もくじ

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1. アートプロジェクト{つながりの家}
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2. アートプロジェクト「旅地蔵」
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1. アートプロジェクト{つながりの家}

●ハンセン病療養所の島、大島青松園との出会い

 髙橋伸行です。よろしくお願いします。僕自身はアーティストとして活動しています。専門は、彫刻を出発点としていますが、僕の制作研究はモノをつくるというよりは、どちらかというと関係性を紡いでいくような取り組み方をしています。今日は、{つながりの家}と「旅地蔵」という2つのプロジェクトの内容や、プロジェクトを進めるうえで感じたこと、聞こえてきたまわりの声や関わった人たちの声などを織り交ぜて、スライドをお見せしながら2部構成でお話ししようと思っています。
 まず{つながりの家}という、香川県高松市の大島にあるハンセン病療養所、「大島青松園」で取り組んでいるプロジェクトのお話です。高松港から8キロメートルほど沖にある大島は、瀬戸内海に浮かぶひょうたん型の小さな島で、この島のほぼ全域が療養所になっています。ハンセン病については、みなさん国立ハンセン病資料館の木村哲也さんの講演(第3回講演、2021年11月6日)を聞かれてご存知かと思いますが、らい菌による慢性の感染症で、感染力は弱く、たとえ感染しても自然の免疫があればほとんど発症することがない病気です。
 昔はらい病とも呼ばれていましたが、ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセンがらい菌を発見したことから、ハンセン病と呼ばれるようになりました。治療せず放置すると、末梢神経の麻痺や運動障害など重い後遺症を残すことがあり、とくに手や顔や足など、衣服の外に出ている冷たい部分が侵されて変形を生じることがあり、昔から恐れられてきた病気です。しかし戦後間もなくプロミンという薬が日本に入ってくるようになって、少しずつ治る病気となり、今現在感染する人はほとんどいません。
 その国立療養所は全国に13カ所あって、僕が訪ねる大島青松園はそのなかで唯一の離島にある療養所です。今現在の入所者数は正確にはわかりませんが、2020年5月には49名の入所者がいました。もちろんハンセン病はみなさん完治されていて、高齢と後遺症をケアしながら、穏やかにこの島で暮らしています。しかしかつての療養所は、患者が無理やり連れてこられた場所ですから、たとえば東京の東村山市にある「多磨全生園」では堀の遺構が見つかったり、熊本の「菊池恵楓園」には今もコンクリートの隔離壁が残っていたりと、中と外を隔てる「壁」がありました。大島の場合は周囲が海ですから、海が隔離の「壁」になっている。ですから逃亡するには海を泳ぐリスクがあって、隔離政策にとっては非常に都合のいい場所だった、と言えます。
 大島へは一般航路ではなく、療養所が運営する官用船と呼ばれる船で、北へ20~30分かけて渡ることになります。島の桟橋に着くと美しい砂浜があり、奥に仏塔が見えます。これが納骨堂です。そこから左へ視線を移すと、三角屋根の小さな建物が見えます。これが火葬場です。つまりこの島そのものが、亡くなるまで出られない終生隔離を体現しているんですね。療養してここから出る、ということは前提になっていないことが、この風景をみると明らかに感じられます。療養所には、家族と縁を切って、あるいはすでに死んだことになっていて、もう二度と故郷【ルビ:ふるさと】へ帰れない人もいて、亡くなった後は、この納骨堂に入る方が多かったといわれます。
 僕は、2007年からこの大島に行くようになりました。これまでもいろんな病院でアートを展開するプロジェクトを手がけてきました。昨今では、全国各地でさまざまな芸術祭が行われています。その一つに、2010年から3年ごとに開催され、瀬戸内海の島々を舞台に、島を巡りながらアートを楽しむ「瀬戸内国際芸術祭」があります。その芸術祭が計画された頃に総合ディレクターの北川フラムさんから、「芸術祭ではこの大島は外せない。ほんとうに大切にしたい島なんだ」と相談を受け、とにかく島に行ってみてほしい、と言われました。
 僕がプロジェクトを依頼される時には、作品をつくってほしいとかこうしてほしいという具体的な要望がないことが多いんです。で、療養所のこともよく知らないまま、月に一回ほど大島に通うようになりました。最初は、そこに暮らす入所者の方々とお会いする機会もなく、戸惑っていたのですが、とにかく島のなかをぶらぶら歩きました。1年くらいすると通りがかりの入所者の方々に挨拶するくらいになって、今ちょうどスライドでお見せしているこの野村宏さんが、「あんた、最近よく顔を見るな」と声をかけてくれました。療養所のこともよくわからないので、何度も来ているんですと話すと、よかったら今度一緒にお酒を飲もうかと誘ってくれました。
 僕は愛知県に住んでいるので、愛知のおいしいお酒を持って、次の月に野村さんのお宅に上がらせてもらって、一緒にお酒を酌み交わしました。それからは、お宅や通りがかりなどいろいろな場所で、ハンセン病にまつわるさまざまな差別の体験を聞くようになりました。結婚は認められても男性は断種手術を強制されたり、赤ちゃんができても堕胎させられたりといった入所者の方々のつらい経験を、インタビューではなく世間話のなかでふと伝えられるような関係に、少しずつなっていきました。そういうなかで僕なりにここと関わりをもちながら何ができるのか、ずっと問い続けていたのですが、1年くらい経って、自ら何かをつくりたいとか、自分が大島を題材に何をするかということよりも、この島のこと、ここで生き抜いてこられた方々のことを外に伝えられたらいいな、と、そんな想いが浮かび上がってくるようになりました。

