぐらい、すごく遠くのことのような感覚で話していることが印象的です。坂本も同じで、例えば地図の中に坂本という集落があって、中津道という下のほうに集落があると、別の県なのではないかと思うぐらいの感覚で話をされることが、すごく印象的です。

 今回展示した写真は、もともと地元アマチュア・カメラマン、故・東儀一郎氏、本村孝夫氏らが撮影したもので、昭和20年代後半~平成初期までの旧坂本村などの様子が写し出されています。同町でラフティング会社「Reborn」を営むリバーガイド・溝口隼平さんが資料として譲り受け、整理・保管してきました。それが令和2年7月豪雨で水没してしまったんですね。
 撮影者のお二人のお住まいはそれぞれ丸印の場所で、右上の坂本という位置に東儀一郎さんという方の生家があり、本村さんはその左の破木という集落にありました。東さんに関しては、ドネーションブック作成の後に息子さんから連絡があって、その後も連絡を取り合っていて、今後ご自宅にある写真を提供していただけることになりました。
 本村さんの家は「破」れるに「木」と書いて破木集落ですが、ここは大きな地名というよりは字(アザ)のような感じなので地図には載っていません。坂本の方たちは、こちらを破れ破木、その対岸にある葉っぱの「葉」で書いてある「葉木」を葉っぱ葉木、どちらもハギなのですがそういう地名の使い分け方をしています。

●聞き取りから分かった人たちのこと
 ここから実際に分かった人たちの紹介をしたいと思います。1人目は、以前、村長をされていた方で、現在も同じ地区に在住です。撮影者の本村考夫さんのことを聞いたら、同級生で同じ学校に行っていた。撮影時はおそらく役場に勤めていた頃で、この後、村長になると思うということでした。ただ撮影された記憶がなくて、ある程度の年月日が分かれば付けていた日記からいろいろ調べてみたいということだったので、分かった時点で教えていただく予定です。2人目の方は、おそらく現在90才の方。お住まいの場所わかったのですが、まだお会いできていません。今度会ってみたいなと思います。3組目は親子です。職業として鮎釣りをされていて、かつてあった友恵屋旅館に釣った魚を納めていたみたいです。撮影年月日はおそらく昭和60年代だろうという話ですが、それだと旅館は解体されていて写っていないはずなんですね。つじつまが合わない部分があるので、ちょっとずつ調べていきたいなと思います。息子さんがご存命でおられるということだったので、あらためて伺おうと思っています。

●聞き取りから分かった場所のこと─過去と現在
 次は場所の比較です。
 左側がドネーションブックに載せたときの写真で、右側が現在。先日、おそらくここから撮っただろうという場所から撮ったものです。左は坂本地区に製糸工場があった時代、一番栄えた場所でした。カラー写真になるとさすがに時代も最近に近いというか昭和60年代なので、来てくださったどなたにも記憶に残っている方が多くて、一番聞き取りの付箋が多かった場所でもありました。

 これが付箋です。新開地区というのですが、「新開がつからないと梅雨があけない」という『村史』にも載っている言葉です。あとは生協の匂いをかぐたびに都会に来たなと思ったという対岸の方の言葉だったり、新開が一番につかるので最初にかさあげがおこなわれたとか、民家の2階ぐらいまでかさあげをしたのでここは移転したんだと教えてくださる方もいました。

 現在の写真に戻るのですが、おそらく赤の点線部分から上がかさあげしているところになるので、証言の中に5.5mぐらいかさあげしたところと言っていたのが、この部分にあたるのかなと思います。手前の右下の私が立っているところが、撮影者の東儀一郎氏が立ったんだろうなというところです。
 この時点で5.5m近くかさあげされているということなんですけど、今回もこの辺はさらにかさあげされることになったみたいで、それがどの程度かはまだ分からないのですが、かさ上げばかりが最善の策なんだろうかと個人的にここを見ながら思うこともありました。ほかにもかさあげ予定地で、さら地になっていく地域が多くて、毎回行くたびに人けが少なくなって少しずつ変わっていく景色が切ない部分でもあります。

