re.* 生きることの表現について
2022年、「あわいを歩く」というテーマでワークショップを実施し、あわいを歩いている場合じゃないというおもいから、企画した今回(2023年)のワークショップ。私はどれくらい、李静和さんの言う、”判断停止を日常のものとしてしまう思考プロセス”(『求めの政治学: 言葉・這い舞う島』、岩波書店、2004年)に抗うことができたのだろうか。
今回のワークショップのタイトルになっているre.*にはいくつかの意味がある。reとは、繰り返す、再び、辿る、などの単語を作り出す英語の接頭辞だ。reの動作は、私たちの連続する生に様々に繋がっている。
「.*」(ドットアスタリスク)は、正規表現で使う記号の一つだ。正規表現とは、プログラミングなどで利用するある文字の並び(文字列)を検索する手法だ。「.」(ドット)は任意の1文字、*(アスタリスク)は0回以上の繰り返しを意味する。つまり、「re.*」と書くと、「re」の後に文字が0回以上つく、造語も含めた単語全てにマッチする(「re」のみもマッチする単語の一つに入る。)。「resist、 retrace、 record」という3つの「re」を今回のワークショップのキーワードとしたが、そこに「.*」とつけたのは、それぞれの参加者が、それぞれの「re」を見出してくれればいいと思ったからだ。
表現することは、水を飲むことやご飯を食べることと似ていると曽我英子さんは言った。人間の存在そのものが抵抗を表現しているのだとピョトル・ブヤクは言った。迫り来る現実に途方に暮れながらも、自身がどう生きるのかおもうこと。それこそが生きることの表現なのではないだろうか。アートと現実との乖離を感じる中で、このような「アートプロジェクト」の一端を担う者として、そして1人の人間として、何ができるのだろうか。世の中で「文化政策」の懐疑的な側面が議論される中、文化とは何か今一度考える。「一度全てがなくなった土地だからこそ、僕らには新しい文化をつくりだせる可能性がある。」これは本冊子の最後に出てくる、大熊町で読書屋を営む武内優さんの言葉だ。私たちは本当に今、それぞれが何をする「べき」なのか考える必要があるのだと思う。ここはあえて「べき」という断定的な言葉を使おう。切実に考えたいし、切実さを保ちたいからだ。私は今、この時代を生きているから、諦めることはできないと思う。諦めるなら、諦めるなりにここでの生き方を模索し、その行く末を見届ける覚悟が必要なのではないか。表現することで生きるのではなく、生きることやその生き方が表現なのだ。
私たちは自分たちの生を考えるために、様々な他者の助けを借りる。昔、そして今の飯館村を菅野榮子さんと訪ねる。1人の人間として大きな矛盾(近代)に立ち向かい、生きる木村紀夫さんの話を聴きながら大熊町を歩く。武内優さんと、この先交差するかもしれない出会いへ歩みを進めるために、話し、考える。
私たちはどのように訪ね、辿り、立ち止まり、そして歩き続けることができるのだろうか。それぞれの方が、地が、その生き様を通して、訪ねた私たちに問いかける。さあ、あなた方は、どう生きるのか。あなた方の生きることの表現は、なんなのか。
特定非営利活動法人 アートフル・アクション 森山晴香