描くことは「ままならない」からこそ面白い

──アートフル・アクション(以下AA)

今日は、丸木俊、位里夫妻の描いた《原爆の図》を展示している丸木美術館の学芸員、岡村幸宣さんと一緒に、子どもにとって「描くこと」はどういう可能性を持っているのか話し合っていきたいと思います。描くとひとことで言っても、きれいなものを描けばいいとか、写真のようにそのまま写し取ることだけが描くことでもないはずです。そもそも人間にとって描くことは、一体どういう行為だと思われますか。

岡村

私は、「描く」ということは身体的行為ですから、頭で考えた通りにいかない「ままならなさ」がつきまとうものだと思っていて、でも、そのギャップやズレ、はみ出す感じがすごく重要だと思っているんですよ。

  • 岡村幸宣さん

岡村

当然ながら、イメージ通りに描きたいという欲求は誰でもあるものだし、写実はまさにそういう訓練だと思うけれど、身体的にも技術的にもいろいろな理由があって、ともすると思うように描けないわけですよね。ただ、そういう「ままならなさ」があるからこそ、現実から遠くに飛ぶことができるし、飛んだ先で現実について考えるきっかけにもなり得るんですよね。

たとえば、丸木美術館で展示している《原爆の図》は戦争の記憶をどう伝えるのかという視点から描かれた作品ですが、戦争を現実そのものとして記録するものではありません。丸木夫妻だけでなく、原爆投下後にスケッチをした画家はいるけれども、広島の平和記念資料館の展示の中心を占めるのは、原爆投下直後に撮られた写真です。やっぱり絵画は写真とは違うんです。

  • 《原爆の図第1部 幽霊》 写真提供:原爆の図丸木美術館 *《原爆の図》についてもっと知りたい人はコチラ

岡村

俊さんはすごくスケッチをする人なので、原爆が落ちた後の広島に行ったときもスケッチを描いています。でもそれは瓦礫や壊れた家が中心で、人のいない静かな風景画です。実際に体験したリアルなものをできるだけそのまま描写したのだと思いますが、いざ《原爆の図》を描こうと決めたときには、その風景を描こうとはしなかったんです。

──AA

描いたのは、人だった。

岡村

ええ。実際に体験したわけではない光景を描いています。それができるのが絵画の面白さですよね。「ままならなさ」の反面、目の前にあるものだけではなく、目には映らないものにも飛んでいけるところが絵画の面白さかなと思います。

──AA

スケッチを重ねていくことと、それを最終的に作品化していくことは、どういう違いがあるのでしょうか。何か自身の中で整理していくような作業なのでしょうか。 

岡村

芸術家は、そういった絵画の「ままならなさ」や飛躍に自覚的に取り組める人たちだと思うんですね。ですから、現実をそのまま写しとるものではないメディアの可能性を追求するために、一度自分の手法に則って現実を3次元から2次元に移し替えるトレーニングをする。そこで可能性と限界を見極めた上で、現実の奥にある世界をどういう手法でイメージとして定着させていくかを考えていくのが、芸術家の仕事かなと思っています。

  • 都幾川にて丸木位里と丸木俊、1980年代。写真提供:原爆の図丸木美術館

──AA

「ままならなさ」や思い通りにならないギャップは、子どもが描くことにも言えるでしょうか?

岡村

それを自覚的ではない形でやってしまうのが子どもだと思います。すごく飛躍した現実を描いたり、現実にはないことがいつの間にか紛れ込んでいたりするので、子どもの絵はすごく面白いものですが、みんな成長して大人になるにつれ、より現実に近いものを描くように変わっていきますよね。

もちろん、そうならない子もいますが、描くことは、人間の現実認識の成長と結びついているので、飛躍する力を自分で抑え込んでいきがちです。それは必ずしも悪いことではないと思いますが、そこでもう一度描くことで自覚的に解放していくことが、人間にとって実は大事なことのように思います。誰でも、自分が縛られている現実をいったん解き放って、見えていないものにまで飛んでいくことができるように思うので。

