●川の暮らしを見て、その先を考えてもらいたい

事務局│今回は、豊田さんに、現在開催中の「令和2年7月豪雨REBORNプロジェクト坂本展」について、その会場から中継いただきながら、お話いただきます。豊田さん、よろしくお願いします。

豊田│REBORNプロジェクトは、令和2年7月豪雨により、水損した昭和30年前後平成初期のネガフィルムを預かったことから始まりました。預かったものの、一人ではどうしようもなく、SNSで「加勢」を呼びかけたところ、学芸員やクリエイター、写真の仲間が集まりました。協力してくださった方は他にも、写真はまったく触れたことがないけれど、ただ今回の災害を目の当たりにして何かしたい、体力的に重作業は難しいが手作業であればできるかもしれないと思った、という方も加わってくださいました。私も経験はなく、SNSでいろんな方が送ってくれた情報を参考にしたり、水損ネガを扱ったことのある学芸員がたまたまいたのでその方にレクチャーを受けたりして方針を決めました。
 その作業の途中で写真があまりに良すぎて…もったいない、写真を共有し、復旧活動に費用が循環すればと、ドネーションブック『REBORN』(以下ドネーションブック)(*注)を作成し、展示をおこなってきました。
 今まで熊本市、坂本町のある八代市で展示をおこないましたが、どちらも公共の施設でどちらかというと、一方的な報告までに止まっていました。しかし、土地の記憶でもあり、川とともに暮らしていた時代の残るこの写真を地元の人に見ていただきたい。そして私たちはそこからここにあった暮らしを知りたい、という気持ちで、今回、この坂本現地での展示開催に至りました。

 ダムができる前は水害の「害」という概念がなくて、昔は大水(おおみず)っていう概念だったんですね。ダムができたことで、水害という「害」に変わっていった。被害の後にはどうしても被害現場の写真ばかりが溢れる。でも、その害の部分を撮るよりは、この中に写っている、本来ここにあった、川の暮らしを見てもらって、その先を考えてほしいなというところがありました。それで、川を中心にした暮らしの部分に今回はスポットを当てて、展示内容を組んでいます。

 これは鳥居です。さっき魚を釣っていた人がいましたが、鮎釣りがまだ生業にできた時代で、その釣った魚をここの友恵屋(ともえや)旅館に納めて。なおかつ、ここのすぐそばに水源があったみたいなんですね。そこの水を生簀に引いてきて鮎を生かしておいて料亭で料理として出す。今は、もう旅館はないんですが、その水源が山のほうに少し行った裏手くらいにあったから、今回は水害の後にその集落がその水を使って掃除に取りかかれたので、一番動きが早かったという情報とかも聞きました。

 これは、かさあげのときに仮住まいで住んでいた小屋での風景ですね。

 これが典型というか、昔の暮らしの象徴なんだよと言われた方がいました。ここに人がいて、横に川があると思うんですけれども、人と川の近さ。今はもうかさあげしてしまっているので何メートルも下に川が見えるんですけれども、このときは人が歩いているすぐ横に川が流れている。[fig.④]もちろんここも水害で浸かったりはするんだけれども、それもサイクルみたいなところがあるので、川とともにあった暮らしというとすごく聞こえがいい感じにもなってしまいますが、本当にそういう暮らしがあった、そういうものの象徴的な写真だなと思いました。

 瀬渡しの写真です。昔は橋がなかったので、瀬渡しが何カ所もあって、それで行き来して、列車に乗って仕事に行ったりもしていました。

 これは、ダム完成後につくられ、ダム撤去のときに一緒に撤去されたんですけれども、ダムの下流側に造られた潜水橋で、子どもたちがここを渡って通学していたという橋です。これに関する思い出をいろいろな方が話してくださって。稚児行列の次ぐらいにこの思い出話をされる方が多かったです。

 これは、個人的に印象的な写真です。瀬渡しのところなんですけれども、女性がスーツを着て、しっかりと立って乗っていて、もうすぐ到着するところ。たぶん、対岸に写る集落にお住まいの方が、この地区の小学校の閉校式に出席するためにスーツを着て、瀬渡しで渡ってきているところなんですね。ちなみに、この方は求广川八郎さんというすごく有名な船頭さんだそうです。皆さんが八郎さん、八郎さんと言っています。