 次がこの写真です。どちらも同じ、稚児さん行列という行事の日です。ここはくま川ワイワイパークといって大きな公園になっています。何となくここに立っていたんだろうなという予想で、山や地形の形だったりカメラの画角を調整して少しずつ位置を変えながら探っていったんですけど、撮影者の見えない足跡を追っていくようなところがおもしろく感じました。
 この付箋には、「潜水橋(水がでたときは沈む)と呼んでいました」と書いてあります。坂本町に、潜水橋は2カ所あっただろうという話で、そのうちの1カ所ですがダムが撤去されたときに一緒に撤去されているので、今は右の写真の手前コンクリートのところから対岸に続いていただろうと予測される場所です。左の写真もコンクリートで造られてはいるのですが、それよりももっと昔は大きな石ころを積んだだけの橋で大雨が降ると橋も流されていくので、毎回、石を積み替えていたんだよというお話が印象的でした。

 これはちょっと画角が違うのですが、船渡しで対岸から手前にある駅に渡ってくる女性の写真です。[fig.⑨]これはその後、本人が分かりドネーションブックには通勤する様子と書いていたのですが、実際には田上小学校の閉校式に向かうときだったというお話を伺っています。この写真の袋には昭和61年4月30日とあったのでそう書いたのですが、おそらく現像に出した日だったのかなというのと、閉校式といっても実際に田上小学校を含め坂本にあった八つの小学校は2003年に八竜小学校として一つに合併されているので、その閉校式ではなく昭和60年代に旧校舎が新校舎になったタイミングでの閉校式だったのかなという、まだ曖昧なところがあるのでもう少し調べていく必要があると思います。この写真の方は私が当初からいろいろ相談させてもらっている坂本の方の友達のお母さんだったということで、お父さんも展示に来てくださっていたようです。私のタイミングが合わずにお話しできなかったこともあって、まだ分からない部分もあらためてお話を伺いたいと思っています。

 これは友恵屋旅館にあったとされる祠です。今は場所を変えてあるそうなんですが、この辺は水源があったといわれていて、その水源のおかげで水害の復旧も早かったというお話がありました。でも私が実際にここを訪ねたときには水源が分かりづらかったので聞き込みをしたら、裏山の中に水源があったかもしれないという話があったりとか、そこにお地蔵様をまつっていたのだよという話を聞けたので、もう少しここも深めていく必要を感じました。

 熊本は割と水源地があって、私が住んでいる水俣の袋も海のすぐ近くに水源があるんですけど、ところどころ水が出ています。熊本地震のときにも熊本らしいなと思ったのは、水道や電気が止まったりすると情報がSNS上で拡散されると思うんですが、その中にうちは水が出ていますみたいな情報が結構あって、水は豊富だと思います。そんなところが熊本らしいなと思いました。ちょうど右の写真の裏手が小さな山になっています。おそらくそこは神社から上がれるだろうという話で、その中にあるんじゃないかということだったので、まだ臆測の部分ですがそこは調べてみたいと思っています。

 友恵屋旅館は、現在はなくて、おそらくこの2軒分のところにあったとされています。真ん中にあるのが今現在、祠が移動された場所ですが、これも昔の写真を見て旅館の写真が出てこないかなと思っているところです。

 これも撮影場所を特定しました。川に浸かっている写真は個人的に印象深くてすごく好きな写真でもあるんですけど、この写真からここの位置でこのぐらいで撮ったんだろうなという場所です。この前初めてこの川のすぐそばまで下りていきました。今は、簡単に下りられるような場所ではなくて、コンクリートで固められたような壁を上り下りしないといけなかったんですが、20~30m上に集落が見えるような土地です。この頃は川と人の暮らしがすごく近かったのですが、今は切り離されたというか人と川はまったく別々に生存しているんだなということを、川に下りながら思いました。

