呉夏枝(お・はぢ)
美術家。大阪府生まれ、オーストラリア在住。京都市立芸術大学美術研究科博士号取得。主に、織、染、ほどくなど、繊維素材にまつわる技法を用い、写真、テキスト、音声などを併用したインスタレーション作品を制作。在日韓国人3世の出自を背景に、抑圧によって語られなかった個人の記憶、歴史に埋もれている沈黙の記憶にまつわる作品を制作。ワークショップを介した対話や経験をもとに、記憶の継承の可能性を探求している。
近年の主な展覧会として、2023「KANTEN観展:The Limits of History」(Apexart、ニューヨーク、アメリカ)、「Texture」(Canberra Contemporary Art Space、キャンベラ、オーストラリア)、2022-2023「六本木クロッシング2022:往来オーライ」(森美術館、東京)、2022「布の翼」(染・清流館、京都)、「おばあさんのくらし 記憶の水脈をたどる」(小金井アートスポットシャットー2F、東京)、2029-2020「展示と対話のプログラム アートセンターをひらく」(水戸芸術館、茨城)、2019「手にたくす、糸へたくす」(小山市車屋美術館、栃木)、2017「-仮想の島-grandmother island」(MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w、京都)、2015「Wearing Memory」(TEAM Gallery,ウロンゴン大学、オーストラリア)など多数。2024年に第5回Tokyo Contemporary Art Award(TCAA)2024-2026(リンク:https://www.tokyocontemporaryartaward.jp/)の受賞者に選ばれる。https://hajioh.com/
アートを通して語られない記憶を残す試み
──AA
呉夏枝さんは、歴史の表に出てくることのない女性たちの記憶をテーマに布や織物、着物といったテキスタイルを用いて作品を発表されています。なぜ布を使われるのか、また、なぜ記憶をテーマにされるのかお伺いできますか?
呉
もともと大学では染織を専攻していましたが、だんだんと素材に興味がうつり、織について研究するようになりました。同じ頃に自分のルーツを訪ねたり、アイデンティティについて考えることが多くなり、その過程の中で、自分で織った布で韓国の民族衣装(チマ・チョゴリ)をつくりたいと思ったんですね。韓国の人が見れば日本の着物のようであり、日本の人が見れば韓国のものだねと言われるようなものをつくりたいという気持ちがありました。
そうしたら、その制作をしている最中に祖母が亡くなって。母が取り置いてくれた祖母の遺品のチマ・チョゴリを部屋にかけて眺めていたときに、そこに祖母がいるように強く感じられたんです。このチマ・チョゴリは祖母自身を表しているものだと思うと同時に、祖母が経験してきたことを想像してもらうことが作品になるんじゃないか、それは記憶を残すということにもつながるんじゃないか、と思ったんですね。
──AA
お祖母さんは、韓国の済州島から大阪に移ってこられた方でしたね。
呉
ええ、在日の女性として、祖母は自分が経験してきたことを私に語りませんでした。それは言葉の問題や私が外孫だからとか、いろいろな要因があったと思います。でも、生活の様子などはもちろんわかっていましたから、語られなかった記憶があるということがすごく印象的でした。ですから、そうやって語らなかった祖母の記憶を残していきたいと思い、最初に祖母のチマ・チョゴリをモチーフにした作品をつくったことがきっかけです。
──AA
2014年、私たちのスペースである小金井アートスポットシャトー2Fでも個展をしていただきました。
呉
あのときは私の親族が着たチマ・チョゴリを写真に撮り、ジュートロープという素材を使って現代アートの作品にしました。在日の着るチマ・チョゴリは、本国の文化とちょっと違うところがあって、在日社会の流行があるし、化繊でできていて凝った織のものでもありません。ですから、こういうものが残っていくのか疑問だったので、作品にすれば残せるんじゃないかと思ったんですね。
