ざいしらべとは何か
「ざい」は、材料とは少し違う。竹や広葉樹、藁や植物の絵の具は単なる材料ではない。その背後にはそれぞれの、例えば植物としての出自やどのように用いられてきたのかといった人との関わり、地域ごと、植物ごとの歴史がある。その過程で加工の技術や道具も生まれ、深化し人と共に育まれる。
また、「ざい」は、物質だけを指すものではない。人々が自然と交歓する中で生まれた季節ごとの生業、獅子舞や神楽のような芸能、盆や彼岸にとどまらない多くの暮らしの行事にある物事の決め方、決まり方、作法、様式、さらには忌や祈り、子別れの物語も地域の強烈な「ざい」だ。
そう考えてみると、ざいは無限だ。「ざい」とは、独立した物事ではなく、私たちが私たちを取り巻く世界とどのような関係を取り結ぶか、そのあらわれでもありその意味では「ざい」はいかようにも新しい意味を提示する。
もう一つ、「しらべ」についても考えてみよう。しらべる方法は知りたい内容によって方向づけられるものだ。既存の方法から発したとしてもそこに依拠するだけでは実はわからないことの方が多いだろう。しらべていく中で新しい問いが生まれ、問いの更新は、しらべ方の更新もうながす。問いと答えは一対一対応ではない。その合間の揺らぎこそが何かの気づきや発見の大切な源ともなる。
ざいしらべでは、まず、アートや文化ありき、ではなく人と自然の、あるいは社会との関係における、いわば否応なしの探究と対話、気づきによって何かが生み出されようとする過程を尊ぶ。教える、教えられる、授ける、授けられるものではなく、年齢や性差を問わず、その人がその人として、暮らしの中で取り巻く世界と出会う方途を探る過程をざいしらべ、としてみよう。その上で、身の回りの自然や出来事からもたらされるたくさんの物事とどのように出会い、相対して、出会い/己(おのれ)を更新していくのかを問いとする。
アーティストあるいはアートは新しい眼差しを提示する。アーティストあるいはアートは、時に、ざいしらべの過程にあって、自身の想念や気づきに固着しがちだったり、暮らしの中で漫然と見過ごしてしまうことに対し、新しい眼差しや営みによって気づきを更新する。いわば大切な撹乱分子だ。
ざいしらべは、そのアーティストたちとともに、学校や地域で物事を見る目、物事との関係を更新する試みを重ねる。未分化で複雑な身の回りの出来事や物事を解(だけ)を求めず、これが正しいと決めつけず、単純化せず、自己と周囲と対話を重ね、細部をあるいは大局を見る往復運動を繰り返していく。
ざいしらべでは、このような出発点から、素材や技術を探究する試みとして、図工専科の先生方と授業を通して実施した「技術と素材について考える」「素材の広がり」、その活動から生まれた成果を『つくることを考えてみよう 竹編』(2022年度)、『つくることを考えてみよう 広葉樹編』(2023年度)として取りまとめた。
また、2023年度からは学校にアーティストが滞在し、制作を通じて学校、子供たちとさまざまな思索、探究を行う活動を始めている。