 これも場所時代は同じですが、おそらくここから撮っただろうというところです。背景の左のほうに見える家が、この船頭さんのおうちだっただろうというところです。今の写真の左中央にV字になっている石畳の坂があって。おそらくこの上に家が建っているのだろうなと。展示を見に来た、静かなご姉妹がいて、その方がとつとつと「この家が船頭さんの家で、その横に私たちの家があったんですよ」なんて話をされていたんですね。ちょっと切れてしまって写ってはいないんだけど、船頭さんのところに道があったからここを通って遊びに行ったりしていてというお話をされていたのが、印象深かったんです。
 ダムが撤去されてかさが下がったときに、私たちの家の土台が出てきたの、とその方たちがおっしゃっていました。あれば土台を見てみたいなと思い、対岸に渡って見に行きました。
 これがおそらく土台だろうなと。これはさっき見た坂のちょうど左ぐらいの位置にあった土台で、こんなに狭いところに住んでいたのだろうなと姉妹の方がおっしゃったんですけど、本当に一間、二間ぐらいの小さなおうちかなという印象でした。
 土台と聞いて足の高さぐらいのものを私は想像していたのですが、この土台自体は身長よりも随分高い2mぐらいありそうな土台でした。それで、川岸にあって昔から大水が来ていたからこういう造りをしていたのかなと思っていたんですけど、この周辺の家もやはり同じような土台が出てきていて高さが気になりました。それが何かなと歩いていたら、すぐ脇に、1階部分がおそらくぜんぶ倉庫になっていて、玄関口が2階にあたるような高さにある家を見つけました。おそらくこういう家の造りをしていたんじゃないかと思います。この地区に建築に詳しい方がいるらしく、一回訪ねてみたいなと思ったところでした。

 これが引いたところですが、右側のちょっと切れているところが破れ破木という本村さんがいた地区で、左側がさっき見ていた土台があった地域です。下のさっき土台の坂を上がった辺りにうっすらと道のようなものが見え、ここがかさ上げ前の住宅があった高さだろうなと推測しています。
 今回はこんな感じで、場所と人が分かったところをできるだけたどっていきました。今後、坂本の集落の人に会っていくと数珠つなぎにどんどん分かっていくと思います。少しずつではあるのですが、通いながら深めていきたいと思っています。以上、今回は坂本町を実際に歩いてみたことをおまとめしてお送りしました。

●参加者との意見交換

事務局│ありがとうございます。女性が2人、男性が2人で写っている写真は、私の実家にあった両親のアルバムの中に、あんな雰囲気の写真があって。今母が85歳なのですが、そんな世代の人たちですかね。すごく似た雰囲気です。

豊田│そうですね。おそらく80代後半から90代ぐらいの方。あと、さっきの4人の写真の中のうち2人がご夫婦になられているという話がありました。

事務局│生き生きとした、いい写真だなという感じがしますね。

豊田│撮影者の本村さんはどんな人だったか聞いていくと、ものすごくおとなしい方で人付き合いもそんなに広くはなく狭いほうで、あまり自分が前に出ていくようなタイプではなかったとは言うんだけども、多く人を撮っている。すごく気になったというか。やっぱりカメラを見返している人たちの柔らかい視線にも気になるところがあって、もっと人物に直接会ってみたいなと。

事務局│本村さんはお元気なんですか。

豊田│今もご存命なのですが、なかなか会うことができずにいるところがあります。

事務局│あまり人付き合いが活発でなかったけれども、写っている方々が優しいまなざしでこちらを見返しているとか、写っている方々の関係性まで反映しているような写真だとか、すごくいい写真だなと思います。不思議なのか、逆に納得できるのかよく分からないけど、人付き合いが活発じゃなかったということが逆にいいなと私は思いました。風景の変遷を見ていくのはつらいところもあったり、面白いところもあったり複雑ですけれども。

瀧本│写真を見ていて、沈下橋とかも昔から水害と一緒に暮らしていたというか。前回の豊田さんのお話でも、昔は川がすごく近かったという話をされていたと聞きましたが、川のそばを歩く子どもたちの姿とか幸せそうで。今は高くなって安全にはなったのかもしれないけど、大きなものをなくしたような気持ちになりましたね。

