昔、京都の染色会社で働いていた。(84年〜87年)反物をピンと張って、柄を置いていく作業を行うために伸子針を使った。入社して最初に渡される。今だと新入社員にノートパソコンが配られるみたいな感覚。新しい伸子針は真っ直ぐで、強く、竹の両脇に針がついている。そこに電熱を当てて少しだけ曲げる。曲げすぎると弱くなる。張力が強いままだと生地をつきやぶって伸子針が飛んでしまう。この曲がり具合を体で覚えていくのだ。張っている布の張り加減や竹の湾曲を体感で覚えていくのだ。
この加減がまた難しいがうまくいくとずっと使える。会社辞めるまで同じ伸子針を使っていた。自分なりの布の貼り方の好みの張り加減ができる。そういう意味で竹の伸子針はとてもよかった。

 1987年頃、手書きの染物会社が大量に倒産した。バブルが弾けたのだ。急速に京都の染物会社は駐車場やマンションに置き換わった。着物を作る会社をやっているよりマンションを建てた方が儲かるからだ。着物の染物が、カラーコピーのようにできるようになってしまい、染めて作る業界ではなくなってしまった。カラーコピーの方が安くて手っ取り早いから。同時に職人が一気に職を失った。手書きの染物会社は下絵を描いて糸目置き、彩色、地いれ、金箔をやる人、水洗する人など分業がすごかった。カラーコピーになった途端、分業していた人の賃金が入らなくなった。カラーコピーのデザインができる人がいれば良くなった。

 竹と使う人の間には身体的な関係がある。どのくらい力を入れればどのくらい曲がるか、体がわかっている。伸子針の中には節が入っているものと節がないものがある。細かい線を描きたいから布をピンと張って欲しいときは節のあるものに入れ替えたりしている。プラスチックは全部均質でそんなことはできない。節あり、節なしの特性を、身体的に覚えていて使い分けているのだ。他の人の伸子を借りるとしっくりこない。自分体にあったものがある。体と道具が親密だった。プラスチックだと、人がプラスチックの貼り具合に合わせていかないといけない。呼応がない。その時は、みんなそれを使ってたし、この仕事がなくなるとは思ってなかったので、改めて何故伸子針は竹でできているのか考えたこともなかったが、なくなったからこそ、あれは何故竹だったのだろうか、とか、竹であるべき理由があったのではないかなと考えるようになった。まだ今でも続いてたら考えなかったかもしれない。そこが「作ることを掘り起こす」ということを考えるきっかけになった。(瀧本