ある意味、《原爆の図》は、原爆を主題にして自覚的に飛躍を成し遂げた作品なので、原爆投下から80年が経とうとしていても、見る人たちがそれぞれの時代に共通するものを自発的に引き出せるような強さを持ったんだと思います。

──AA

描くことは、時間を超えていくこともできる。

岡村

私は、芸術をそういうふうに捉えています。

なぜ《原爆の図》は誰にでも開かれているのか

──AA

岡村さんが書かれた『《原爆の図》のある美術館』、『非核芸術案内』(ともに岩波ブックレット)を読んで、当時の人々が《原爆の図》と出会うことで心を動かされ、被爆の証言を寄せるなどの変化が起こったということに面白さを感じました。つまり、描いたものに何を見るのかというところですね。《原爆の図》が、受動的ではない能動的な見方を喚起したのではないかと。

岡村

私は、どうしても《原爆の図》が物事を考える基盤になってしまうのですけど、一般的に、絵を前にしたときの見る・見られる関係は固定されがちなものでしょうか?

──AA

もちろん様々な「見る」という経験があり得ると思いますが、ある種の絵画はそうかもしれません。

岡村

《原爆の図》は、良い意味で、必ずしも芸術だと見られていない気がするんですよね。なぜなら、一般的に芸術は高尚なもので、専門家以外は語れないというイメージが世の中に定着しているにもかかわらず、普段美術作品を見ていない人が《原爆の図》に対しては自然と感じたことを言えるんですよ。反対に、評論家しか語れない専門的な芸術の文脈で、《原爆の図》は長い間語られてこなかった。それが不思議だし、面白いなと思うんです。

  • 1952年8月に東京都立川市で 開催された「原爆の図展」の様子。映画『原爆の図』1953年、青山通春・今井正監督より

──AA

「原爆」という、歴史的にもすごく大きな出来事や問題をはらんでいることも背景にあるからでしょうか。

岡村

それもひとつあるとは思いますが、例えばピカソの《ゲルニカ》ならどうかというと、そうならないような気がしますね。やっぱり、一般の人たちの見方よりも、評論家がどう解釈をするかが優先されるように思います。

──AA

その違いは何でしょうか。

岡村

丸木夫妻は、《原爆の図》を描くときに、一般の人たちが見ることに意識的だったと思います。誰にでも開かれた絵でありたいという気持ちがあった。それは、原爆を描くからということもあるけれど、当時は芸術の民主化運動が興っていて、芸術家と観客が見る・見られる関係性を固定化しない、あるいは芸術家の一方的な表現ではなくて、描く・見るという双方向の関係性の可能性を追求していたこととも無関係ではないでしょう。

最近、町田市立国際版画美術館で戦後の民衆版画運動の展覧会がありましたが、あれも誰もがつくり手になるということをめざした運動です。木版画運動は、学校教育の中で現在に至るまで生き残っていきますが、あの「みんなでつくり、みんなで見る」という芸術の民主化の動きの中で、丸木夫妻も《原爆の図》を構想していた。そうした時代の影響も大きいと思います。

──AA

ムーブメントが並走していた。

岡村

そうですね。展覧会にたくさんの人が来て、みんな言いたいことを言い、あるいは体験者が証言をして、そういった声を受けとめながら、次の作品のテーマを構想するというようなことが起こっていました。もちろんつくり手は丸木夫妻なんだけど、制作には、観客も参加しているという関係性を30年以上ずっと維持していくんですよね。

ぶつかり、受け入れ合う「ままならなさ」が原爆の図を生み出していった

──AA

時代の流れもあったと思いますが、位里さんのお母さんの絵を見ると、そもそもとても開かれていた家庭に育ったのではというふうにも感じられますね。

岡村

スマさんですね。丸木スマさんは70歳を過ぎてから伸びやかで型にとらわれない絵を描きはじめた方です。そうした自由で開かれた環境はあったと思います。

──AA

原爆のような大きな問題を前にすると、多くの場合、自分にはわからないと閉じてしまいがちです。でも、《原爆の図》はとても苛烈な作品ではあるけれども、「とても悲惨なことが起こったから訴えよう」ということを通り越して、開かれているように感じるんですね。自分の持っているものなりで相対していいというか。全身で向き合うこと以外に方法はないんじゃないかと思いますし。