●来島の機会をプロデュースする、{つながりの家}プロジェクト

 入所者のみなさんも、お酒が入るとだいぶ場が和らぐと言うか(笑)、いろんなお話をされるようになる。この大野安長さんは、自分のライフストーリーをふわっとお話されたりとか……。入所された方の多くは出自をたどられるのが怖くて、入所時に本名を捨てて、園名(療養所での名前)を名乗られることが多い。そういう話をうかがうことも、少しずつできるようになった。入所者のみなさんは、僕がまったく近づくことのできないほどの体験をされていて、そういうお話をうかがうことで、自分のなかにみなさんの記憶の断片が、わからないまでも少しずつ染み込んでくるような、そういう気持ちになっていきました。
 入所者が住まわれていたお宅(寮室)は、その人が亡くなると、一度にがさっと荷物がなくなるそうです。その人の人生が終わるとともに、スパッと捨て去られてしまうことに、非常にショックを受けました。残響もなく、ほんとうにポンと静まりかえってしまう。心が大きく揺さぶられた体験でした。僕自身がそうだったように、何度もこの島に来てみたい、もっと知りたい、もっと入所者のみなさんと話をしてみたい、と、そう思える島、何度も訪れたい島になったらいいな、と、強く思いました。
 入所者のみなさんから聞く話も、ほんとうに一人ひとりさまざまで、とても「ハンセン病」というひとつの容れ物に収まるような話ではありません。一人ひとりがここで生きてきたことが、お話を聞くことで伝わってくる。でもそれは島の外にはぜんぜん伝わっていかないし、触れる機会もない。この現状をどうにかしたいという想いが、僕のなかにふつふつと湧いてきました。1996(平成8)年にらい予防法が廃止されて以降、島には自由に入れるのに、ほとんど人が来ていないんですね。瀬戸内国際芸術祭では、この島も会場のひとつとして、多くの人々が訪れる。そのことを僕なりにプロデュースしようと考えたのです。
 そこで、ある女性の入所者に話を聞きに行きました。彼女は、故郷では亡くなったことになっている、つまりこの世にはもういないことになっているとおっしゃっていました。島の外から人が来ると、部屋の外には出たくない、とも言っていた。その彼女に、芸術祭で目的もなく、ふわりと人がやって来るようになったとしたらどう思うか尋ねると、島に人が来てくれるのはとても嬉しい、そんなふうに自然に人が来てくれるのは素敵なことで、いいんじゃないのとおっしゃる。人が来ても自分がここにいることを知られたくない、部屋の外にも出たくないと言っていた彼女が、島が開かれるのはいいことだ、と言ってくれた。それは僕がプロジェクトを進めるうえで、すごく大きな推進力になりました。
 現在の大島の療養所は建物も建て替えられ、きれいに整備されています。島の中心から北側には入所者のみなさんが住まわれていて、とくに「北海道地区」と呼ばれる茶色い屋根の建物群は、かつては入所者がいちばん集中して暮らしていた場所でした。そして島の南側には職員が暮らしていて、かつてこの2カ所は「有毒線」で分けられていました。僕はできる限りこの北にある入所者のみなさんが暮らしてきた場所に、さまざまな取り組みをしていきたいと考えました。
 2010年の芸術祭は、模式図にするとこんな感じです。まず真ん中に、この島を案内してどんな島かを知ってもらう「ガイドツアー」を置きました。その右側の「GALLERY 15」は、この島で暮らしてきた人たちの生活用具などを集めてきて、この島で生きてきた証を展示・表現するギャラリーです。左側には、来訪者も入所者も職員も、誰が訪れてもいい空間「カフェ・シヨル」をつくりました。この3本の柱が、互いに連携し循環していくプロジェクトにしようと考えたわけです。2007年から僕がこの島に通い続けるなかで、何度も足を運び、みなさんの間を訪ね、お話を聞きたくなった、そういう自分の興味が深まり、自分自身を映し出してくれる鏡のようなこの島に、何度も来てほしいという僕の思いが、このプロジェクトの根っこにあります。
 カフェ・シヨルは、療養所を訪れた人が入所者と面会したり宿泊した場所を、自分たちで漆喰を塗るなどして改装しました。器を見てください。これらの器も自分たちでつくりました。大島の土で焼き物をつくろうと1年前から準備を始め、大島で掘った土を砕き、ふるいにかけて精製します。その土で器をつくるワークショップも行いました。声がけしていろんな人を巻き込んでつくりました。そして食材は、この島で採れるものを使っています。先ほどの野村さんが育てている柑橘類も使います。それをジャムやピールに加工したり、クッキーに練り込んで焼いたりするワークショップも行いました。まだカフェの開店前の段階で、女性の入所者を招いてお茶会というか試食会を開いたこともあります。
 その島で採れるものを食べ、入所者の話を聞く……。そういう場が、まさにカフェでやりたいことなんですね。隔離政策の頃は、入所者が出したお茶や食べ物になかなか手をつけてもらえなかったそうです。でもここでは、島で採れたものや、入所者が手塩にかけて育てた野菜や果物を味わい、入所者が来訪者と同じ空間にいて、話をしてもいいししなくてもいい、そういう場所をつくり出そうとした。カフェは自然に人が集いやすいし、入所者も気兼ねなく訪れやすい。形式張った証言を得るためではなく、ただお茶を飲みに来るだけでもいいし、自然に会話が始まれば、つながりがどんどんつくり出されていくわけです。
 入所者に会える機会があり、話を聞くことができれば、島のこともわかってきますし、入所者のみなさんがどんな気持ちでこの島で暮らしてきたのかも、ここでどんなことが起きていたのかも、だんだんわかってきます。その、わかっていくことが、次はどう伝えていくかに変わっていく。入所者のみなさんも誰かに語る経験をとおして、伝えたいことが見えてくるし、ガイドツアーでガイドをする僕たちも、取材と同時に、その伝え方について入所者のみなさんと相談することができ、ガイドとして育っていくことができる。初めて芸術祭でお客さんとして来た方が、後ろ髪を引かれるようにして帰っていき、また来ました、次も来ます、と言っているうちにガイドになった人が、何人もいます。