事務局│付箋に書かれていましたが、1年に1回は水をかぶっていたということですか。

豊田│そうですね。お水が来ていたので、土台の写真も、水が来たときのために2階部分に玄関があったのかなと思ったり。年1回浸かるとされていた部分のおうちに一回上がらせてもらったときに、昔は土間があって土間から一段上がったところに部屋があったと思うのですが、土間の部分がすごく高くなっていたのが印象的でした。身長分ぐらいまではいかないかもしれないけど、そのぐらいは高くなっていて、それがなぜかというと毎年浸かるから上げていたんだという話がありました。なので水害の前には大水とか洪水という呼ばれ方をしていたところは、そういう違いがあるんでしょうけど、昔からあふれていたんだと思います。
 あふれていたときに、濁流のすぐ横の岩の陰の、水の流れが止まるところに魚は逃げていくんですよね。そこを網ですくうと魚が、一気にバケツ1杯ぐらい捕れちゃうわけです。それを濁りすくいといって、今回の水害でもまさかのまさかで本当にすくいに行っている人がいたという話があったりとか、まさかこんなときまでいるのかと思いながら。複雑ですごく危なっかしいんだけど、でもやっぱり魚は捕りに行っちゃうんだという、その景色を見てしまったときにふと笑ってしまう自分がいたとおっしゃっておられました。

瀧本│今のちゃんとした橋だと流されちゃったら、例えば県や国がいつ直してくれるんだろうみたいな待つ生活になっちゃうじゃないですか。でも昔だったら船頭さんがいたから流れちゃっても次の日から何とか渡れるわけですよね。そう考えると自然としなやかに付き合っていたというか、こういうもんだからしょうがないやみたいな諦めじゃないですけれども、何とかやっていくしかないみたいな、前向きな気持ちも見えてきますよね。

豊田│実際に坂本の橋は今回、ほとんどが流れてしまってなくなったんです。荒瀬ダムという撤去したダムのちょっと上に、もう一つダムがあるんですが、それがあったから今回もひどくなったんじゃないかという話はあって。ただ撤去するにも橋がないのが問題だそうです。橋を渡れなくなってしまうから、ダムが橋の役目をしているので、それでどうしてもダムがないといけないんだという話はあります。川を渡るというか、橋というのは車社会になってしまった今では大事ということを感じました。

事務局│複雑ですね。

豊田│とても複雑ですね。

参加者1│昔の写真と今の場所で、私は山の形が気になって見ていました。ここだという場所の決め方、探し方はどうされていたのでしょうか。

豊田│証言を聞いたときに、おそらくこの辺だろうと思いながら聞いているので、行ってみるとだいたい山の形が似ていたり。あとは山はどんどん重なっていくと思うんですよ。その重なり方の度合いによって、この角度だともうちょっとこちら側じゃないかなとか、かさ上げしていても道路の位置はあまり変わらない場所もあって、おそらくここからこのぐらいの画角で撮っているんだろうということですね。
 カメラの話になってしまうのですが、おそらく本村さんは二眼レフという上からのぞくタイプのカメラを使っていて。二眼レフはこれですね。[fig.⑯]

 昔の方は標準レンズ一本で、レンズの画角が固定されたカメラだろうという予想がつくので、おそらくではあるのですが、標準レンズでこのくらいの画角で撮っているなら、このカメラで撮った場合、この位置でこの角度で撮っているのかなという想像ができます。
 もう一人のカラー写真は東さんの写真ですが、難しかったのは、画角を決めるときに標準レンズだと入らないし、これだと遠いなというところがありました。少し探っていったときに、おそらくこの角度だろう、この画角だろうというところが判明できたのですが、昭和後半の方なのでカメラも二眼レフよりは多少進歩してズームレンズがあったと思うんですよ。ズームレンズで撮った場合、この画角だったら、このミリ数でこの角度が入るから、たぶんここだなというところを決めたり、そういうのをいろいろ見ていきました。

参加者1│景色だけではなくて、カメラの流れというか時代性みたいなものも加味されて、この画角というのを選びだしたんですね。

豊田│そうですね。まだきっちりとはできていないと思うんですが、そのような感じでしています。

参加者1│建物の家の構造というんですか。水が出るところだから1階部分を倉庫にしているとか、そういうのも聞いていてすごく興味深かったです。ありがとうございました。

事務局│水が出て当然みたいな、だからきっと水害の害という言い方ではないんでしょうね。水害と言っちゃうと、そこに被害があるというふうになってしまいますけれども、大水が出たよと言っているともしかしたら被害はなかったり、ラッキーといって魚を捕っている人がいるみたいな、もっと違う付き合い方があったんだろうなという感じがしますね。

