もくじ

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●写真って、どういうものだろう─父と向き合い、学んだこと
●ドキュメンタリー写真を志して
●黒岩地区との出会い─1枚の新聞記事から
●水俣病とは
●水俣に移り住んで
●日常を撮る─暮らしの中の、水俣病
●公民館ではじめてのスライドショー
●5年目を迎えて
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●参加者との意見交換
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●写真って、どういうものだろう─父と向き合い、学んだこと

 写真を撮り始めた頃、自分の写真の中身がないことに落ち込んだことがありました。撮るものをビジュアルだけで選んでいることに気づいたんです。その頃に3人で写真展をしたのですが、他の2人は、写真のことを学んでいた。その人たちが写真を見ながら、撮っている人の感情だとか、その背景とかいろいろなことについて話していたんですね。写真を見るのではなく読むという感覚を知って、写真の中身について考えるようになりました。この頃に撮っていたのは、産業遺産などの廃墟のモノクロ写真です。
 そこから「結局、写真ってどういうものだろう」ということを考えていく中で、ある写真家の本に出会いました。そこにはポートレートの撮り方が、エピソード付きで載っていて。その写真家は、自分の両親が亡くなったときのことを挙げて、お母さんはこういう人だったから、一番優しく見えるカットを探して撮ったんだとか、お父さんはこんな人だから、顔は写さないで手元の力強さを撮ったんだと書いてあって、そういうふうに写真を撮るのかと思いつつ、そんな時期にちょうど父が末期のがんということがわかってしまいました。
 私と父は、ちょっとけんかをしたり、仲があまりよくない時期もありまして。ただ、小さい頃はよく一緒に遊びに行っていたんですね。写真やバイクも、父がいろいろ話をしてくれていたことが、私が興味をもつきっかけになっていました。
 2011年に末期がんがわかって、ちょうど1年半ですね、息を引き取るまでの記録をしたのですが、そのときに私が父と向き合ったことで、写真はどうやって撮るものか、どんなふうに撮っていくものかという本質的な考えを一番学びました。写真に対する考え方の転機になるような出来事でした。

●ドキュメンタリー写真を志して

 ちょうど同じ時期ですが、写真には広告写真や、いろいろな分野がある中で、私はでは何がしたいんだろうと思ったときに目についたのが、ドキュメンタリー写真というジャンルです。そういうジャンルがあることを知って、そのときに私は、なんとなくこういう写真が撮りたかったんだと思って、思いたってネパールへ行ったんです。そのときのドキュメンタリーのイメージは、主に労働問題や貧困問題を取り上げているイメージで。今思うと浅はかだったなとは思いつつ、2012年に福岡で初めて個展をする機会を頂き、そうした写真を展示しました。
 展示というのは、自分の作品を客観的に見ることができる機会というか、一番考え込むような機会になると感じています。このときも、やはり写真の中身を客観的に見たときに、どうしても旅行者というか、そういう目線でしか撮れていないことがちょっと見えてきて、またしてもその内容のなさに落胆してしまいました。
 また、海外だと撮影費や日数を考えると長期的に行くことが難しくて、よその土地で私が撮ることの意味って何だろうかと、少し疑問をもち始めました。写真を撮るにあたって、遠いアジアの国で撮らないといけない理由は何もないんじゃないか。ほかの国だと暮らしそのものがとても新鮮で、刺激的に見える。でもその中で撮る写真は、やはりどこか旅行者目線になってしまう。そういうものにあまり意味を感じなくなって。であれば、自分の住んでいる場所の周辺で何か撮れないか、そういったところにもいろいろなキーワードはあるのではないかと考えるようになりました。

●黒岩地区との出会い─1枚の新聞記事から

 そんなときに、自宅で見た一枚の新聞記事が目に留まりました。
 2012年1月26日、「山間部、半数に水俣病の症状」という見出しで住民の半数に水俣病の症状が確認されたという内容だったんです。これを見たときの率直な感想は、今、水俣病の症状が確認されたとはどういうことなのかということです。
 水俣病というと、小学校の授業で習った程度しか私は記憶がなかったのですが、それが今わかるということと、海ではなく山で、この二つにすごく衝撃を受けて、その数日後、実際に集落を訪れました。
 これが位置関係ですが[fig.①]、私が住んでいた熊本市は県北で、水俣市は一番県南の町、そのあいだが100kmぐらいです。黒岩は水俣と熊本の半分より少し水俣寄り、水俣から40kmぐらいの距離にあります。
 最初にバイクで行ったとき、海手を走っていったら、うっそうとした杉山に入って、この先にまだ集落があるのかなと思ったんです。その杉山を抜けた瞬間に、山に這うようにして集落が広がりました。なんとなくそのときに、撮りたい、ここをやはりどうしても撮りたいという直感的なものはあったのですが、それと同時に、ここと水俣病がまったく結びつかなくて、そもそも水俣病とはいったい何だったのかということに疑問をもちだして、水俣にも通うようになりました。