●プロジェクト実現にために超えてきた「壁」

 芸術祭が始まる前、僕は「芸術祭が始まったら、絶対人が来ます」と言っていたのに、入所者のみなさんは「来るわけないだろう」とか、「この島には何も見せるものはない」と口々におっしゃっていました。でもいざ2010年に芸術祭が始まると、この脇林清さんのように、来場者に積極的に語りかける入所者も出てきました。もちろん入所者のみなさんがすべてそうなる必要はないけれど、芸術祭の来場者にとってはツアーや展示、カフェでの飲食だけではなく、入所者から直接話が聞けることは、何にも替えがたい経験だと思います。
 島に船が着く時間は、入所者であればみな知っています。船が着いて来場者が歩いてくる頃を見計らって散歩に出て、タイミングよく「ああ、どうも。こんにちは」と出会って、ちょっとそこで立ち話する。そんな、確信犯的にお客さんを待つかわいらしい入所者もいたりして、一般公開が始まってみると誰も来ないなんてことはなくて、少しずつだけれど確実に、リピーターの循環もできていきました。僕もそうでしたから、大島を訪れる彼ら彼女らも、この島に何度も来たくなるんだ、と、そういう確信がありました。
 これはカフェで、ガイドと来訪者が語らうようすです。入所者はこんなふうにさりげなくカフェに来てお茶を飲んだり、来訪者と話したり、ただそこに佇んでいたり、と、そういう空間が生み出されていった。友だちとの待ち合わせにカフェを使う入所者もいます。その後、入所者が暮らしていた場所を改装した「社会交流館」が新しくでき、今はそこにカフェを移して、月1〜2回ですが運営を続けています。この空間は{つながりの家}のプロジェクトでもいちばん人が集う場所でもあるし、循環をつかさどる場所、人と人をつなげていく場所となっています。
 ほかにもいろいろな取り組みがあるのですが、いったんこのあたりで話を切りましょう。

——宮下◉どうもありがとうございました。みなさんは療養所に行かれたことはありますか。私も日本中にある療養所のいくつかにうかがったことがありますが、暖かいところの療養所と北の方にある療養所では、すごく雰囲気が違っているんですね。大島でミカンを採って食べている姿は、とてもいいなと思いました。何か聞いてみたいことや、ご自身の経験などあれば、みなさんぜひお話いただけますか。

参加者1◉そのカフェは1年を通して開いているのですか? 開いていれば私たちが外部から行くこともできますか? それと、ガイドやカフェで働く人はどんな人たちなんでしょうか?

