菅野栄子さんのお話し

”俺家(おらぇ「私の実家」)の父ちゃんは父ちゃんでやったけどな。俺家の父ちゃんてのは、いいとこ(財産家)の生まれだから上品な人だったの。関沢っていうとこで生まれたんだから。そして財産もいっぱいあっとこの次男坊で生まれたから、だからお金取んのは知ってたって、やっちゃくねえ(働きたくない)人だ。
 でも、私は今になって思う。子供にでもなんでも、周りの人たちにでもなんでも、人間としての心は教えた。だから子供たちのごど好ぎで、雪いっぱい降っと、山で使ったそり、雪さ持ってって、近場の子供たちみんな集めて、ほいづさずっと茣蓙敷いて、そごさいっぱい子供たち乗せて、お正月一日はそり引っ張りしてた。あとは、前さ庭があんだ、そこんとこさ駒作ってくっちぇ、ほうして駒回しの親方してた。子供の心を育てるのが上手だったの。あと、お盆には笛吹きだの太鼓打つのは、うちの父ちゃんがみんな周りの子供たちさ教えてきた。
 だから死んでいくとき、近くの子供たちがいい父ちゃんになってるわけだ。で、なんだか死にそうなんだって聞いたからって、みんなお見舞いに来たんだや。まあ、こういう持ち主だったし、母 ちゃんは働くことを教えてくれた。父ちゃんが働かないから、母ちゃんが働かないと食っていかん ね(笑)。父ちゃんには、人のもっていない、そういうへき地の、へき地に住む人たちのその心のもち方と、子供の育て方だのなんかだの、そこの中で地域の文化もちゃんと、笛吹くことも太鼓叩く こともみんな教えてきたんだべ。ちっちゃい子供たちに駒回すことだって……鍛冶屋さんにこういう輪っか作ってもらって、山さ行ったときにその中さ入る木をちゃんと揃えておいて、駒作って皆んなさくっちゃ(皆にくれた)。そういう父ちゃんだった。
 んだがら、そういう中で育ってきたのも、私は恵まれてるし、まあ、やっぱりそういうのだって今思うと、この自然が教えてくれたんだって思ってる。都会にはないものがあっから、そういう中でこの自然が、私らの子供の時代に「生きる」っていうことの、その真髄を教えてくれたんだなって。一生懸命働いてっときは分がんねがったよ。こんなものは嫌だって、そうして踊り踊ってたよ。んだげど、やっぱり年を取って子供を持ったり、子供を生んだり子供を育てていくときの、厳しさとかっていうのは、この自然があったからちゃんと教えられた。そういうふうに思って、自然に感謝してる。
 避難区域になったから私は伊達東の仮設に避難したけど、末の娘達は新潟の三条に10年間いて、去年いわき市に帰って来た。子供が中学校終わったからって。そして今いわきの高等学校に行ってっけど、それでも上のほうは新潟の学校さ揚がって大学生が今一人いるの。新潟大学生。本当に私ら悲しい思いもしたよ。言葉さ表せらんにぇ。この原発なんて罪作りや。人間のやることなんて完璧だなんていうのはないよな。まあね、そういう中で豊かな生活をしなんねがら、この原発さ手付けたんだべ。
 私は東京さ行って、までいの生活について、「榮子さん、講演してください」って、しゃべってくださいって、あっちこっち行っとったのな。ほして新宿のパルシステムの事務所のとこさ入って、そこさ40人くらい入っていたか。男の人たちから女の人たち4、50人いたんかな。そこんとこでしゃべってるうち に、こういうことなんだと思うって言って、しゃべっているうち、泣いで声出ねぐなっちまったの。そしたらしゅーんとなっちまってな。そのうちの中にいる男の人が、男の声だったな。みんな黙ってい たときに「菅野さん、泣かないでください」って。「この東電のエネルギーは東京の人たちが利用し て、私らが使ったんですから、私らも黙ってはいれないから」って。ほうだな、泣がっちゃがら困ったんだべ。ほういった声が聞こえだどぎ「あっ」と思って、これは泣いてる場合 ではねえんだって。東京の人たちもこういうふうに感じて、私らも頑張りますからって言うんで。こ れは泣いてる場合ではねえんだわ。だからこの原発の避難している実情を間違いなく、自分で感 じたことを話していく役割があんだなって私は思った。だからうそは言ってねえよ。ちゃんと考えて しゃべれって妹にやっちゃ(言われた)げど、考えてしゃべってんだ。何かクレームが付いたときは受けて立つ わって言って、心の中ではそう思ってっけど。やっぱり公務員のしゃべり方とドン百姓のしゃべり方 は違うんだって。(笑)”(菅野榮子)

「東京ー飯舘村のあわい」 工程

1日目は飯館村の土地を実際に歩き、主に東京から訪れている私たちと飯館村の「距離」や「移動」、その「あわい」について考えました。飯館村に長く暮らしてきた菅野栄子さんのお宅にお邪魔し、さまざまな人に聞き書きを行ってきたゲストの藤城光さんと共に、菅野さんのお話を伺い ました。その後藤城光さんとともに参加者それぞれの、そして飯館村での経験を通した内省を深めていくワークを行いました。

2日目は、2022年8月30日に避難指示が解除された双葉町を歩きました。双葉町にはまだかろうじて10年前の景色が残っていますが、その景色も日々整備され、新しい建物が次々と建てられています。様々なあわいに置かれている双葉町を参加者と歩き、その風景をそれぞれの方法で経験しながら考えました。

◉<2022年10月8日(土)>
❶いわき駅前〜飯館村
1、いわき駅前集合。ゲストの藤城光さんよりノートが配られる。
2、これから車に乗り、飯館村に向かう道のりのなかで思考するための言葉が書かれた第1の紙が配られ、参加者はそれをノートに貼るように指示される。今回の旅では、この貼られる言葉を ヒントに、参加者がノートに書き込んでいく。
3、いわき駅より、飯館村へ向かって移動を開始。
4、飯館村佐須へ到着。車を降りる。
5、第2の紙が配られる。ノートに貼る。
6、藤城さんに導かれつつ、飯館村の農道を菅野さんの家へ向かって30分歩く。 7、第3の紙が配られる。ノートに貼る。
8、菅野さんの家へ到着。お宅にお邪魔する。
9、菅野さんのお話を聞く。
10、菅野さんの家を出た後、参加者に第4の紙が配られる。ノートに貼る。
11、今日の経験について、経験の段階ごとに分けて皆で話す。
12、最後の紙が配られる。ノートに貼る。

◉<2022年10月9日(日)>
❶飯館村〜双葉町
1、藤城さんのワークをふりかえりながら、飯館村から浪江町へ向かう。
2、浪江の請戸小学校を見学する。
3、双葉町に到着。町の中を自由に歩く。
4、双葉駅前再集合。本日のふりかえりを行う。
5、双葉駅前解散。

最後、藤城光さんから

 ”同じ道を通って同じ話を聞いても、それぞれのバックグラウンドによって、受け取り方が全く違う。どうそれを紡いでいくか。どう互いを受け止めていくか。背景を感じ成り立ちを知っていく、その地道で小さな積み重ねが大事なのではないかなと思っています。震災後は特に、置かれた立ち位置の違いや感覚の違いというものが、関係性を難しくしていくのを目の当たりにすることが多くありました。だからこそ「あわい」を通じて相手に触れる、もしくは自分が「あわい」となって相手に触れるということを、意識してやってきたように思います。”(藤城光)