──AA
アートは、記憶を残す、あるいは出来事の深部に至るというというところにもつながるものなのですね。どうしても記憶を残すということにおいて、この社会では言葉あるいは文字で残された歴史ばかり見てしまうところがありますが、作品を作ることをとおして、言語化できない、一見不明瞭ではあるけれどより本質的なところを掴み取ることができるように思いますね。
呉さんのお祖母さんのチマ(スカート)の写真作品には、風を感じます。それから、遥かな時間というか。チマ・チョゴリそのものがあることとは別の風。展示前の設営を拝見していて、なぜ、実物ではなく写真作品なのだろう?と思いましたが、設営が終わり展示が始まった時に、写真作品であることに大いに納得した覚えがあります。
ただ、チマ・チョゴリは日本の着物に相当するものだと思いますが、日本の社会におけるチマ・チョゴリは、また違うメッセージを孕んでいますよね。
呉
そうですね。私の中で課題になったのがそこでした。結局、チマ・チョゴリを使うことで、見る人は、「この人は在日の作家だから、チマ・チョゴリで作品をつくっているんだ」となります。でもそうなると、その向こう側にある、語られなかった祖母の記憶まではたどり着きません。私としては、在日韓国人が晴れの日に喜びを感じながら着る日常の感覚を表現したかったので、それで、ジュートロープなどの素材をインスタレーションの中に取り入れたり、インスタレーションと写真を組み合わせるなどして、作品の意味を広げていきました。
──AA
この展示の時には、「ほぐす」というワークショップも実施しましたね。ほぐすという行為は、呉さんの中でどういう意味を持っているのでしょうか。
呉
解体し、「ほぐす」ということは、ある意味暴力的な行為でもありますが、それを自分が感じて作品にしていく責任があると思ってやっているんですね。
──AA
つまり、ある形を持っていたものを単に「ほどいた」、というだけでなく、それを別の何かに転換していくということでしょうか?
呉
ええ、私の中では、ほどく行為を経ることで、例えばそこにどういう記憶があり、作品にすることがどういうことなのかを考えるきっかけになりました。それは、結果的に自分がテーマにしていることに対して、どう向き合うかという作家としてのスタンスの醸成にもつながっていきました。素材の選び方や表現の仕方、テーマとの関係性、自分の作家としての最終的な形にも表れてくる重要なプロセスになったと思っています。
一方で、日本はいろんな素材が手に入りやすく、浮かんだアイディア通りに発注すれば作品がつくれるような環境があります。そうやって完成させる作品もあるかもしれませんが、私がやったことは、もっと根本的な部分から素材に触れることでした。むしろ、解体したり、ほどいたものから再びつくっていく過程で生まれるいろいろな葛藤の一つひとつに向き合うことができると考えたんですね。そういう葛藤は、その過程を見る鑑賞者と共有できることだと思ったので。
──AA
例えばどういう葛藤があるでしょうか?
呉
今取り組んでいる制作でもそうですが、祖母の記憶について作品にするにしても、祖母とはいえやはり他者ですから、代弁はできないし、してもいけないという葛藤があります。だからこそ、祖母の語らなかった記憶を実際に巡ることでわかろうとします。
それから、どういうふうにして私は他者との関係をつくれるだろうか、当事者性がどこにあるだろうかということを考えます。例えば祖母の記憶についての私の当事者性は「何も知らない」ということです。そのように知らないことを作品にすることが、同じように「何も知らない」他の人と共感できる部分になると思いました。
私が自分の作品について自覚していることは、敢えて中心部分をつくらないということです。中心よりも周りにあるものや輪郭を立てるようなことを意識しているんですね。そうすることで、作品のメッセージ性は少し弱いものになるかもしれないけれど、それでいいと思っているんですね。
──AA
中心部分をつくらないとは、メッセージを強く打ち出さないということでしょうか?
