●コンタクトシートとは何か

 今回は、コンタクトシートや記録の残し方についてお話ししたいと思います。今はデジタルが普及して、コンタクトシートと言っても知らない方が多いのかなと思います。デジタルカメラだと画面やPCで、その日に撮ったものをすぐに見ることができます。でも、フィルムで現像したときは反転画像なので何が写っているのか細かいところまでは分からない。写真としてどういうふうに見えているか分からないところがあるので、初めに作るのがコンタクトシートです。
 コンタクトシートを見ていくと、そこからいろいろ情報を読み取ることはできるのですが、一番の目的はまず写真に何が写っているかを確認するためのものです。

 ただ、コンタクトシートはこのサイズなので小さくてピントや表情までは分からないので、これから目星を付けて、プリントしたいなと思う画像に、ダーマトという赤いクレヨンのような鉛筆で印を付けていきます(人によって方法は異なりますので、ここで紹介するのはあくまで私個人の方法です)。
 昔であれば、手札判というカードサイズぐらいの小さめのプリントを作ったり。私は基本的に六つ切りと言ってA4に近いプリントを基準にするので、そのサイズに一回ぜんぶ焼き出してセレクトしていくのですが、そのくらいの大きさにしてやっと写真の細部がわかるように思います。写真を始めた頃は、とにかく写真を大きく伸ばしなさいとよく言われました。大きくして細部を見たときにちゃんと写真として魅力を保てるかどうか。
 今はデジタルで大判印刷も手軽で安いので、それをインスタレーションにする手法も増えているのですが、これは昔からある手法というかつくり方ですね。コンタクトそのものは粗選びの基本に必要なものなので、何度も飽きるほど見返して、自分がどんなことを見てきたか、どんなことを考えながら撮ってきたかを考えながら選ぶ作業をします。
 「撮っているときに、どんなことを考えながら撮っていますか」とたまに聞く方がおられます。どういうことを撮ろうというのを自分の中で最初に考えたりもしますが、そこに居合わせたときに今の瞬間だなとファインダーの中を見ながら考えていくのですが、正直、撮っているときはあまり記憶になくて。撮った後に「こんなものを撮ったか」ということも多いです。それをあらためて考えていく意味でもコンタクトを何回も見返しています。人によっては数年間寝かせて、撮ったことも忘れるぐらいにして新鮮な気持ちで選ぶという話も聞いたことがありますが、それぐらい写真を選ぶときに何回も見るものです。
 逆に、人のコンタクトを見ることに関して言うと、より情報が増えるように思います。写真1枚にもたくさんの言葉や情報が含まれていて、それだけでももちろん読み取れることはあるけれども、コンタクトを見ていくと時系列もそうですし、背景や対象への関わり方、考え方などいろいろ考察できることが増えます。
 コンタクトがどういうものかを今日は見ていただけたらなと思うので、『あめつちのことづて』で写真の中で選んだ写真を紹介していきたいと思います。

●コンタクトシートを見ながら
 『あめつちのことづて』というタイトルを選んだときにイメージしていた写真のコンタクトシートがこちらです。[fig.②]だいたいA4サイズの一回り大きいぐらい、写真では四つ切りと言うのですが、その大きさに焼いていきます。下まで見ていくと、36コマ分あります。撮影を始めた当初からこのイメージがすごく強くて、この田んぼでどんなふうに撮れるかなという模索をしていて。2016年にもタイトルに選んだカットと同じものを撮ったのですが、そのときは耕運機を押しているところを撮りました。
 何かしっくり来ないなと思って毎年撮りに通っていたのですが、この年は「昔はこうして代掻きをしていてね」と、昔使っていた板を出してきて引いて見せてくれて、そのときに撮った写真を選びました。
 何枚も同じようなカットで撮っているのは、フィルムの露出を変えたりして何度も撮っています。