 これはダムができた直後の写真です。船の跡とか、宿舎がある。これは、木材を運ぶいかだ流しがおこなわれた最後の時期。ここの川を下ってもってきて、ダムのすぐ上流で陸揚げされて、そこから先はトラックが運搬していく。流通の行き交う川、その終わる直前の風景だったりします。

 子どもの写真ですね。これ、5人じゃないんですよ。この後ろにあと2人赤ちゃんがいるので7人で写っているんですけれども、子どもが子どもをあやしているときとか、川の近くで子どもが遊んでいるときの風景はこのときならではというか、時代を物語っているなと思います。

 これはモーターバイクに乗って記念写真を撮っているんですけれども、撮られる人の表情が穏やかだなと、この写真に限らず、この撮影者の写真を見たときによく感じました。おそらく初対面ではなく、顔なじみの方だろうと。本村さんという撮影者はすごく近所の方を撮られている方だと思うんです。慣れない人って、緊張が伝わってくるんですけれども、写真を見ているとみんな穏やかな顔でカメラを見返していて、本村さんもおそらくそういう穏やかな顔で、そのときの空気がお互いに伝わってくる。カメラを見る目線とカメラから見ている目線というのは、合わせ鏡みたいになって伝わってくるようなところがあるので、本村さんの写真はポートレートをすごくいっぱい使わせてもらっています。

 近所を写しているのもそうだけど、水害のときの写真とかもまめに撮られていて、土地に対する愛着というか、そういうものも感じました。次がこの写真です。

 水が来ていて、その上に木が出ている。これは実は桜が咲いているんですけれども、ダムができた後に木がどんどん沈んでいくときの写真なんですね。このときに逆光が来て、なんていうか、水面とかお花がちょっと輝くじゃないけれども、キラッとするような瞬間を何カットも撮られています。外から来ると、ここに目は行かないんですけれども、住んでいると、近くで沈んでいく町だったり、そういうものを見ながら、どんなことを思ったのかなということを少し想像しながら、とても印象的な写真でした。

 これは川に浸かっているときの写真ですね。作業員というか、そういう仲間内で集まって、情景はわかりませんが、球磨川でお風呂みたいに浸かるんですけれども、この写真は当時の球磨川というのがすごくわかるなと思ったので選んでみました。

 これは、川の瀬の写真です。坂本の方に聞いてみると、これは、どこどこの瀬で、とこれだけでわかってしまうんですね。
 というのも、ここに出ている岩がどのくらい浸かったかで、どのくらい水がきているか、目印にしていた岩だという。
 この鳥が来たときを狙って、何回も何回も同じところで撮られていて、全体を見ていくと、撮影者の東さんがどんなものに興味をもって撮っていたかということも少しわかってくる。坂本の町のどういうところに愛着があったのかとか、どういう風景が好きかとか。そういうものも、全体を見ると読み取れてきて、その中から選ばせてもらったようなところが今回はあります。

参加者との意見交換

森山│復興商店街のまわりの風景も見せてもらえますか。どういう場所に建ってるのかなって。

豊田│駐車場を歩いてみますね。

森山│まわりは山なんですね。

豊田│山と山のあいだに川が流れているようなところです。ここが道の駅なんですが、水害のときは、1階は完全に浸かってしまって、屋根だけが見えている状態で。私が最初に来たときにはこの辺も車が重なり合って、今とは本当に全然違うような情景でした。
 昔を知っている人がよく言われるのは、工事に工事を重ねてかさあげはしているけれども埋め立てたりして、川幅が狭くなっている。プラス、今は林業とかが衰退してしまっていて、山を整備されていないので土砂とかで流れ出た土が体積していて、もともとあった水深がどんどん浅くなっているので、当然その分、水嵩もあがり、過去に何回か大きな水害もあったんですけれども、今回はその想像をはるかに超える、80代90代の方たちでも初めてここまでは見たねと言うぐらいの水の増え方でした。
 また、ダムができたことによって、今回はヘドロが流れ込んでいて、細かいところまで入り込んでいるので、洗っても洗っても真っ白になるんですね。床もそうだし、食器とかも。なので、3回4回とみんな洗って。ダムができる前の大水はヘドロではなかったらしく、水質の違いというのもあったみたいです。
 あと、近くに、通学や通勤にも使っている人が多い、肥薩線の電車が通っていて。さっきの写真にあった瀬渡しも、その電車に乗るために駅に向かう人も多かったんですが、これも今回は川に渡っている橋も流出し線路ごとひっくり返って、すごい状態になっています。