髙橋◉療養所は国立なので、そのなかで営業することはとても難しいことなんですね。建物は病院であり病室ですから、その建物で営業することも、法律上非常にハードルが高い。僕がカフェを提案した時、そこには療養所を運営している職員の方たちや入所者自治会、芸術祭の実行委員会の代表者の方々に集まってもらって一緒に検討を重ねました。営業が難しいならお金を使わないカフェにしようというアイデアもありましたが、「カフェがあったら(お金を払って)誰かにご馳走したい」と、入所者のみなさんに反対されました。僕はそれがすごく嬉しかった。で、どうしたら実現できるか、職員さんたちが考えてくれました。
 芸術祭は3年ごとで、会期中は毎週土日にカフェを開けました。会期以外は月に1〜2回開いています。いつも開いているといいのですが、それも難しいし、島のものを食べてもらうとすると食材も限られ、準備する期間も必要です。運営は、この{つながりの家}のプロジェクトに中心的に携わっている僕以外の2人のメンバーで始めて、今は「こえび隊」という、芸術祭のボランティア・サポーターの方々が自主的に引き継いでくれています。お金に関して言えば、ほんとうにトントンというか、利潤がわっと出るようなことはなくて、プラスマイナスゼロでいければいいね、という感じでやっています。
 少し話が外れますが、瀬戸内にはこの大島青松園の他に長島愛生園と邑久光明園があり、瀬戸内三園と呼ばれています。長島には「さざなみハウス」というカフェができて、常時開く理想的な運営をされています。僕はまだ行ったことがないのですが……。

宮下◉私、行きました。すごく素敵です。

髙橋◉そうですか。よかった、よかった。直接関わったわけではもちろんないのですが、僕たちのプロジェクトがそういう動きにもつながっているのかな、と。いろいろなかたちで、そういうふうに広がっていくといいなと思っています。

参加者1◉ありがとうございます。国立の施設だからカフェ営業のハードルが高い、というお話にはガーンときました。そうだったのか、と。ありがとうございます。

髙橋◉とくに大島は離島ですから、島には船で渡るしかありません。船は官用船で、観光に訪れるお客さんを乗せるようにはできていないとのことで、最初は芸術祭の来場者は乗せないと言われたんです。この交渉がものすごく大変だった。ハンセン病問題基本法など、療養所の入所者の尊厳や日常を回復する法律が整備されていますが、それもごく最近のことです。その過程にあって、とうぜん国営の船がお客さんを乗せて、島とその外をつなぐ役割を担う必要も出てくるだろうと。そうして丁寧に、丁寧に、交渉というか相談しながら、いいかたちになるようにつくっていったという感じです。

2. アートプロジェクト「旅地蔵」

●分断された川を遡る、というプロジェクト

 先ほどは瀬戸内国際芸術祭の話をしました。この「旅地蔵」の話は、新潟県で開催された「水と土の芸術祭」で行ったプロジェクトです。「水と土の芸術祭」は2018年でいったん終了し、次回がない状況です。僕は2015年の第3回の参加作家として、ここでも芸術祭ディレクターからはどこにどういう作品をつくってくれというのではなく、とにかく来てほしいという話でした。
 この芸術祭のサブテーマは新潟の「潟【ルビ:かた】」、いわゆる湿地ですね。川と海が混ざり合うような湿地の部分。新潟市内はとくにこの潟に覆われ、たまる水を常にポンプで外に出しているような場所なんですね。テーマは潟でしたが僕が興味をもったのは新潟水俣病、潟ではなく阿賀野川に目を向けました。これも芸術祭からの要請ではないです。
 新潟県が作成した地図には、新潟水俣病の認定患者数などが書かれています。地図の上(北)の河口からずっと遡ると、上流の紺色の矢印のところに「旧昭和電工鹿瀬工場」と書いてあります。この鹿瀬町にある化学工場から有機水銀、有毒なメチル水銀が垂れ流され、この川を伝って、食物連鎖で魚などに濃縮されました。それを食べた人々が水俣病になっていったわけです。水俣病については相思社の永野三智さんからお話があったと思いますので(第2回講演、2021年10月8日)そこは省略しますが、僕は阿賀野川に興味をもってリサーチに出かけ、自分なりにいろいろ調べてみました。
 鹿瀬町には昭和電工の鹿瀬工場(現在:新潟昭和株式会社)があり、そのさらに上流に、草倉銅山という銅山跡地があります。かつて人が住んでいた名残で神社の跡がありますが、建物は何も残っていない。

宮下◉古い神社なんですか?