 これは、いじわら編みの作業です。[fig.③]このときは特にこれを撮ろうと思って行ったわけではなく、いつものような感じでふらふらと歩いていると車庫の中の作業スペースで作業をしていたので、そこにお邪魔して話しながら撮っていました。同じようなカットを何回も撮っているので、どれがいいかなという。ぶれの加減、人の表情の加減、全体を入れたらいいのか、手元だけがいいのか、どういうふうに伝わるかを考えながら選んでいます。
 コンタクトは人によるのですが、すごく丁寧につくる人もいますし、とりあえず見られればというところでつくる人もいます。私はどちらかというと後者のほうで、とにかく一回見られればいいかなというところでつくっています。一番安く買える印画紙を買って、多少明るかったり暗かったりするのはあまり気にしていません。後ろのほうが暗いので見づらいかもしれないですけれども、几帳面な人はきれいに並んでいて、露出も少しずつ変えたりしているので、かなり性格が出る部分でもあります。
 それから、私の場合は一番上のところに撮った年月日とか、撮影場所、カメラとフィルムの種類、現像液と現像液の希釈する比率や何分でするということをぜんぶ書いています。169-2という番号は黒岩で撮り始めて163本目のフィルムということです。

 これは茶摘みの写真です。[fig.④]こんな感じで、撮ったのは真ん中にある右から2番目のカットです。この一連を見ていくと茶摘みをしているところから全景でどんな所で茶摘みをしているか、あとは休憩に入っていく段階を撮っていたりするので、それで時間の流れが分かったり、距離感が分かったり。あと、ポートレートを撮ると一番わかるのが人の表情の変わり方です。最初に抵抗があるなというところから、少しずつ慣れていったのかなという表情の変化とかがすごく分かっていきます。

 これがイグサの株を分ける作業ですね。。[fig.⑤]この前聞いてちょっとショックだったのですが、年齢で体がかなわないのでこの作業は去年まででやめたということでした。
 これは2016年11月に撮ったものです。もう今年からはしないということで、今思うとすごく貴重な写真を撮らせてもらったなと思います。

 これは七夕の写真です。[fig.⑥]これまでも何回か紹介したような気がします。集合写真と七夕を立てる写真。ちょっとこれも暗くて見えづらいですけれども、人の部分をこういう感じで明るめに焼いたり、空を暗く焼いたりいろいろなところがあるのですが、焼き加減とかで、作家がどういうふうな写真に仕上げたいかという、思いの部分が見えたりします。

 これは昔の話や水俣病のことを聞いて回っているときに、「手がしびれてね」という話を聞いていたときに撮った写真です。[fig.⑦]2017年のこの時期の写真を使っていることが多いのですが、この時期が一番撮影をしたり、調べたり、動いている時期だったので、道をたどっていったり、あとは1軒1軒回って水俣病に関することを話してくれる人に聞いたり。廃屋やお墓から何か写真を組み合わせることで意味が含まれないかなと思って試しているときでもあります。
 上に写っている手は「農作業で手が曲がってね」とかと話しているときで、下の写真は廃屋の画像を選んでいます。あと、フィルムなので当然、現像のときに失敗もしているので、下から2番目は露光のミスとかで色が変わっているところです。

 さっき話したように水俣病のこともですが、生活や時間の循環のことを大きく含ませたかったので、この辺は石塔とかを撮っています。コンタクトシートの画像では分かりづらいかもしれないのですが、昔の墓地や石塔の跡を撮っていて、土葬の石組みを撮っていたりします。ただ、最初は歩きながら引っ掛かったことをどんどん撮っていったりもするのですが、その後、実際にどういうものかとか、本当にこれを選ぶのが適当なことかという検討が必要だと思っています。そのときはこのお墓についてもどうしてこういう様式なのかとか、その土地に根付くものを調べていくようなところで、いつごろから火葬になったか。どうしてこういう形状をしているかを集落の人に聞いていったり、民俗資料を調べていくと出てきたりもするので、そういうことを調べていきます。

 これも山の神様の綱をよるところですが、今みたいに1枚1枚の写真の説明をすると、ただ写真でしかないんですよね。[fig.⑧]これも、ただ、しめ縄をよっている写真でしかないけれども、写真には写っているものの記録性とは別に、声を発することができるのではないかなとも思います。だから、今の写真はしめ縄を締める手にすぎないけれども、しめ縄とより合わさるというキーワード。それとおこなう数人の手の力強さのキーワードとかが組み合わさることでもっと別の言語を発せられるのではないかと思い、いろいろな組み合わせを選んだり、そういう意味で何回も何回も見て、写真をどう組んでいきたいかということを自問するときに、何回も見ることをします。

 これは山の神様のときですね。[fig.⑨]この祠が山の神様になるのですが、ここにしめ縄を掛けて、みんなでお神酒を頂きながらゆっくりする。この日はすごく霧が掛かった日でしたけれども、光が差し込んでくるのが幻想的なところもあって、毎年行ってはいるのですが、この年の写真を使うことが一番多いです。