岡村

丸木夫妻も最初はひどいことを訴えようと思ったのかもしれないけれど、絵画はそこからはみ出していくんですよね。やっぱり現実を超えて絵というものが立ち上がっていく。それが最初に言った「ままならなさ」でもあるし、可能性でもあるということ。しかもひとりで描いているわけではないので。

──AA

《原爆の図》は位里さんと俊さんお二人での共同制作で、お互いに何か描いても上から塗られてしまうというような共闘的な制作だったみたいですね。

岡村

そうです。ひとりの世界に閉じないということが《原爆の図》のすごいところで。本来的に絵画は隅から隅まで自分の意図通りにコントロールできるものなので、他人の筆の介入は、普通は我慢ならないこと。ふたりのパーソナリティもそこでぶつかるんだけど、そこで相手を否定しないで、お互いに受け入れ合う。その開かれ方が絵の持つテーマにもつながるんですね。

  • 丸木夫妻の《原爆の図》制作風景。 映画『原爆の図』1953年、青山通春・今井正監督より

岡村

その開かれ方は、丸木美術館のあり方にもすごく反映されています。ふつう、自宅の隣に美術館ってつくらないですよね。毎日お客さんが来るし、煩わしいこともあるはずなんですよ。だけど、そこは地続きで、良くも悪くも境目がない。だから、ここに来ればいつでも《原爆の図》を見られるし、それだけじゃなくて、そこで散歩をし、絵を描いている作家にも会えてしまう。場合によっては、一緒にお酒を飲んだり、ご飯を食べてそのまま泊まっちゃったりしてね。そういう自分たちの身内だけではない人が常に出入りする場として、この場所を開いていましたから。

描くことがものの見方を鍛え、そして社会が変わっていく

──AA

今日のお話の通奏低音は、生きることと社会と美術のつながりみたいなことなのかなと思いますが、絵画によって社会や他者、自分に対して開かれていくことが加速されたりするのであれば、描くことの可能性は、何かを伝える、見るという機能だけではないのだなというふうに思ったりもします。

岡村

そうですね。丸木夫妻が戦後、《原爆の図》を描く前に取り組んでいたのが、「絵は誰でも描ける」という大衆芸術運動でした。その頃はまだ池袋に住んでいて、自宅のアトリエを早朝に開放してデッサン会を開いていました。そこにはのちに絵本作家となるいわさきちひろのような芸術家の卵も通っていましたが、社会の中でふつうに暮らしている人たちも一緒に参加し、絵の上手い下手で序列ができるわけでもなく、しかも順番になれば服を脱いで、互いにモデルになるという形で、みんなが対等に手を動かして描く場を設けていたんですね。

手を動かせば誰でも絵は描けるし、絵を描くことでものの見方が鍛えられ、社会が変わっていく。そういうことを大事にされていたんじゃないかと思うんですよね。

──AA

写真はものの見方を単純化するというようなことをスーザン・ソンタグが言っています。写真に撮られた悲惨な出来事は、本当に起こったことなのに、観る側の思考はそこで止まってしまいがちだと。だけど、絵画と向き合うことは探求を余儀なくされますね。

岡村

絵画は見る側が主体的にどこにフォーカスするかを決めなきゃいけないところがありますね。

──AA

そういう意味で、みんなが描くことは、社会の見え方や今起こっていることの捉え方、関わり方が変わっていく可能性を持つかもしれない。

岡村

そうなってほしいと思いますよね。逆説的な話ですが、戦争中に自由画教育が弾圧を受けたのは、ある意味、自由に描くことが統制する側にとって危険なものであることをわかっていたからだと思います。

──AA

逆に、為政者はその可能性も実はわかっていたかもしれませんね。

岡村

そうそう。文章も同じだと思うんですけど。まず現状を認識して社会の見方を鍛えることが、結果的に何につながるか。

──AA

自分たちを覆しかねないと。

岡村

おそらく、危機感を持っていたんだと思います。丸木俊は、戦前に千葉の市川で小学校の先生をしていたときに自由画教育の先端的な活動に触れるんですよ。その後、家庭教師の仕事でモスクワに渡るんですけど、弾圧前の自由画教育に参加したというバックボーンがあるんですね。