 そうですね、銅山が開かれていた頃なのでかなり昔だと思うんですが、1729年に鉱脈が見つかって、その後栄えていったそうです。今はもう完全に廃村になっていて、とうぜん人も住んでいないし、何もない状態です。ところどころ鉱山だった名残が残っていて、僕はここがめちゃくちゃ気に入った。この写真を見て、みなさんはどこを気に入ったのか不思議に思われるかもしれませんが、機会があったらぜひ行ってみてください。冬は雪で、なかなか林道まで行けないのですが……。
 この鉱山跡地には無縁仏というか、お参りする方もいないお墓があるのですが、ここに来た時僕はぜんぜん嫌な気がしなくて、むしろ招かれたような、すがすがしい気持ちになりました。これは「友子同盟」といって、坑夫たちの自助組織の名残りです。坑夫はじん肺になったり、落盤事故で早死にする人も多い。そこで常に親方が立って、自助組織をつくってきたのですが、そうして命を落とした人たちのお墓なんですね。ここがものすごく気に入って、僕は絶対もう一度くる場所だと直感しました。完全に僕の思い込みですけれども(笑)。
 これは草倉銅山が一番栄えていた頃の写真です。6000人が暮らしたそうです。この阿賀野川で魚を獲って食べて、のちにそれで新潟水俣病になる人が出てくるのですが、それは逆に言えば、魚を獲って食べる、子どもたちが川で遊んで魚を釣って、それが食卓にあがる、そういうあたりまえな川と人間の共生関係があったわけですよね。それが、ダムができて化学工場ができることで分断されてしまった。交通の重要な役割を担っていた川が分断されることで、その役割を終えてしまう。ここには、さまざまな層の分断がいくつも折り重なっているわけです。川を遡上することで、その分断の間を歩き貫くことはできないか、というのが、僕の大もとのプランでした。

●熊本と新潟、水俣病がつなぐお地蔵さんの物語と出会う

 これはプロジェクトの最初のメモです。頭の隅には大島青松園のこともありました。大島青松園の分断は、法律だったり、陸と隔てる海だったり、形が見える分断でした。ところが阿賀野川では、目に見えない分断がいっぱい層状に重なっている。僕は、その間をいかに突き抜けて歩けるか、を考えました。しかしどれだけ練っても、これは僕の旅なんですよね。歩くことによって見えてくる、僕の旅でしかない。その限界がずっと自分のなかにありました。
 そんな時、僕は旗野秀人さんという方に出会います。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、新潟水俣病の安田町患者の会が国や企業を訴えて裁判を起こした時、旗野さんは、原告団の調整や、手続きの履行などの役割を果たします。旗野さんはそれだけでは足りないと思い、分断からどのようにつながりを回復し、生き生きと生きていけるようになるのかを考え、早い時期から文化的交流にも取り組んでおられました。裁判は自分の存在、「私は確かにここにいる」と訴えることでもあるのですが、そこには文化の力が必要だ、ということですね。
 いろいろリサーチしていくなかで、旗野さんはどうしても会わなければならない、会いたい人でした。旗野さんに会っていろんな話をうかがうなかに、熊本の水俣病で、企業や国を相手取って直談判するなど、苛烈な闘争をしてきた川本輝夫さんという方の話がありました。旗野さんは川本さんと出会うことで、自分が生まれ育った安田町にも水俣病の人がいるのではないか、差別を恐れて言い出せないのではないか、と考え、そういう人たちを発見し、対話を重ねながら、自分たちの尊厳を取り戻そうとしてきたという話もうかがいました。
 旗野さんや川本さんに関して、よく知られているのは裁判闘争の話です。でも、じつは旗野さんが川本さんと約束してつくったお地蔵さんがあって、「そのお地蔵さんには兄弟地蔵がいてね」なんていう話が、水俣病の話のなかで出てくるわけです。川本さんは1999年に亡くなりましたが、94年に旗野さんが川本さんと朝までお酒を酌み交わした時、「いろいろ闘争してきたけれど、ほんとうはお地蔵さんを建てたいんだ」と、ぼそっとおっしゃったそうです。旗野さんはその声に応えるかたちで、阿賀野川の石でつくられたお地蔵さんを、川本さんに贈ったそうです。喜んだ川本さんは、水俣市の排水口に向き合うようにそのお地蔵さんを建てた。それも県有地で、許可のないところにいきなりぼんと建ててしまった。

宮下◉その排水口は、化学工業メーカーであるチッソが、メチル水銀化合物で汚染された廃液を海に垂れ流していた「百間排水口」ですね。

 ええ、そこに向き合うように建立してしまった。1998年には、今度は旗野さんが水俣の石を新潟の阿賀野市に持ち帰って、旗野さんの出身地の安田町に近い、阿賀野川の中流あたりの千唐仁というところにお地蔵さんを建てるんです。川本さんは無理やりでしたが、千唐仁ではじっくりと交渉したそうです。やはり地元のみなさんは、水俣病のことを話すのを嫌うし、水俣病にかかわるお地蔵さんを建てるとなると、——建ててしまったら誰も動かせなくなりますから、断られてしまい、なかなか難しかったわけです。でも紆余曲折あって何とか建てられた。
 で、その次は阿賀野川の石に彫られたお地蔵さんを、足尾銅山にゆかりのある群馬県の雲龍寺に建てました。(足尾銅山と草倉銅山の関係のお話はここでは省略しますが)じつはその後足尾銅山にゆかりのある渡良瀬川の石にお地蔵さんを彫ったのだけれど、まだどこにも置かれないまま石工の工房で眠っているというんですね。これを聞いてびっくりしました。お地蔵さんを彫ったけれど、その行き場がないわけです。置く場所もない。だから、この物語はここで終わってしまった。旗野さんからたくさんうかがったお話のごく一部のエピソードでしたが、僕はすごく気になって、ずっと頭に残って離れなかった。それがある時、僕がずっと考え続けていた川を遡る旅と、ガチーンとつながった。だったらお地蔵さんと一緒に旅をすればいいじゃん、と思ったんです。
 となれば、これは僕の旅であり、僕以外の誰かの旅にもなるというイメージに、パンと切り替わった。お地蔵さんと旅をするこのプランでは、お地蔵さんが主役で、僕はそのお供するわけです。お地蔵さんが、先ほどお話しした「見えない分断」を横切るように、ずっと歩いていくわけです。お地蔵さんを連れ出すなんて話をしたら、旗野さんにすごく叱られると思っていたのですが、「バチ当たり」とは言われましたが(笑)、「いいんじゃない、ばかばかしくて」と言ってもらえた。僕もちょっと拍子抜けして、では決行しよう、ということになりました。