●水俣病とは

水俣病について少し説明させていただきます。水俣病は水俣市の中心にあるチッソ水俣工場からの廃水にメチル水銀が含まれていて、魚を食べる人間に食物連鎖を通して水銀の被害を起こしたものです。
 水俣病の症状には大きく二つあります。一つ目が劇症型水俣病。激しいけいれんや言語障害、運動失調、視野狭窄といった様々な症状が見られて、初期に多い。私の記憶の中にあったような、モノクロで震えがあったりするような方たちの写真というのは、主にその劇症型の症状の患者さんの姿でした。
 もう一つは、慢性型水俣病で、現代の被害者の多くはこちらです。手のまひやしびれ、感覚障害など症状は様々に表れるんですが、見た目にはまったくわからないところがあって、普通の人と何も変わらなく見えてしまうので、本当に水俣病なのか疑われたり、差別の対象になったり、水俣病の申請にすら声を挙げづらい風潮もあることを知っていきました。
 現在、水俣病の認定の患者さんは約2200人おられます。黒岩地区の被害者たちは2009年に施行された特措法の救済措置の”対象”でしたが、認定制度による”認定”はされていないため未認定患者とされています。特措法に基づく救済措置には約6万3000人が申請しましたが、それで全て終わったわけではなく、救済を求める裁判は今もあります。同じ山間部でも、救済対象外の地域もあります。黒岩地区も、昔の行商さんの記録と黒岩地区の人たちの証言が一致した、裁判の証言と黒岩の人たちの証言が一致したということで、特措法が受けられることに、申請ができることにはなったのですが、最初は救済対象外の地域でした。
 熊本県内に限っても、水俣の中だけでも、認定されている、されていない、いろいろな問題があって、内側の差別と、見た目とかそういったもので差別を受けたりもするような、外側からの差別という二重構造になっていることを知っていきました。
 この頃は、まだ私が水俣に住む前で、水俣病のことを知っていっても、肌感覚としては理解できていなくて。ただ話を聞いていく中で、自分の幼い頃の記憶に重なることがありました。それは、私が幼少期に参加した、被差別部落の学習会や集会などで証言していたおじいちゃん、おばあちゃんたちの姿でした。さらに、被差別部落をテーマにした写真を見たことがあったのですが、その写真がいいとか悪いとか、そういうことではなくて、そこに写る人に、身近な人や自分の姿を重ね合わせたときに、撮られる者の痛みということと、自分が撮る側なので、撮るという行為の暴力性をなんとなく肌感覚で知っていくことができました。

●水俣に移り住んで

 水俣病のことを知りに水俣に訪れる。そうすると水俣病に関することだけ知っていくことになる。でも水俣の人たちからすると、日常の暮らしの中に水俣病はある。それが、どういう感覚で受け取られているのかということが段々気になりだしました。それで、熊本から水俣に移り住んで、水俣の人たちの住んでいる感覚を知りながら撮っていくことを始めました。
 水俣に6年前に引っ越して、そこから40kmぐらい離れた黒岩地区へ、月に最低は1回、村行事などが重なるときは数回、ずっと通いながら撮影をしていきました。
 先ほどの話に少し戻るのですが、自分の背景に重なったことで、水俣の人たち、芦北、黒岩の人たちがどう思うのか、それを私がどう撮るのかということがすごく考えやすくもなったのですが、水俣とか部落というキーワードを相手に話していく中で、「ああ、あの水俣ね」とか「ああ、部落あったよね」とかという「ああ」と言葉を返されることもありました。すごく影の部分を感じることがあって、すごく苦痛の部分があった。問題があることは事実ですが、この現実と対比しながらでも、自分の生きてきた時間や場所に誇りをもちたいというのは、誰しもにある感情なのかなということを思っています。