豊田│坂本といっても広くて、私が今、展示をしているところは、川にほど近いところなんですが、山も深いのでいろいろな集落があります。この復興商店街にもわら人形が飾ってありますが、それは七夕綱といって、七夕のときに編んで、それを川に渡す用にして付けるようなものです。これは一つの集落、木々子(キギス)というところなんですけれども、そこではまだ今もつづけておこなわれています。カメのつくりものとかわら人形とかですね。タコもあります。[fig.⑮]

事務局│なんで七夕にタコなんでしょうね。

豊田│なんででしょうね。ただ、山の神祭りとかっていうのは、黒岩もあるしこの集落もあるんですけれども、中にはこの辺はボラをお供えしたりだとか、水俣のほうにはオコゼをお供えしたりだとかがあるんですけれども、そういうことかなと思ったんですが、なんでタコだろうなと、私もふと思いました。

豊田│それから、今回の展示写真のフレームは、被災家屋の廃材、建具からつくられています。坂本って古い町で、大正時代の立派なおうちが結構多かったんですが、大正時代に建てられた家の建具を収集して、利用してつくられたフレームです。

森山│建具ってなんですか。

豊田│建具って、床板だとか、障子だとか。板の表面がボコボコしているんですけれども、
昔、手斧(ちょうな)で削った跡で。これは板材に再利用した残りを捨てないで、使用しています。障子の材で、穴が空いているようなものもそのまま使ってます。
 この製作にあたっては、写真の持ち主である溝口さん(*注)が主におこなわれています。さらに、地元の高校生が手伝いに来てくれて、水洗をしたり、こういう組み合わせでとセレクトしてくれたり。なので、この写真展は、最初の作業から今回の展示もそうなんですけれども、こういうフレームに至るまでいろいろなストーリーもあるし、いろいろな方に関わっていただいています。
 溝口さんは、こういう障子の穴とかを写真より主張しないようにと内側にしてくれているんですけれども、高校生たちは逆にそれを見せたほうがおしゃれだと提案してくれて、そういうふうにつくっているものもあります。おうち4軒分くらいの建具でつくられているんです。

豊田│溝口さんです。[fig.⑯]

溝口│こんにちは。川のことはダム撤去が専門で、日本で最初に撤去された荒瀬ダムがある球磨川に移住しまして、撤去された後、再生した川を伝えながらお金に変えるということをしたくて、ラフティングの資格を取ってリバーガイドになりました。
 ただ、リバーガイドはシーズン仕事なので、通年でご飯を食べていけないので、冬のあいだは、いい川で遊びたいという欲求を少しでも高めるために山の造林の仕事をしています。木を植えて健全な森をつくるお手伝いで、山のお仕事をするようになって、現在は観光業と林業をメインでやるという業務形態になった直後に水害に遭って、えらい目になっていますという。

事務局│おうちは大丈夫だったんですか。

溝口│家を2軒、事業所と生活空間としてお借りしていたんですけれども、1軒はきれいさっぱりなくなって、球磨川の藻屑となりまして、もう1軒は鉄筋コンクリートの3階建ての建物だったんですけれども、2階天井まで水没して、3階は使用していなかったので、もう何もかも失ったという形になりました。

事務局│今日、写真展をご覧になっていかがですか。

溝口│いや、うれしいですね。地元の方々が過去を確認するというのと、情報がどんどん写真に添付されていく過程を大変興味深く見ています。ただの写真が、意味をもった写真になっていくのが、ライブで目の前でどんどん、刻一刻と積み上げられていく感覚が非常におもしろい。
 その情報が添付された写真であればあるほど、その地域の情報インフラとしての価値をより強めるというのを目の当たりにしているような感覚で観察させていただいています。こういう機会をつくっていただいた本当に数多くの皆さんに感謝をしている状況です。
 
事務局│ありがとうございます。また行きたいなと思っています。

豊田│こんな感じで展示をしています。今日は週末なので、人も多く来ていただいています。今回の「令和2年7月豪雨REBORNプロジェクト坂本展」は、展示ではあるけれどもフィールドワークのような要素を備えていて、私たちは来る人たちから聞き取りをさせていただいている。逆にここに来る坂本の人たちは思い出話をしてくれたり、何か懐かしいねっていろいろな話題で盛り上がったり、ここに来て久しぶりに会ったみたいなことで盛り上がったりもする。ゆっくりできるお茶のみ場として展示会場を温かい場所にしたいなというのがあったので、自分の中ではここでしてよかったなと思っています。[fig.⑰]