●全行程10 日間、お地蔵さんと阿賀野川を遡る旅

 旗野さんからそのお地蔵さんは重さ30キロくらいだと聞いていたので、最初は背負って練り歩くイメージでしたが、実際に背負ってみると70~80キロはあって、とても背負って歩けません。結局リヤカーに乗せて、キャンプ道具も乗せて、全行程10日間、河口から阿賀野川を遡る旅を始めました。この旅の物語は、ぜひ記録集『旅地蔵 阿賀をゆく』を読んでいただけるとうれしいです。
 旅の先々でお地蔵さんを囲む人たちのなかには、水俣病の患者さんも含まれているのですが、みんな「何やってるんだろう」と笑ってしまうんですよね。聞きつけた子どもたちが集まってくれたり、お酒やら何やらいろいろなものを持ち寄ってくれる人もいて、リヤカーがどんどん重くなる。上流に向かうほど坂が急になっていくところを登っていくのでリヤカーは軽い方がいいのに、困ったもので、どんどん重くなっていく(笑)。
 ここでは小学校の先生たちが集まってくれました。この小学校を卒業した中学生が通りがかって、先生たちとの久しぶりの再会となりました。お地蔵さんの御利益ですね。横越というところでは聞きつけた人がお昼ご飯を用意してくれていて、一緒にご飯を食べ、記念撮影しました。もうなんかね、この旅は僕の手から離れちゃっているんです。お地蔵さんのいいところは、子どもや年配の方にも大人気なこと。しかものろのろと移動してくるものだから、それだけでおかしくて「壁」が取れてしまう。
 みんながお地蔵さんに触れるんです。僕が「触って」と言っているわけではないのに、みんなこうしてぺたぺた触る。お地蔵さんにいろいろな記憶が刷り込まれていくというか、吸い込まれていくというか……。僕とお地蔵さんが通りかかるのを見つけて、お花を捧げたいと追いかけてきてくれた女性もいます。その写真を撮りましたが、その表情は僕にではなく、お地蔵さんにに向けられたものですよね。僕はお地蔵さん越しに、こうして人々の表情に出会っていくんですが、何とも言えない気持ちになりますね。こうやってお花を捧げる方が何人もいらっしゃいました。植木職人の方々も、「何だ何だ?」と言って、仕事の手を止めて来てくれました。
 これは大栄寺という禅寺とその雲水さんたちです。修行増がいるお寺で、ここに一晩泊めてもらいました。朝の4時からお勤めを一緒にして、みんなでおかゆを食べました。みなさん黙って静かに食べるんですが、忘れられないのは、咀嚼音が部屋全体に響いていたこと。シーンとしたなかでそこにいる人全員の咀嚼音だけが聞こえるって、何とも言えないですね。この方はクリスチャンです。これもお地蔵さんのいいところで、宗教宗派は一切関係ない。どんな人もこうして手を合わせてくれたり、拝んでくれたり、挨拶してくれたりする。これは、先ほどお話しした千唐仁のお地蔵さんと、並んで建てられている赤い帽子をかぶった「虫地蔵」との対面の場面です。虫地蔵は、昔流行ったツツガムシ病という病気で亡くなった方々を弔うために建てられたお地蔵さんです。
 これも面白いんですけど、バーベキューをしている人たちの横を通りかかったら「食べていけ」と言われ、そのままビールや焼肉をごちそうになりました。「みなさんはなぜ集まっているんですか」と尋ねると、お父さんとお母さんがここに住んでいて、この日は結婚して家を出た娘さん3人が、それぞれ家族を連れて集まる日だったそうです。年に一度の記念すべき日に、たまたまお地蔵さんが通りかかった。ここでまたいろいろな話を聞くんですが、そのお父さんが昔石切場で働いていて、このお地蔵さんを彫った石工と知り合いだったとか、いろんなつながりが見えてくる。分断どころかつながることが多くて、ほんとうに不思議な旅です。
 どうしてもリヤカーを引いて歩けない危険なところでは、船に乗せてもらったこともありました。みんな寄ってたかって、お地蔵さんを「たちかわ丸」という船に乗せているところです。ハーレーに乗って通りかかったおじさんたちも、革ジャンと革パン姿で手伝ってくれました。ここでぽちゃんと川に落としてしまったら、旅は終了です(笑)。
 船の持ち主の立川小三郎さんは阿賀野川の渡し船の船頭さんだった方で、同じく船頭さんだったお父さんを水俣病で亡くされ、ご本人も水俣病なんです。船頭さんですから、船に乗ったお客さんからいろんなうわさ話が耳に入ってきます。水俣病裁判の話になると、どこの誰々はニセ患者で、補償金目当てに訴訟に立ったとか、差別的な話を日常的にずっと聞いてきたといいます。だから自分が水俣病だとわかっていても、誰にも言い出せなかったそうです。立川さんには娘さんがいて、娘さんが結婚されてから、ようやく自分は水俣病だと公表した。そういう方がたくさんいるんですね。この写真は「たちかわ丸」に乗せてもらっているところです。立川さんはお地蔵さんをお連れするという気持ちで、めちゃくちゃ気合が入っています。僕はいい気なもので、手を振っていますね(笑)。