 最後にどんどやの写真です。[fig.⑩]これもさっきの写真と同様で、どんどやと説明するとどんどやの写真でしかないのですが、まだこういった集落や以前の暮らしや人が集うところには中心に火がたかれたりして、身を寄せ合う。現代は便利なようでこうしたコミュニティーの在り方というか、そういうものが少しずつ変わっていて、いつもこういうところに行くと考えさせられます。
 コンタクトを見ると1月10日。これが初めてここで撮影した日でした。朝から御講さんという先祖供養の行事があって、それが終わった後、午後からどんどやをするのですが、このコンタクトシートの前半に写っているのが先祖供養の御講さんという行事です。そういう時間の行程としても読み取れる。写真から自由に読むことも必要ですけれども、コンタクトは撮る側も見る側ももっと明確にしてしまうところがあるので、とても貴重でもあるし、見せるときは性格もそうですし、写真の裏側もぜんぶさらけ出してしまうような、嘘をつけないところがあります。
 フィールドワーク自体は人類学の方たちと同じようなというのか、実際を知らないので分からないけれども、とにかく1週間たっただけでもこれらのことは何を話したか、どういうことがあったかという細部をぜんぶ忘れてしまうので、私は毎回何をして、誰に会って、撮影に行った日のことをすごく細かくノートに書いています。音声メモも必要なときはとっているし、もう少ししてから今度は数人で集まって昔語りをしてもらうことも考えていて、それは動画でもちゃんと残しておきたいと考えているのですが、私の場合はあくまでも写真を撮るためのメモなので。
 去年、裏側を知ってもらおうと思ってコンタクトシートや本を別に展示した機会があったのですが、そういうことでもない限りはあまり表に出すことはないのかなと思っています。

●参加者との意見交換

事務局│もしかしたらコンタクトシートが適切なサイズなのかなと聞いていて思いました。例えば1本のフィルムすべてを手札サイズに焼いてぜんぶ並べたからといって、コンタクトシートみたいな役割をするかなと言ったら、視界に入る情報の質が違ってしまうのかなとちょっと思いました。だから、コンタクトシートのサイズ感や身体感覚がもしかしたらすごく隣り合っている。だって理解しようと思ったら、手札サイズに焼いて並べることだってできるわけですよね。

豊田│そうですね。私は最初に粗選びしたら、六つ切りに焼いたり、セレクトするために小さめのサイズに焼いて窓に張り出すこともします。そうやって眺めるのもいいんですけれども、この1枚で見ると最初の流れなどがぜんぶ分かっていく。その中で選ぶときはちょっと違うなとは思います。

事務局│皆さん、いかがですか。私たちが若い頃はコンタクトシートとかがありましたけれども。

参加者1│僕も学生の頃に授業でコンタクトシートについてやっていたので、そのへんのことはよく分かっているつもりです。僕はコンタクトシートが好きなのは、あのサイズの中に自分の撮ろうと思ったことが一つコンパクトにまとまっていて、記録としていいなというのはありますね。
 作家がコンタクトシートを見せることは非常にデリケートな問題ということもすごく理解できます。有名な写真家だと写真集にコンタクトシートが載ったりすることもあるけれど、それがその写真家の死後だったりするのは、例えば小説家がラブレターを公表されるに近い恥ずかしさがもしかしたらあるのかなとも思いました。
 だけど見るほうとしては、コンタクトシートはすごく興味深いですね。何を選んだかというのがわかるのと、前後の時間の流れみたいなもの、特にデジタルなカメラだと、どちらかというとビデオに近い感覚で撮っているので枚数がすごく多い。だけれども、それは自分が何を見たかという時間の記録としても見ることができると思うので、それはコンタクトシートにも共通しているのかなと思いました。

瀧本│私は日本画を描いていたので、コンタクトシートは、スケッチに近いのかなと思っていたんです。作品を作るための。でも、随分違うなという感じがしました。最後に選ばれる作品の撮られる前後というか、行程が順を追って撮られていたりするので、もちろん似ているところはあるんですけれども。
 写真というのはかなり機械に依存していると思っていたんですけれども、例えば正面を向いている人よりも横を向いている人のほうを選んだんだなとか、ちゃんと撮れた写真のレイアウトみたいなものをほかと比較して、これが選ばれたんだなという心の動きみたいなものが流動的に見えてきて、面白いなと思いました。
 例えば空の色を暗く焼いたりするときにもいろいろ工夫されるとおっしゃっていたので、版画にも近いのかなと思ったり。いろいろ変えると全然違う印象になるのかなと思ったので、おもしろいお話だと思いました。