豊田│『球磨川物語』という本があります。その本の中には川だけではなくて対岸に熊本の場合は天草という島が点々とあるんですけど、その島の人たちが漁に出たときにおそらく球磨川の水が出たなという合図がわかる。球磨川が流れるところは不知火海といって水俣病が起きた不知火海と一緒なんですけど、内海というか九州の真ん中にある海なので水が出ていくところが少ないんですね。なので球磨川の水が出たら対岸の人に見えて、その水によって汚れているようにも見えているけれど水の中は潤うというか、プランクトンが海に注いで循環する。だから球磨川というけれども、山もつながっているし海もつながっているので、周辺の漁師村の話も聞いていくと面白いと思いました。

事務局│そういうつながりは面白いですね。結局、山の豊かさというか、氾濫だったのかもしれないけど、大きな水が出ることによってその力で栄養分や山の腐葉土が海に運ばれて海の豊かさになっていくみたいな、きっと循環というかつながりがあったんでしょうね。たぶん漁師さんもみんな知っていたんでしょうね。山から水が出れば汚れているわけではないけれども、泥で水が濁ったりするでしょうし、どんなふうに水が動いていくのかもよく分かっていたんだろうななんて、今伺っていて思いました。護岸して、かさ上げしちゃってもったいないですよね。

豊田│今回も砂利が川底にたまって水位がどうしても上がってしまってということが考えられるので、その砂利を撤去していく作業もあります。でも、見ていてどうなんだろうかという不思議な感じと、球磨川の漁協から、工事をするのはいいけども魚の隠れ場がないだろうということで、魚のすみかになる岩を置いてほしいと要望していたみたいなんですね。私が球磨川に行ったときに、砂面にぽつんぽつんと、遠くから見れば小さい岩が置いてあるように見えたんですけど、それは工事の目印かなと思って知り合いの人に聞いたら、それが漁協の要望に応えた魚の隠れ家の対策ですとおっしゃっていて、おそらく大水が出たら一発で流れるだろうなという対策をされていて。
 工事をする人と川の暮らしをする人があまりにも交わらなさ過ぎて共有ができていないというか、その視点で考えられているのかなということは少し疑問に思った部分があって、毎回通りがてら工事を見ていても複雑なところはあります。

事務局│もうちょっと昔の人の知恵を聞いてくれればいいのにね。

豊田│そうですね。昔の人と、いまだに川で暮らす人がいるので、そういう人たちの声をしっかり聞いてくれればと思うんですけど、なかなか反映されていないのかなと思います。

事務局│このあいだテレビで古い番組の再放送を見ていたら、球磨川のもっと下流のほうの漁の話をしていました。ヤマセミという大きな鳥が、川の近くに住んでいて川で漁をしている人のところにお裾分けをもらいに来るんです。ヤマセミは網をかける場所によく止まるんですって。そうすると、漁師さんは自分たちの漁の時期が終わっても、それをヤマセミのために残しておいているんだよみたいな話が出てきていて、見ているものが本当に違ったんだろうなという感じがしました。

豊田│今回、私の目では難し過ぎて建物と人にスポットを当てた話をしました。でもドネーションブックの表紙にした岩があるんですけど、坂本の人たちから見ると、これはどこどこの岩というのがすぐにわかるんですよ。これを水位の目安にしていたりとか、ここまで来たから危ないねということを話していたりとか、毎回ここに鳥が止まるところを、ずっと写真に撮ったりしているんですね。坂本町のモヤがかかったときの風景と、岩に止まった鳥の写真が一番多くて。こういう岩だったりの形も反映されないまま、今、岩を削り取ろうとしている。私が何か言えるようなあれではないですけど、とても複雑さは感じますね。

事務局│展示から今日までのあいだで、どなたかお話を伺った方はいらっしゃるんですか。

豊田│展示されていた中の方は、まだお話はできていないんですけれども、聞き取りということでその近辺で会った人に少しずつ話を聞いています。またそこから気になる方は時間を取っていただいて、昔の話をゆっくり聞かせてもらいたいなと思っています。