呉
というよりも、わからないという葛藤をずっと続けるしかないと思っているんですね。もちろん、文献を読んだり、誰かに会いに行って話を聞くこともします。そういうことが直接的に祖母の記憶と関わるかわからないけれど、少なくとも祖母のおかれた状況を想像するための要素は増えていくわけで、その一つひとつの要素が作品のイメージのタネになっていくという実感があるんですよ。
──AA
とても大切なことですね。ある力を持ってわかりやすさを明確に押し出すことは、作品の前に立った鑑賞者の感じることの可能性を奪い取ってしまい、作家の暴力につながる。作家は答えを提示する人ではないですよね。むしろともにあって、異なるものではあるけれど、ともに道を探す、ときに、少し先から道を照らす人、と感じています。
自分とは関わりのない他者の時間と空間を想像する
──AA
なぜ呉さんが語れないことを語れないままとして持ち続けていられるのかが、とても大切なことだと思いました。それは一方で、ちゃんと問うているからだと思いますし、語れないものが語れないままであるなら、それは空疎だけど、自分が思いを馳せながらずっと問い続けていれば、中心はなくても、空疎ではないものが満ちてくる。
それは、水戸芸術館での戦争花嫁さんをテーマにしたインスタレーションにもすごく感じたことです。あのときも、呉さんふくめて、展示に参加された市民の方々はみなわかりやすい意味での当事者ではなかったけれど、戦争花嫁*として生きた人たちの道筋をそれぞれの方の経験を持って辿るということをされていました。
*太平洋戦争の終結後、おもに米軍兵士と結婚し、外国に移住した女性たちのこと。移住先の多くはアメリカだが、オーストラリア、イギリス、ニュージーランドなどに渡った人も。戦争花嫁たちは日本社会から蔑視されたほか、渡航先でも人種差別などの偏見に苦しんだ。
呉
あの作品は、オーストラリアの国立図書館に収蔵されていた、日本人の戦争花嫁さんたちのニュースレター(日経国際結婚親睦会ニュースレター)から発想を得ました。同じ境遇にある戦争花嫁さんたちが、お互いの近況報告や経験を投稿し、それに対するお返事も掲載していくようなお便りのコーナーがあって。展示に先立つワークショップで水戸在住のいろいろな方々にニュースレターを朗読してもらい、その中から読まれた方の気になった部分をピックアップして、作品とともにその朗読を流すという音のインスタレーションをしました。
──AA
自分が経験できない戦争花嫁さんの時間と空間を、それぞれの人が自分と照らし合わせながら想像するという作品でしたね。この、戦争花嫁さんと同じようなテーマを社会科で扱ったとしても、このような深いところまで到達できないんじゃないかと思います。歴史の事実の一端を「知った」にとどまる。でも、優れたアーティストの作品は、参加者、観覧した人の経験の内奥にまで行くことをうながす。あるいは、経験として深く刻まれていく。注目すべきは、出来上がった作品だけに限らないとも思いました。
呉
そうですね。私もどのように作品にしていくかという「過程」の部分が重要だと思っています。なぜなら、どんなふうに過去を想像するかで、現在、未来の考え方が変わってくるからですね。ですからどのように近づいていくかをいつも試行錯誤しています。例えば、水戸の作品の場合では、ワークショップの部分。それと、インスタレーションで鑑賞者が自分から音を聞こうとするところですね。
──AA
音声もただ朗読劇のように再生されていたら、イマジネーションはあそこまで発動しないと思いますが、耳を傾けなければ聞こえないような音量で朗読が流れていました。そうすると、鑑賞者の動きも変わります。聞こえにくいと、何だろうって立ち止まって身体をかがめて聞こうとするかもしれないですし、文脈と文脈をつなごうとして、想像することにもつながります。聞くことと想像することがひとつの空間の中で、ちゃんと立ち上がるのは、本当に美術でしかできないことだと思いました。
答えが出ない複雑な問題への問いを持ちつづけるには
呉
私の作品は、見る人の想像力に頼る部分が大きいので、何を経験し、何を知っているか、どのような経験を経てきているかで、作品への向き合い方がすごく変わってくると思いますが、それはそういうものだと思っています。逆に、見る人の経験と作品が結びついたときに、その人の想像力によって、点と点がつながるような豊かな瞬間があるんじゃないかと思っています。
──AA
作品と鑑賞者の間には、それまで鑑賞者が見てきた経験の数だけ隙間があるはずですが、一方で、それを想像してない作品も世の中には存在します。言いたいことだけ言う、「作品」として、ガッと提示するような、それこそ先ほどの中心をつくる、つくらないの話ではないですが、中心をつくってメッセージを打ち出すような作品ほど評価される傾向があることも確かで。
呉
そうですね。メッセージ性が強いことがよしとされる風潮はあると思います。
──AA
でも、それは、もしかしたらマッチョ(権威的)なのかもしれないと思うこともあります。
呉
私もそれはマッチョだと思っています。ちょっと大きな話になりますが、今の美術の潮流にも欧米の文化がつくり上げてきた流れがあり、評価される作品の傾向がある程度決まっているところがあるでしょう。ただ、私がテーマにしていることは、その流れにのってはこぼれ落ちるものがある思いますし、その手法では近づけないという思いもあるんですよ。だから、そうじゃない方法を模索するんです。
──AA
それは社会の中での人と人のコミュニケーションでも大いにあることですね。それこそ、小学校というシステムの中にも昔から権力の構造はある。決められたカリキュラムにのっとって、一律に教育するというトップダウン型の義務教育のシステム自体がまさにそうですし。もちろん、子ども一人ひとりの人格や人間性を100%尊重することはもしかしたら難しいことかもしれないのですが、学校というシステムがそういう構造を持っているということに自覚的であれば、学校も変わる可能性はある気がします。呉さんは、学校におけるそういう部分を感じたことはありますか?
