多摩の未来の地勢図 cleaving art meeting
cleaveという動詞には、「切り裂く」という意味と、「くっつく」という意味があります。切り離すことは接合することではありません。けれども、ごく単純に考えて、切り離すことは、切り離された対象を強くクローズアップさせる、そもそも、切り離すべく何かがなければ、切り離すという行為は存在しません。切り離すことはより強く結ばれていた実態を炙り出します。
首都東京を辺境として外から見ることを試みる、あるいは自分自身に執着する「わたし」を、辺境とし外から見ることを試みるとき、辺境としてのそれらを照らす光として、水俣、沖縄、福島、あるいは新潟といった、近現代の日本を支えた地に助けを借りたいと思います。反転させてみること、あちら側からこちらを見ること、これらを成すために、アートは時に思いもよらない(危ういながらも確たる、そして変わり続ける事を肯定する)足場を提供します。
水俣や沖縄、福島に立ち、首都東京を見ること、東京あるいは多摩を相対化し、立脚点をずらし、視点を変えていくことで、これからの私たちの暮らしについて、新しい眼差しを得ることができないか、という仮説でもあります。立脚点をずらしていくこと、その回転運動が血流をよくし、あるいは呼吸をしやすくするのではないか?
どのように、自分自身を外に向け、可能性を見出そうとするのか? その先にどのような空間を、関係を形作ることができるのか、対象と我、の距離を創造的に昇華させる道筋を、社会、のなかで探り続けてみたいと考えます。