位里は位里で、シュルレアリスムとの出会いがありました。シュルレアリスムも軍国主義のもとで弾圧を受けますが、自分のコントロールを手放して、意識下の世界を探求していくとか、近代の合理性に対して違ったものの見方を考えるとか、そういうことをそれぞれが経験してきて、それが戦争という厳しい時代を生き延びたことで、戦後の活動につながっていくんですね。

──AA

ものごとを多面的に見ることや立場を入れ替えて見ることは、すごく大事なことですね。

岡村

ええ、常にいろいろな場所で、同時多発的にものの見方が更新されていくことが、生き延びるための非常に重要な力になると思いますね。

大事なことは、作品よりも「つくる経験」が自分の中に残っていること

岡村

先日、東日本大震災の津波で自分の作品が全部失われたという彫刻家の方にお話を聞いて、すごく印象に残った言葉がありました。

その方は、それまでは作品は残るものだから、自分よりも作品が大事と思っていたのだけれど、何もかも失ったときに意外と平気で、またつくればいいやと思えたそうです。つまり、大事なことはつくられたものではなくて、つくっていた経験が自分の中にちゃんと残っていること。それがあれば、これからも生きられると思った、というお話を聞いて、つくることはそういうことなのかと気づかされました。

──AA

私たちはどちらかというと、残るものをみてしまう。

岡村

そうそう、美術館は価値があるものを選んで残すみたいないやらしさがあるけれども(笑)、大事なのはそこではないと。それは、作家が特別な存在だからというのではなくて、もしかしたら人間誰しもがそうだという意味では、すごく平等で根源的な、ものをつくることに対する答えだと思いました。だから学校教育の現場の話に戻すと、つくる経験を奪っていくことへの危機感はありますよね。

──AA

プロセスがすごく重要だと。

岡村

そうですね。結果ではなくプロセスですね。本来ならば他の科目もそうなのかもしれないけれど、他の授業は点数化しやすい分だけ、結果を重視されやすい。図工や音楽は、点数化しにくいから、授業の時間が減らされがちなのかもしれないけれど、プロセスの意味みたいなことをすごく考えるには、とても重要な時間なのかなとは思いますね。

──AA

小学校の図工の授業で子どもたちを見ていると、棒を持てば即振り回すような子どもでも、ふと、とても思索的な表情をしているときがあって。それはその子が自身の中にきちんと自分自身として存在している状態なのだと思います。だけど、大人がつくった階段ばかりを歩かせてしまうと、その子が自分自身として考えることも奪われてしまう。

岡村

そうですね。

──AA

学校や社会は、やんちゃな子どものために統制できなくなることを嫌がりがちですが、その子自身が創造的であれば、大人の指示には従わないかもしれないけど、悪いことはしないんじゃないかと思います。その子自身として創造性が発揮されたのなら、この先も自分で更新していくことができるものだと思うし、排除するものではない。

岡村

この社会は、何らかの枠を決めて、その中でうまくやる人間を育てたいわけですよね。でも、その枠からはみ出しても、より良いものになるかもしれない。誰かが枠を設定するのではなく、自分でつくることが大事なんですよね。

自分の経験を振り返ってみてもそうですし、子どものときに図工や音楽が自分を取り戻せる時間だったと思う人は案外多いような気がします。他の科目と明らかに違うわけで。そこが学校に通う希望の時間になっているという子どもはいると思うし、図工や音楽の時間の意味を先生たちが理解して、子どもたちもすぐにわからなくてもいいから、なぜそれを大事だと思ったのかということを考えられるように成長してもらえるといいなと思いますね。