呉
私は、そこにあまり疑問を持たずに毎日を過ごしていたと思うんですよね。小学校も大阪の公立の小学校で、クラスに5、6人は在日の子がいるような地域でしたから、クラスのみんなもそこは受け入れてる感じがしました。
ただ、学校は時々逆差別になる瞬間が生まれるんですよ。例えば差別してはいけませんといって、クラス全員で同和教育のビデオを見たりするんですよね。たしか5年生から6年生のときでしたけど、それまでは全然認識してなかったのに、クラスみんなでそのビデオを見て、居心地の悪さを感じたことは覚えています。自分が差別の対象になるんだという認識になるじゃないですか。
──AA
とくにビデオだとコンプリートされた価値として見てしまいますよね。
呉
だから、示し方だと思うんですね。どんなことだって、いじめは駄目だし、差別はいけないことです。でもそこでビデオとして見せることで、結局そういう構造があることの説明にしかなってなくて、例えばなぜそういうルーツを持つ人たちがこのクラスにいるのかという本質的な話になっていないんですね。ただ「差別してはいけない」と言うだけで、その子どもにとっての理解にもつながらず、差別の対象として内面化していくことにしかならない。
そのときに、例えば私のお祖母さんがどこから来て、あなたのお母さんはどこから来て、とういう話から始まっていれば、ルーツが違う人たちがこのクラスにいるんだねというだけの話だと思いますし。
──AA
しかも、それはすごくいいことですね。全体から何かを切り出して、わかりやすさ、という謳い文句に則ってある部分だけフォーカスする、ある価値観に基づいて周りを削ぎ落とすのは、権力のやること。
呉
そこで子どもたちもいろいろな文化を学べるし、違うルーツの人たちがクラスにも世界にもいるという理解につながることなんじゃないかと思うんです。
──AA
そうですね。あらゆる声による、発言の機会が保証されなければいけないですね。
呉
それと、これは大人になってから思ったことですが、私は自分のルーツを意識して、手繰り寄せることで、いろいろな歴史や出来事を知ることにつながりました。もし他の人もそういう知識や経験があれば、在日への理解ももっと違った形になったと思いますし、そのことについてお互いに話もできますよね。結局知らないから話せない、聞けない、聞いちゃいけないというふうになる。
──AA
本当にそうだと思います。なんだか少し怯えている部分もあります。
呉
私は大学の4回生のときに、それまで使っていた通称名から、韓国名を作家名として使うようになったんですね。やっぱりまわりの友達はびっくりしていました。ずっと日本名を使って大学生活を送っていたのに、卒業制作では韓国名で作品を発表して、「あれ誰?」みたいな感じで。
そのときにすごく仲が良かった友達とその話ができないことへの違和感があって。自分の隣にいる人にそういうことを知ってほしいと思っていた部分があったと思うんですね。このことについて、触れてはいけないことではなくて、知ってほしいし、オープンになればという思いがありました。
──AA
それは、先ほどの話にも通じることですね。自分の選択に関わらない問題がたくさんある中で、良い悪いでは言えないことや答えの出ないことがあるということを受け止めて、尊重し合える関係性をつくることを苦手とする日本人は多いと思います。だから、問うこともできない。在日の人たちにある種の後ろめたさがある日本人は多いのではないでしょうか。
呉
それが不思議だなといつも思うんですよ。
──AA
多くの日本人が、第二次世界大戦のときに、日本がアジアの国々に侵攻し侵略して、どんなことをしてきたのかということをおぼろげながら知っているのに、国がやり始めた戦争に国としてけりをつけてないどころか、国民としても何か自分には関係ないことのように思ってしまうところがある。それは良くないことだと思う感覚も一方で持っているのではないでしょうか。私自身の中でも幼い頃から薄ぼんやりとしたあいまいさがあります。
日本の義務教育では、古い歴史については学ぶけど現代史を教えないですし、パール・ハーバーのことや侵略戦争に対しても何よりも知らされていないし、自ら知ろうともしないとも思います。自分たちがしたことが何だったのかという問いがないまま来ているので、子どもに対してもうまく説明ができない部分があるのだと思います。