●日常を撮る─暮らしの中の、水俣病

私が撮っている写真は、黒岩地区の日常の暮らし、田を耕すところや村行事をするところ、お昼ご飯を普通に食べているところとか、そういった景色なのですが、一緒に時間を過ごす中で、たまに立ちどまることがあって。
 ずっと一緒にいると、会話の中に水俣病のことが出てきたり、ものを触るときの感覚がちょっとないような、ないというか、ちょっとわかりづらいのかなというような手の動きをしたりだとか、そういうことをいろいろ発見していくんです。それは、私がそう思っているだけかもしれないし、本当に水俣病の影響が出ているのかもしれないのだけれども、日常には、水俣に限らず、ふとしたところにキーワードがあると思うので、そういうところにいろいろな人が足を留めたらなと思って、直接的な水俣病の被害ということではなく、日常の暮らしを撮りつづけています。
 最初に行ったのが2012年、撮影を始めたのが2016年。最初の4年間は葛藤もあり、実際に水俣を昔撮っていた写真家に会いに行って、どういうふうにコミットしていたのかとか、アドバイスをもらうこともありました。そうやって少しずつ進めてきたのですが、2015年の暮れ、2016年の1月に黒岩集落の区長さんが、村行事があるからそこに来て写真を撮っていいよ、集落で話を聞きたいならそこで聞けばいいよと言ってくださって、初めて撮影の許可をもらいました。そのときに撮ったのが、どんどやの写真です。

●公民館ではじめてのスライドショー

 写真を撮り始めて1年ぐらい経つと、だいぶ名前を覚えてくれるようになりました。最初は「カメラさん」と呼ばれていて、写真を撮っている人ぐらいに思われていたんですが、どんどん「有希ちゃん」と名前で呼んでくれるようになって。
 その一方で「この子は何の写真を撮っているのか」という声も聞こえてくるようになりました。最初に説明したつもりではあったけれど、きちんと伝わっているのか、本人たちがどういうふうに写真を見るのか不安があったので、2017年の夏に、黒岩地区の公民館でスライドショーをすることにしました。30分ぐらいかけて、写真を100枚程度見てもらったんですね。どんな反応だろうと心配していたんですが、私の想像とは思いのほか違って、皆さんすごくにこやかに見ておられて。「ああ、あの人、俳優みたいに写っとるね」「ああ、よかね」「こがん撮るとたい」と言いながら見てくれて、すごくほっとしました。
 その数日後に、ある人と一緒にスイカを取りに畑に行くと、その人がいきなり畑の中で大回りをし始めて、スイカをもって、ツルを切る直前で止まったんです。何事だろうと思ったら、「撮ったかい」と言い出して、あれと思って。あ、撮る瞬間のことを言っていたんだと思って、私もあたふたしてしまって、「あ、撮るんですね」と言って、写真を撮らせてもらいました。
 そのときの距離感というか、やっとこの距離に来れたということと、自分がどんなことを撮りたいのか伝えたり、写真を見てもらったりしたことによって、相手にもこのカメラマンはこうやって撮りたいんだということをわかってもらった気がして、すごくうれしかったです。そのときの写真がこれです。

●5年目を迎えて

 2016年に撮影し始め、今が2021年。5年間コツコツ通いながら撮ってきました。私は写真を独学で撮ってきたので、正直、最初は何もわからなかったというか。写真のこともわからなければ、ドキュメンタリーを撮っていく中で、どうやって人とコミュニケーションを取っていくのかとか、どういうものが必要かとか、まったくわかっていなかった状態で、いろいろな本を読んだり、いろいろなところに行って人の話を聞いたりしながらつづけてきました。

 2021年3月に熊本市の書店のギャラリーで展示をしました。[fig.④]コンタクトシートを張りめぐらせた展示だったのですが、私はドキュメンタリー映画が好きで、それを勉強材料にしていて、その監督や、どういうふうに組み立てられたか、どういうふうにストーリーテリングをされたかというような参考にした本も一緒に展示しました。
 これが写真をセレクトしているときの、家の写真です[fig.⑤]。
 思い浮かんだキーワードを自宅に貼ってみたり、テーブルのまわりに付箋で貼ってみたりだとか、気になる写真をぜんぶプリントアウトして貼って、見飽きたら外していくようなことを繰り返していきます。壁に写真を張りめぐらせて、それを見ながら、どういうふうに組んでいくか、どういうものが必要なのかを考えては、何回も何回も貼っている写真を変えることをしていました。

●参加者との意見交換

事務局│感想や、豊田さんにお伺いしたいことなどを皆さんにお聞きできればと思いますが、いかがでしょうか。私は、豊田さんが、水俣を撮ることと自分の日常を接合しないと、という話をされていたことがとても印象に残りました。