 またリヤカーに乗せて、トンネルをくぐり、キャンプをしたり、石間ではお米をもらったり、そのお米を炊いて夜を過ごしたり……。さらに遡っていくと、だんだん山がちになってきます。この頃になると傾斜が急になって、かなり厳しい。体は旅に慣れてきているのですが、みなさんが持ち寄ってくれたものでリヤカーがどんどん重くなって。ようやく、新潟水俣病の有毒なメチル水銀が流された排水口にたどり着きます。今は新潟昭和という会社名になっていますが、その当時と形は変わりません。その旧昭和電工の門のところまで来ました。僕は工場の中までお地蔵さんを連れていくべきかどうか、最後の最後まで迷っていました。で、結局中に入ることはやめて、門のところで30分ほど休憩することにしました。
 建物からこちらを窺っている気配はするのですが、誰も出てきません。社名が変わって、今は管理が行き届いて有毒物質を流しているわけではないけれど、やはりここで働く方々は、水俣病を意識せざるを得ないですよね。この時点で、お地蔵さんを連れて歩く僕の話は方々に伝わっているはずです。で、さぁ出かけようとなった時、奥の事務所から一人の年配の方が出てこられ、「どこから来られましたか」と僕に話しかけました。河口からずっと旅してきたと答えると、その方は「これからも気をつけて旅を続けてくださいね、旅の無事を祈っています」とおっしゃいました。その方はお地蔵さんに手を合わせることはなかったのですが、その方の作業着には「昭和電工」と書いてあって、昭和電工時代の作業着を着て出てこられたことがわかりました。僕はそれ以上尋ねませんでしたが、お地蔵さんには会わなければ、と、出てこられたのではないかと想像しています。
 そのすぐ先に鹿瀬ダムがあり、そのふもとには神社の跡地があります。この日はここでキャンプをしました。翌日はここから草倉銅山へ、半日かけて登ぼります。九十九折【ルビ:つづらおり】で、かなり急な坂道です。そこに、朝一番で助っ人が来ました。写真の左から2番目が旗野さんです。旗野さんは朝からでも必ずビールで一杯飲まないと始まらない(笑)。お地蔵さんにはすでにお酒がかけられています。こうして、さらに坂のきつい山の中へ入って行きました。
 ここで斜面が急すぎて、お地蔵さんがリヤカーから転げ落ちる大ハプニングが起こりました。ごろん、ごろん、ごろんと、お地蔵さんが転がっていくさまが、僕にはまるでスローモーションのように感じられました。さぁ大変です。みんなあわてて集まって、写真で見ると心臓マッサージをしているみたいですね。ほんとうに派手に落ちたので、僕はここで旅は終わりだと思った。この表情を見てください。写真の下の方に赤いお賽銭袋が写っていますね。これには道中、みんなが入れてくれたお金が入っていました。この袋がまず先に着地、その上にお地蔵さんが落ちたため、ほぼ無傷だった。奇跡的にどこも欠けることなく、お地蔵さんは無事だったんです。気を取り直してお地蔵さんをリヤカーに戻し、ほどなくして草倉銅山に着きました。
 まだまだ続きがあります。もうちょっとお話しさせてくださいね。ここから銅山の跡地を通って、お地蔵さんを友子同盟のお墓まで連れていくと、僕は勝手にも約束していました。でも銅山跡地は道が悪くて、リヤカーでは行けません。みんなでいろいろと知恵を絞ったのですが、ここは原点に戻って「背負って歩く」ことにしました。写真では、みんな笑っているでしょう。お酒も飲んでいるし、頭がハイになっていて、僕が「背負います」と言ったら、みんなは「えーっ」と言いながら笑っているんです。こっそり背負い子だけはリヤカーにしのばせてありました。みなさんに手伝ってもらいながら、谷あいに落っこちてしまってもいけないので、足場の悪いところでは支えてもらいながら、最後の最後は背負って歩き、ようやく目的地の友子同盟のお墓のもとに着きました。
 写真で僕と握手をしているこの方は、旧昭和電工の鹿瀬工場があった鹿瀬で生まれ育った方です。最後の旅をご一緒してくれました。到着したら、自然に握手をしたくなった。旗野さんも上機嫌で、またここで一杯飲んでいましたけれど、友子同盟と一緒に記念撮影して、この旅は終わりました。「旅地蔵」のお話は、いったんここで終わりたいと思います。あれ、ちょっと待ってくださいね。あれ……。