ただ、今日の、これだけ大きな戦争が世界中で起こっているときに、これから生きていく子どもたちは、これはどのようなことなのか考えることのできる状況があった方がいいと思うんです。ガザでたくさんの人々、たくさんの小さな子どもを殺していることについて、人はここまでできる生き物なんだということを逸さずに考えた方がいい。もちろん大人もね。
しかももっと悪いのは、それを私たちはモニター越しに見てるという構図がずっと続いていることです。ユニセフだったかセイブザチルドレンだったか、事務局長が来日したときに、日本に対するメッセージはと聞かれて、「このことに慣れてしまわないでください」と言ったのですが、それは本当にそうだなと思いました。テレビをつけたら、また戦争のニュースかと思ってしまう。それはテレビだからそう思うわけで、目の前で起こっていたら……。
呉
そうは思わないですよね。
──AA
そういうメディアの問題もすごくあると思います。さきほどの伝え方や考え方、捉え方の話ではないですが、ちゃんとフェアに問い続けることがどう保障されていくかという話と近いんじゃないかと思います。
問題を抽象化させないために身体を動かして肉体に残していく
──AA
先日、ある講義に呼ばれて、美術においてテーマや問い、作品が生まれるまでの間に何があるのかという話をさせていただきました。それは今の話で言えば、素材を選ぶということやお祖母さんの出自を訪ねて行くことよりもさらに前にあること。ひとりの人として気になること、心にかかることを突き詰めて、テーマを問いに転換する。そこがすごく大事で、結局、問いと答えは一対一にならないことが多いので、テーマが適切な問いになるまでの間にどれだけその人が道を手繰り寄せるために時間を割いたかという過程が大切。作家自身の自分の中の自問自答、あるいは作品を前にして鑑賞者の内面的な問いが生まれること、その応答に意味があるのかな、と思います。逆に、対話の余地もなく提示されるような作品にはリスクも感じますからね。
呉
そうですね。やはり、アートにおいて試行錯誤は必要ですね。素材を使う場合は、素材ごとにどこまで何がやれるか模索したり、技術的にできるかどうかを何度も試します。そうやって身体を使うと、違う思考回路が生まれてくることがあって、実はそれが美術や造形の中にはひとつすごく大事な過程として存在するはずだと思うんですね。
もちろん、現代アートはコンセプトがすごく重要ですから、表現方法は本当にいろいろあっていいと思いますが、自分が作家としてやっていくときにやっぱり手や体を使って素材を触りながら制作するということを手放したくないなというふうに思うんですね。なぜなら、祖母が語れなかったことを抽象化させないために、自分で素材を触って、織っているので。そうすると、自分の体を通して素材の質感や手触りが肉体の中に残るんです。
──AA
抽象化させないために具体的な作業として自分の体で知るということは、すごく大事なところですね。抽象化という作業は決して全否定されることではなく、物事の本質を掴み取るためには必要な過程だと思いますが、単純な意味で言うところの抽象化は、微細なものを見なくてもいられるようなメカニズムがある。ある意味楽なことだと思うし、実は暴力性もはらんでいると思います。
本来、人間はもっと生々しいものなんだから、極力抽象化せずに微細なものや手触り、子どもであればその子の手触りで生きていくことを大事にしないと、その子自身も抽象化されてしまうのではないかと思います。
とくに今はタブレット端末の活用が進んでいるので、子どもは画面をタッチして知りたい情報を知ることができますから。でも、それはひとつの面から捉えた「情報」にすぎない。生々しい問いの往還は生まれにくいのでは?と感じます。
呉
情報は、想像力の糧になるもののひとつではあると思うので、以前よりも簡単に情報を得られること自体は、もっと広がっていってほしいことだと思います。だからこそ、情報がただ流れていくだけではなくて、とどまったり、一つひとつの種になっていく部分があってほしいと思います。
──AA
つくることがきっと大事なことですよね。自分自身の感情も抽象化されて、上澄のような気づきや思考をコピー&ペーストしたみたいになってしまわずに生きていくためには、身体を動かしてつくってみること、素材に触ってみることが単純な抽象化を食い止めることにもつながるかもしれません。具体的で生々しく、答えのない揺らぎに踏みとどまること、それが学校においては、美術の時間や図画工作のできることだと思うし、もしかしたら社会全体の中で、アートができることはそこにあるかもしれませんね。
(2024年7月11日 文・取材構成:草刈朋子)