参加者1│スライドショーにあった「メゴバイノウテ〜」というのはどういう意味でしょうか。

豊田│「メゴバイノウテキヨラシタモンナ」というのは、熊本弁。県南のイントネーションなのですが、「メゴ」はかご、「イノウテ」はからって(背負って)、「キヨラシカモンナ」は来てたもんねということで、かごを昔はからって来ていたんだよということです。
 天秤棒のような、太い木の先にかごを二つぶら下げたような形で、漁村からそれに氷と魚をいっぱい入れた状態で行商さんが歩いてきていたときのことを黒岩地区で聞いたときに、「メゴバイノウテキヨラシカモンナ、アンヒトハ」と語っておられたのですが、その言葉がすごく印象に残って。イントネーションの柔らかさまで含めて伝えたかったので、その方言のまま書いています。

参加者1│すごく勉強になりましたといいますか、いろいろ考えさせられる話をありがとうございました。黒岩地区に、行商の方がいっぱい来ていたということですが、どういうふうに買われていたんでしょう。魚とお米などを対価として取り引きされることもあったんですか。
 
豊田│当時は、お金で買っていたと聞いています。逆に、山ではタケノコとかが取れるので、そういったものは海のほうに売りに出したり、食の行き交いはあったそうです。
 水俣市から鹿児島に抜ける山のほうには、昔、線路があって汽車が走っていたのですが、その汽車では、最初に水俣から魚をはからった行商さんが山手のほうへ行って、そこで物々交換でお米や農産物と代えたりしていたという証言も一部にはあります。

参加者1│そうすると、黒岩地区だけではなく他の山間部の地域もポツポツ水俣のほうと取り引きされていて、水俣病の患者さんは、実は潜在的には結構いらっしゃるのではないかということになるのですか。

豊田│チッソからの廃水が、最初は水俣湾の中の排水口だったので、その周辺で水俣病の被害が出ていました。それを一回、排水口の位置を、水俣川のほうに変えたことがあって、不知火海一帯に被害が広がることになりました。そのときにチッソは、サイクレーターを付けて処理をして流していますと言ったのですが、実際はそうではなくて、メチル水銀に汚染された水がそのままそこへ流れ出ていたんです。なので、黒岩地区から一番近い漁村である、芦北のほうの田浦地区や、もう少し北上していく辺りでも、漁村のほうでは昔から水俣病の被害は確認されていました。
 あと、私はその行商さんのことをいろいろ聞きながら、行商さんの道を少したどったことがあって。一番近い漁村から黒岩地区までは15kmぐらいあるんです。そこを毎日、1回から多いときは2回ぐらい、行商さんが行き来していたという話なんですが、実際歩いてみると、私は1日かかってしまいました。
 行商さんが行き来した時代は道がまだなくて、山の道をたどって集落まで魚を売りに行っていたそうです。私はすごく遠く感じたのですが、かつてそこを行き来していた人たちによると、それでも町に出ていく交通はそこしかなかった。すごく軽やかな感じで、毎日下りていたというか。昔の生活圏は今とは全然違う感じであったんだなというのが、聞き取りをしていく中でたどっていくと、わかったことでした。

参加者2│写真、とても興味深く拝見しました。少し変な言い方かもしれませんが、豊田さんは、ただ誰かの写真を撮るというよりは、撮った写真の一コマの中にお互いが居られるような写真を撮るなと思って。その人たちが、一緒に居てもいい人に見せる表情が写っているような気がしました。人だけでなく、イモリとか木々とかにもそういうものがあるというか。そこで、対話をしたことがない人というか、関係がないような人を黒岩地区で撮ることがあるのか、そういうカットも存在するのか、お聞きしてみたいです。