  • 思春期の入り口の6年生、「自分ってなんだろう?」と自問自答しながら自画像に取り組み、生まれたものを持って近くの公園までパレードし展示した。
  • 自意識とプライドと恥ずかしさがないまぜになって、でも、それを描くこと、描いたものが支えた。ゲストにアーティストのいちむらみさこさんを迎えた。
  • 子どもの感想のひとつに「今まで自画像は鏡を見ながら書くものだと思っていたけれど、自分で自分を触ってみることでもっと自分がわかりやすくなり、描きやすくなった。そして、自分のことを今よりもっと知ることができた」とある。
  • 写真4点ともにNPO法人アートフル・アクション『6年生の私 本町小自画像展』(2016年 小金井市立本町小学校)より 

図工や美術が、学校が開かれるための突破口になる

──AA

先日、6年生の子どもたちが描く様子を見ていたら、白い紙を前にして描くことにためらう子がそれなりにいて、描くことのハードルが高いと感じられました。子どもの中で、何かしらの制限みたいなものがあるのだなと。

岡村

6年生だともう失敗をしてはいけないという気持ちが働きますよね。今の子どもに限った話ではないかもしれませんが、「失敗してはいけない」という意識が年々強くなっているという話は聞きますね。そういう気持ちがなければ、白い紙の上に何かを描くという行為は、ちいさな子を見ている限りは、誰でも自然にできること。どこかでそれができなくなってくるんですね。

──AA

失敗してはいけないという気持ちは、第三者からの評価と関わることかもしれません。評価されることも人権問題に関わることで、人間が本当に対等であるとしたら、一方的に評価するのではなく、その逆があってもいいはずです。とくに図画工作は、正解などないのだから、やってみることが大事だし、それによって自分が放たれていく、あるいはより探究が深まるわけだけど、子どもの頃から良い悪いという評価に晒されてしまうと、描くことにも萎縮し、ものを考えたり多面的に見たり、想像したりする機会も可能性も捨ててしまうことにつながるのではないかと思うんですよ。

岡村

そうですね。子どもたちは自分が属しているコミュニティの中で、「失敗をしないこと」を先回りして察知できることが良しとされ、そこから外れていくと、「あいつは変だ」とか、「障害」という言葉が適切かどうかわからないけれど、一人前の人間とみなされないのだとしたら、学校から芸術の居場所がなくなっていくのが、わかるような気がします。

「求められている答えを見つけるのが難しい」から読書感想文を書けないみたいな話と同じですね。そう考えると、図工や美術の時間が、学校の価値観を一元化させないためにきわめて重要ですね。学校が開かれた場所としてあるために、そこが突破口になりうる。

──AA

子どもが、自分が感じたことがこれでいいのかなと思うこと自体、誰の目から見てこれでいいのかと思うし、正解を探すようなところに押し込まれていないかと思います。

岡村

これは、システムの問題なのかもしれませんね。私は、学校にしろ、社会にしろ、コミュニティが維持されるためには、(制度や組織などの)システムに頼り過ぎない方がいいと思っていて、なぜならシステムは簡単に硬直化してしまうものだから、限界があるわけですよね。

そのことをどこまで自覚できるのかも大事で、それを気づかせてくれるのが、システムに収まりきらない、計算できない存在です。その存在によってコミュニティは少しずつ変わっていくことができるし、生き延びるための未来の手がかりを得ることもできます。また、丸木美術館自体が、美術界においてそういう存在であるという意識もあります。

──AA

丸木美術館自体が美術界から外れた存在でもある。

岡村

ええ、日本社会の中で、(公営という)システムに組み込まれている美術館ではないし、扱っているテーマもアートシーンの王道とは言い難いです。それこそ、私が大学で美術館学や博物館学を学んでいた90年代は、公立美術館や企業美術館が華やかな時代でしたし、講義のサンプルとして丸木美術館が出てくる余地はありませんでした。でもそこがすごく私が惹かれた理由でもあるし、大事なところだと思っています。曖昧で辺境的な場所で生き延びてきたというところがね。

破綻した絵の持つ「わからなさ」が想像力をふくらますカギに

──AA

得体の知れない、わからないものを見続けることを可能にするのも美術の持つ大きな役割なのかなと思います。わからないものはわからないと言ってもいいとか。丸木さん世代の作家は、そういう「わからなさ」への歩み寄り方をいろいろ教えてくれますね。