参加者1│再生された写真の中から展示するものを選んだり、配置を考えたりしたのは豊田さんですか。地元の人と相談しながらだったのでしょうか。

豊田│今回の展示は、写真集のものと、プラスちょっと選んだものがあります。川と人との暮らしが伝わるにはどういうふうにしたらいいだろうということで選びました。ただ、それを私が一方的にしてしまうとずれが出てしまうので、地元の人に確認したり、教えてもらったりしながら選んでいます。写真の持ち主とか、手伝ってくださる地元の人とかに、写真を見てもらって、どういう状況だとか教えてもらって。地元の人を1回通してまた見せるということをしています。
 今回、1枚だけ展示していない写真があるんですけれども、水害の被害のあった場所でもありました。その写真を見たときに、やっぱり地元の方だと、人や場所がわかる。だから、状況的なものとかもその知っている人たちと一緒に判断して、今回それは出すべきではないんじゃないかと、本人の許可が取れていないところでするべきではないよねということになって下げています。それって地元の人が入ってもらってやっとわかることなので。展示の土台は私がつくっているんですけれども、いろいろな方を混ぜていくことによって、その辺の判断をしていくようなつくり方をしています。

参加者2│川からフィルムを引き上げて、きれいにするボランティアの方、とおっしゃっていたんですけれども、それは素人の人でも参加できるものでしょうか。

豊田│そうですね。特に誰ということもなく、私自身も経験者ではなく、情報を集めるところからしているので、加勢できる人はもうどなたでもということで関わっていただきました。図書館で働かれている方とか、現地に行って何かしたいけれど、どうしてもそんな体力はないからということで来ていただいた方もいました。その方は写真を撮っているわけではなかったし、フィルムの知識があったわけではないけれども、少しずつみんなで共有しながらやっていったので。
 今回のリボーンプロジェクトに関しては、Facebookで広報をしているんですが、今回の展示会場も私一人では回せないので加勢してくださいと声をかけました。そうしたら知り合いもいたんですけれども、それ以外にもこういうプロジェクトに興味があってと来てくださった方もいるので、一緒に聞き取りをしながら進めさせてもらっています。

参加者2│ありがとうございます。そういうところでも参加できるかなという希望が出てきました。

豊田│私もあまり経験がなかったんですけれども、今回、経験者である学芸員の方が来てくれて、いろいろレクチャーをしてくれて、その中でみんなが得意分野とかできることを分担してやっていった。本当にみんなもう、私も含めてかなりの素人から、少しずつちょこちょこしていったというところがあります。経験がある人のほうが少ないと思うので、結構どなたでも手伝っていただいています。

事務局│覚えていらっしゃる範囲で、会場でどんなお話があったかとか、それに対して豊田さんはどう思ったのか、伺えますか。

豊田│皆さん思い思いに語られていくので、写真に全然関係ない思い出話とかもされますね。稚児行列の写真の話が多くていろいろ聞いていくんですけれども、その中で、ここら辺に生協があって、生協の匂いを嗅ぐと都会に行ったっていう気分がしたんだよねみたいな話がありました。私は全然匂いを知らないので想像になってしまうんだけれども、なんか匂いとかから語られる思い出とか、すごくおもしろいですね。
 あとは、川の話もたくさん聞きます。今はもう、小学校も、何人かしかいないんですが、この当時は子どもがすごくいて川で遊んでいる風景がある。子どもがこれだけいるというのは、川がいいっていうことだよとかって、それぞれの、その土地に根ざす哲学みたいなのをおじいちゃんたちがもっていて話していくんです。そういう、感覚で得ている地元の人たちの言葉というのはすごくおもしろいというか、ありがたい。
 村史とかは、どうしても文字で記録的にまとめられている。なので、そういう人たちの言葉、感覚で感じられている土地の匂いだったり風景だったり、そういうものを表す言葉は、一番貴重なのかなと思っています。