宮下◉お地蔵さんが終わりたくないと言っているんじゃないですか(笑)。

●自分が「何とつながり得るのか」を考える

 では、ついでにお話しします。このお地蔵さんは行き場がなくなったとお話ししました。旅地蔵プロジェクトの1年後の4月1日。旗野さんもよりによってなぜこの日を選ぶかなと思ったのですが、エイプリルフールの日にお地蔵さんを建てることができたんです。しかも永久設置できた。鹿瀬工場の近くの、先ほどお話しした鹿瀬ダム近くの神社跡地の地主のおじいさまがかつて草倉銅山で働いていた方らしく、それが縁で旗野さんが時間をかけて説得して、この旅地蔵はめでたく「旅」が外れて、「草倉地蔵」となって今、この地に根をはやしています。

宮下◉よかったですね。お疲れさまでした。今回の連続講演では、福祉や医療、社会制度の問題など、それぞれの現場からのお話をいただいてきました。今日のお話には「文化の力が必要」という言葉もあったように、既存の社会的な枠組みとは少し違うところからアプローチされているんだな、という印象がありました。だからこそ、「ばかばかしくていいんじゃない?」と言われながら、でもいろいろな壁や分断をしなやかに乗り越えていくことができた。私も一緒に旅をしたい、キャンプもいいな、という気持ちになりました。ありがとうございました。
 みなさん、質問でも、自分もこうしてみたいということがあれば、ぜひお話しいただきたいなと思います。

参加者2◉とても考えさせられるというか、いろいろと思い出すこともありました。大学時代に佐藤真さんという映画監督をお招きしたことがあり、先ほどの大島青松園での{つながりの家}というプロジェクトの写真を拝見して、佐藤監督が夭折した写真家・牛腸茂雄を描いた「SELF AND OTHERS」(2000年)というドキュメンタリー作品を思い出したりもしました。
 自分は今山梨で農業をしているのですが、父の代くらいで地域のつながりもなくなってきています。髙橋さんの作品は、地域の人たちが生きている場所に外から来訪者として訪れることをとおして、人のつながりや、自分たちの生活を見直していく。災害や病気、その対処の歴史、そうしたものの記憶など、地域の中の人だけではどうにもならないことに対して、美術というか、髙橋さんの生き方のなかで、見つけ出したり祈ったりして、向かい合っていらっしゃるように感じました。
 髙橋さんの作品は、完結しないまま残されていくんですね。ちょうど先日とても感銘深い美術の連続講義があって、「未完成」という話が出ていました。今の美術の多くは、プロジェクトの期間や予算の都合で「終わり」があるのですが、髙橋さんの作品は必ず残っていく。作品だけではなく、「こういうことができた」ということは、髙橋さんの手を離れても残っていく。自分は美術を勉強していませんが、美術に惹かれるものはあって、それは何だろうなと、この連続講義に参加しながら考えていました。髙橋さんがやられていることももちろん美術で、自分が惹かれている理由としていろいろと考えさせてくれることがあって、話をうかがえてすごくよかったと思います。ありがとうございました。

宮下◉生活は完成しない。そうですよね。プロジェクトだと「終わり」という言い方をしますが、確かに生活はほんとうに終わらないですからね。

参加者2◉もう1点、瀬戸内国際芸術祭の{つながりの家}のプロジェクトでは、誰かからダメだと言われたり、そんなところにお金をかけるのかと言われたり、「自分とはつながらない、自分と関係ない」という分断が、社会のなかにすごくあると感じました。すごく個人中心で社会が成り立っている。しかし美術作品も誰かに見られなければ成立しないし、生活も、ほかの誰かがいないとまったく成立しない。髙橋さんは、時間とかものごとを超えて、自分は何とつながり得るのか、すごく考えさせていただけるプロジェクトを展開されていて、いろいろと勉強させてもらえたらと思いました。ありがとうございました。

髙橋◉ありがとうございます。

——宮下◉髙橋さん、どうもありがとうございました。また次の旅では、出かける前に声をかけていただいて一緒に行きたいな、と、とても思いました。

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