岡村

もしかすると、そういうわからなさから、何もかも解明できる合理主義に飲み込まれていく社会を最初に経験し、そのことによって生まれる弊害にも最初に直面した人たちだったからこそ、美術に何ができるかをとても切実に考えたのかもしれません。

戦争や公害、あるいは労働問題もそうだし、いろいろな局面で、それまで社会が持ち得なかった大きなひずみがいきなり降りかかってきたわけですよね。そのとき若者だった人たちなので、自分たちの持っている技で社会に向き合っていけるかを前例がないまま試行錯誤していたと思います。その時代に生まれた表現はやっぱり今でも心を打つんですよね。

  • ひとりでは持ち上げることができないくらいの重さの広葉樹の丸太をひとり1本用意し、森に心地よく腰かけるためのものをつくった。
  • そうして出会った広葉樹を、次は描く。一つの体験があることで、次の体験の質が変わってくる。
  • 単に、ただ木を描くこととは全く異なる木が生み出された。 写真3点ともにNPO法人アートフル・アクション『森に腰かけてみる』(2023年 昭島市立光華小学校)より

──AA

丸木夫妻もそうですが、同世代の作家の方たちが、絵本界で活躍されていて、幼い頃によく読みました。子ども心に強烈な絵の印象が残っています。

岡村

丸木俊もそうだけど、池田龍雄や村山知義とかね。作家として、すごくヘビーな作品を描いている人たちが、生き延びるためでもあると思いますが、子どもに提供する絵を描いていた。今は絵本の世界もだいぶキャラクター化していますが、そういう商業ベースでつくられていく絵本とはだいぶ異なるものだと思います。

──AA

どういう違いがありますか?

岡村

キャラクター化された絵本の絵は破綻していないんですよね。俊の絵本や田島征三なんかもそうだけど、子どもから見るとめちゃくちゃ破綻していて自由なんですよ。なんだこのわがままな線はみたいな。

──AA

わけがわからないめちゃめちゃ大胆な面白さが大好きです。子どもは何度も繰り返して眺めますね。

岡村

そう、好きにやってる感じがしますよね。あのわからなさの余韻みたいなものが子どもたちの中に残るというのは、理想なんですけどね。

──AA

それ、すごく大事じゃないですか。子どもたちにはそのわからなさを背負ったまま、わからないものに出会ってもらいたいですね。例えば山で葉っぱがガサガサと動いたときに、何だろうって想像をめぐらせるような経験と結びついたりすると、すごく面白い。

岡村

記号化されないもののリアリティですよね。丸木夫妻が《原爆の図》に原爆ドームやキノコ雲を描かなかったのも記号化を避けているわけですよね。そうやって見る人に考えさせていた。

──AA

そこはすごく大事で、記号化すると、一見すると理解は容易になりますが、問いかけが少ないからわかったような気持ちになっているだけ。「わからなさ」を持って世界と向き合ったときに、次の「わからなさ」を自分で見つけやすくなるのかなと思います。つまり、自分をとりまく世界に対して疑問を持ち続けることができる。

岡村

それを日常の中から訓練していくことがすごく大事なんだけど、それができる授業が図工だということですよね。でもその図工自体が整った線をお手本にするような教え方だと、逆に記号化を強化することになる。つまり、もっと野蛮な線を描かせないといけないということですね。

──AA

「野蛮な線」っていい言葉ですね。人間は、もっと生々しいもの。それなのにこぢんまりとした方向に収まるしかないとしたら、それこそ人権問題です。

岡村

美術はいろいろなやり方があるので、記号化を進めるための推進力にもなってしまう。綺麗なイメージで戦争を見せるような力にも美術は使われるし、図工だからすべて良いわけではないでしょう。

──AA

描くことは身体を動かすことでもあるので、知識として覚えることよりも身体や心の中に深く刻み込まれる。あるいは、身体の中にあるものの全てが発動される。様々な影響がありますが、一方で、可能性もたくさんありますね。

岡村

そこをきちんと破綻させてあげることが大事ですね。

(2024年5月26日 文・取材構成:草刈朋子)