事務局│本当ですね。「土地の記憶は土地の人のものである」ってチラシに書かれていましたが。土地の記憶は土地の人のものでしかあり得ないけど、私は、展示してあった写真を今見せてもらって、私の親と同世代だろうな。ということは、たぶんこの人たちの子どもは私と同世代だろうな、みたいに思う写真があったりして、そうすると土地の記憶はその人たちの記憶なんだけど、そのことから私の記憶も呼び覚まされるようなものがあったり、ある種の郷愁だったり。でも、郷愁の中にある確からしさみたいなものも感じることができて、なんとなく豊田さんと坂本の人たちというだけではなくて、それを見た私たちもまた別な感覚を得ることができるみたいな伝わり方がすごくおもしろいなと思いました。

豊田│そうですね。私もこの時代は生きていないですけれども、懐かしいなと思って見てしまって、そこから話に入ることによってもっと近づくというか、いろいろな物事が、自分の体験のような錯覚を覚えながら入ってくるというか。それがすごく楽しくて、地元で開催することの意味を感じています。今までの美術館、博物館は、どうしても報告を一方的にするものだったのが、今度は返ってくるのでおもしろいです。

事務局│いいですね。すごく素敵。

参加者3│すみません。さっきお話に出ていた、ダムを撤去するってどういうことですか。

豊田│ここのすぐ上に荒瀬ダムというダムがあったんですが、それが2018年に撤去されたんです。いろいろな開発の中でつくられたダムではあるんですけれども、川の生態系とかにも影響が出ていて、地元の人の多くもダムはもういらないと言っていたんです。それでダム撤去運動とかも起こっているんですけども、日本で初めてコンクリートダムが撤去されました。
 ダムがなくなった後、水の水位もかなり下がり、それによって川の流れとか、生態系が回復してきた。球磨川は、アオノリの一種のカワノリとかも有名なんですが、そういうのも全然育ち方が違うとかということも、地元の方から聞いています。ただ、昔に比べると比較にはならず、今年もとれ高は少なく販売が例年より少し遅かったです。

参加者3│ダム撤去の運動をされていらっしゃる方と、この写真に写っている方々はイコールだったりするんですか。

豊田│それは人にもよるので、イコールの方もいれば、立場は様々だと思います。あとは逆に、昭和29年にダムが造られているので、そのダム工事をするためにこちらに移住したというか、その工事のために住み込みで働いていた方とかもおられます。なので、作業員の写真とかもあるんですけれども、その工事のために来た方の集合写真だったりだとか、そのダムができたことによってかさあげをされているので、かさあげ工事の方、地元の方ではない方も写っておられます。

事務局│複雑ですよね。一方ですごく造りつづけていますしね。

豊田│そうですね。複雑でもあるし、今の溝口さんはそういう立場でここに来て、研究やリバーガイド、林業などいろいろなことをしていくんですけれども、水俣病もそうですけれども、これが絶対ということを、私が見る人に対して訴えたりとか、植え付けたりすることはちょっと違うかなと思っていて。なので、やっぱり本のつくりとしては、その暮らしをまずは知ってもらって、その中から、自分たちのフィールドでどういうふうに考えるかとか、そういうダムに関してどういうふうに考えるか。皆さん立場は絶対に違うので、その背景を様々なところで考えていけたらなと。あまりそこに固執はしないけれども、もちろんダムがあったのも事実ですので、暮らしの一部として出したいなというところがあります。

事務局│私たちが行ったときに、豊田さんに案内してもらって、黒岩のほうから入って球磨川の今のここに抜けるようなルートだったんだっけ。

豊田│はい。そうですね。山を越えてきました。

事務局│今お話が出ていましたけれども、山が荒れているんだけれども、荒れている上に、極端な施業をしているから、どんどん土砂が崩れて川に入り込んでいる。だから水害なんだけれども、実はそれは山に原因があるのではないかとか、山の土砂がどんどん入ってくることとか、その中に木がいっぱい混じっているから、それがたまってダンッと鉄砲水みたいになって、その中に根っこも入ったような大きな木が一緒に流れてくるみたいな、どんどん増幅していってしまっているような。その後の風景が、また痛々しかったりとか。
 でも一方で、廃線になった駅も連れて行っていただきましたけれども、そこはきっとみんなが大事にしていたんだろうなという気配があったりして、すごく複雑な気持ちになる旅だったなと、今も思います。でも、また行きたいなと思います。