事務局│絵描きさんのスケッチは完成に至るプロセスの中のリニアな手続きというか、スケッチしてスケッチして本作に至るみたいな感じがありますけれども、写真の場合は1個1個が独立して、完成度の高いものが隣同士になりながら別の情報を発している。分からないですが、今回の写真集にはこの写真を選んだけれども、展示のときはこっちの写真を選ぶみたいなこともあるわけですよね。豊田さん。

豊田│そうですね。「あめつち」の元の写真ではこういう写真を選んでいるけれども、書店でした展示は、裏側がわかる、雰囲気が伝わるような写真ということで、本編には入れない写真を選びました。選ぶときの軸みたいなものが自分の中であって、その中で選んでいったりする。だから、この写真も入れたいけれども今はここに入れるべきかと悩んだときに外すものもあります。そのときの主旨や、選べる数によっても違うと思います。
 写真で分かりやすいものと思ったのですが、デジタルカメラだとレタッチとかがあると思うんですよ。白黒写真だと焼き込みというのがあって。ユージン・スミスの写真でわかりやすいものがあるのですが。たぶん実際の見え方は違うと思うんです。でも、空をすごく焼き込んで、光を出して、2人の漁師の人の影を出すようなやり方をしている。逆に、焼き方を変えればこの人たちの表情をもっと出すやり方もあっただろうし、このときにこの人はこう焼いたけれども、それは何を見せたかったからそういう焼き方をしたか。
 あとユージン・スミスの写真で言うと『楽園へのあゆみ』。子どもが2人、光のほうに歩いていく写真があって、それは印刷物によって光の焼き方加減が全然違うんですよね。おそらくユージン・スミスは光の中に入っていくところの「光」に別の意味を含ませ描きたかったと思うんだけれども、ほかの印刷ではもっとそこを鮮明に見せるために焼き込み過ぎて、光の中に入っていくというよりは、ただそこに通り抜けてしまうようなイメージになってしまっているとか。そういう焼き方もあって、写真もどういうふうに見せたいかで少しずつ焼き方が、その人の好みとかも変わるのかなと思います。

事務局│今はデジカメで撮ったらすぐにどう撮れたかなと見て、場合によってはそのままそこでデリートしてしまったりしますものね。意味も手続きもまったく違うものになっている部分もあるような気がします。

参加者2│撮ったけれども、作品としては使わないものがある。逆にそれがあるからほかの作品が選ばれることもある。先ほどのスケッチみたいなものもそうかもしれないのですが、表に出ている作品だけではなくて、写したことや出会ったことがなければほかの作品だけで成立するものだったかというと少し違うのかなと思います。
 選ばれなかった写真や撮られた写真というか、これはたぶん言葉がないのですが。ただ、選ばれなかっただけではなくて、撮ったこととか話を伺ったことがすごく大切だなと思いました。あと時間の経過というので、そのときに撮る中で石塔とかいろいろなものの歴史とどう向き合うのかということを考えられているなと思って。選ばないけれども出会うことの大切さをすごく考えさせられましたし、選ばないことの大切さというか。それを何と言うのかは分からないし、別に言葉にしなくてもいいかもしれないですけれども。構図とか映えるという話ではないかもしれないですけれども、そういうものも含めて写真を撮られているんだなというのを考えさせられました。
 あと個人的にやっていることと関連して、歴史の中で若い人がいてとか行為として続いてきたものが、今は村などの共同体が閉じられる中で、ある人の体があることがつらくなることでやめていく。自分も今農業をしている中でそういう家もあったりするので、残されていくことと、ある人のある体の具合というものが一つの歴史になっていくというのは考えさせられました。

事務局│何か感じることはありますね。写真集でその行程の中から選ばれた1枚を見るだけではなくて、少しずつ見る角度が変わりながら一つの事象を眺めている中にすごく奥行き感があるような感じがして、デジカメとは違う面白さがあるなと思いました。

豊田│今年度のワークショップは今日で最後になりますが、今後も、先日お話しした、八王子市堀之内の鈴木さんのことをもう少し取材していきたいと思っています。また、水俣でも同時に新しいプロジェクトが動き始めています。これからもどんどん動いていきたいと思っています。いつか機会があるときには、これらのことについてまたお話しできたらいいなと思います。ありがとうございました。