豊田│話したことのない方もいるかということですが、私は写真を撮るときは、話したことがある方が多いですね。黒岩地区はそんなに大きい集落ではないので、村行事などに行くと、だいたいいろいろな人と顔を合わせたり、話したりするんです。でもそれだけではなくて。
 私が最初に迷っていた時期は、撮りたいという思いはあるけれど、水俣病というものが背景になっていて、私が撮って果たしていいものなのか、そこの責任が取れるのかという問いがすごくあって、カメラを向けられなかったんです。
 山の集落といっても、水俣などとは比べ物にならないくらい山間地というか、あまり人の行き交いのない集落なので、本当に行き始めたころは、みんな引いていくようなところがあって、「誰だ、誰だ、あの人は」みたいなことになっていて。コミュニケーションの取り方がわからないので、最初に黒岩に入っていくことができなかったときに訪ねたのが昔、水俣で写真を撮っていた写真家です。その人に、コミットしたいのですが難しく、どのようにしていたのか教えてほしいと聞いたんです。そうしたら、どこどこの患者会というところがつながっているから、そういうところから連絡を取ってつながっていくといいよと教えてくれて、実際にその患者会に連絡をしたら、申請当時の元区長さんに連絡を取ってくれて会うことになりました。
 ただ、それも撮影し始める2、3年前のことで。やはりそれでも本当にここを私が撮るのか、本当に撮っていいのかなと心構えができない時期があって。
 でもどうしても撮りたい気持ちが消えなかったというか、どうしてもこの集落に通って撮りたいということと、今、水俣病がその山の集落で起きていること、なおかつ村に行ってみると、今も昔ながらの営みがつづいている。村行事も含めて営みがつづいている。そんなことを残しておきたいなと思って、そのあいだにいろいろなことが起きて、やはり撮るという決心をしていくのですが。
 そこから2016年に始まって、毎月通っていって。最初からカメラを向けると少し引いていくようなところがある方も少なくはないんですね。私は正直、自分が撮られるときにすごく抵抗があるので、相手が嫌な思いをするときにカメラを向けるのはどういうことかを考えながら、カメラを出すこともないまま、ただ話して帰るような日も結構多くて。
 なので、何も相手のことを知らないままでカメラを向けることには抵抗があるというのと、どういう人か相手から信頼される、その信頼関係をお互い築いていくことが写真を撮っていく中で一番大事なので、それを5年間かけてつづけてきたように思います。
 それをずっとつづけていくと、「家に上がっていきなよ」とか、お昼ごはんに誘ってくれていろいろな話をしてくれることもあって、広がっていく。
 写真の被写体という言い方があまり好きではないのですが、私は撮る側で相手は被写体ということにはなってしまうけれど、それ以上に人間関係がないと、カメラを向けることもしてはいけないのではないか。それが成立した上で撮っていくことが、私の中では一番重要だと思うので、それをつくっていきたいので時間をかけて撮っています。

事務局│私と同じくスタッフの瀧本さんは、2021年8月に、水俣と黒岩地区まで行ってきました。豊田さんと黒岩地区に行ったとき、豊田さんを見て、山の高いところからすごくうれしそうに男性が走ってきて、写真撮るの? みたいなことでお話ししていかれたのが印象的でした。豊田さんがあそこでどういう存在なのかなんとなく感じることができて。先ほど伺った、お互いがそこに居る写真という言い方に、まさしくそうだなと思いました。
 豊田さんに1つ質問ですが、展示や写真集では、タイトルはありますが、キャプションがないですよね。日付情報もない。それはどうしてでしょうか。

豊田│ 私が撮っている写真は、あくまでもここの暮らしを通して、水俣病があったことも通して、私がここでどう思うかということを表現していきたいなと思っていて、どちらかというと、1枚で見せることではなくて束をつくることで、群を成すことで見せる、意味を成す写真だと思っています。
 もちろん一枚で意味を成す写真もあって、それが伝えることも大きいと思います。でもドキュメンタリーの中でも、私の撮っているような写真と、そういう報道的な一枚で伝える写真というのは、まったく別の意味を成すと思います。
 文を書くとき、詩とか書くときにいろいろなことを書いていくと思うのですが、同じように写真を組むときに、私の中では文脈というか、表現したいというものと、黒岩の人やそこの暮らしを思い出しながら、いろいろな順番などはその文脈で考えていっているので明確な文章というのはないのですが、なんとなく文章のような感じで写真を組んでいくんですね。
 だから、そこに空白が欲しいなと思ったら1ページ空けてみたりしています。こことここは組んで、こういうふうな見せ方をしたいとか、ここは強調がしたかったとかという。その写真の中に一つ自分は文脈をもっているので、一枚一枚の写真の強さというよりは、それを見せたい。
 展覧会では、最初に自分の意図をまとめた文章を書いてはいますが、見る人にはその人の見方で見てほしいとも思っています。例えば、私は水俣病のことを知ることで自身のことと重ねたけど、見る人たちもいろいろな背景があって、そこに重ねてほしい。見る人が自分で物語を考えていく、そんなことをしてほしいなと思っていて。なので、キャプションは付けていません。
 例えば、私は、手の写真を多く撮っているのですが、それは、その作業を伝えたいからではなくて、その人たちの手の動きから伝わるような柔らかさとか、しわから出てくるようなその人の背景だとか、そんなものを、いろいろなものを想像してほしいというか。確かに、背景には水俣病があって、ここに暮らしがあってとは言っているけれど、見る人が、水俣病のことは何もわからなかったけれど、暮らしのこんなところが気になった、こんなことを自分は思ったんだと思ったら、私はそれでいいというか。逆にそこから、気になった点からもっと広げてほしいと思うし、自分の中のストーリーをどんどん組み替えてもらってもいいと思っているんですね。だから、見る人は本当に自由であっていいと思うので、文章やキャプションで「こういう背景があって」とか説明したり、私の意図を固定したりしたくないと思っています。

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